第17話


 小牧と一緒に買ったシャーペンを、私は無意識のうちに使い続けていた。

 このぬいぐるみは、どうなのだろう。何となく捨てるのがかわいそうだから置いてあるだけなのか、そうでないのか。


 シャーペンと違って、ぬいぐるみは何となくで使い続けるものではない。それを入手した経緯も、そこに宿る思い出も、忘れられるはずがない。ぬいぐるみにはそういう力があって、現に私も、見た瞬間にそれを思い出した。


 やっぱり、わからない。

 小牧は一体なんなんだろう。小牧から見たら私もわけがわからないのかもしれないが、お互い様だと思う。


「……嫌いだったら、いつだってそう言ってくれればいい。そうすれば、私だって」


 私だって、何?

 言葉は音として喉から出てくることがなくて、途中で引っかかって苦しくなる。


 じっと見つめていると、小牧がゆらりと立ち上がって、私を押し倒してくる。硬いカーペットの感触が背中に伝わり、少し体が痛くなる。小牧はそのまま私にまたがって、顔を近づけてきた。


 熱でどろどろに溶けたかのような瞳が、私を映していた。

 風邪を移すつもりなのか、小牧はそのまま私に唇を重ねた。いつもより熱くてベタベタした唇が、私の唇を溶かしてくるような感じがする。舌がゆっくりと滑り込んできて、スポドリか何かを飲んだせいなのか、甘くなった彼女の唾液が口内に流し込まれる。


 喉で詰まっていた言葉が彼女の唾液に流されて、消えていく。

 それでも胸の奥が苦しいままで、私はこれ以上、どうすればいいのかわからなくなった。いっそ彼女に大事なものを全て捧げれば、この関係も終わって、苦しさもなくなるのかもしれない。


「わか、ば。私は……」


 彼女の体が傾いて、私の上に倒れ込んでくる。額に手を当ててみると、かなり熱くなっていた。やっぱり、早く帰った方がよかった。


「いい。もう何も話さないで。全部わかったから、ゆっくり休みなよ」


 本当は、何もわかっていない。

 私は意識が朦朧としているらしい彼女の体を必死になって抱き上げて、ベッドに寝かせる。


 彼女の体は熱く、汗をかいていた。

 しばらく頭を撫でていると、やがて彼女は静かに寝息を立て始めた。寝顔はあまり安らかではないが、良い夢を見ていればいいと思う。


 話せば話すほど、キスを何回もすればするほど、小牧のことがわからなくなるのが不思議だった。普通は会話を通じて、理解を深めていくはずなのに。


「嫌い」


 私の言葉はとっくに力を無くしている。彼女に抱いていた嫌いという感情はピークを過ぎて、緩やかになり始めている。


 気に入らない、のは確かだと思う。でも、同時に、幸せになってほしいなんて思っている。


 私の感情は宙ぶらりんで、一貫性がなくて、自分自身それに振り回されている、気がする。自分がどうしたいとか、何を考えているとか、わからないから面倒臭い。全部、全部小牧のせいだ。私がおかしくなっているのも、心の大部分が私のために機能しないのも。


「……泣かなくていいんだよって、言ってたら」


 小牧の髪を指で梳く。さらさらした髪は少し汗で湿っているような感じがする。


「変わってたのかな、私たちも。……ほんと、なんでこうなったんだろ」


 撫でている間だけは、少し表情が和らぐ。でも、ずっと撫でてあげられる訳じゃない。


「馬鹿。小牧の、馬鹿」


 小牧がもっと馬鹿だったら。今みたいな関係にはなっていなかったかもしれない。ずっと友達のまま、わけのわからないキスなんてせず、楽しく過ごしていたのかもしれない。


 でも、きっと、小牧が小牧じゃなかったら、私が彼女に勝負を挑むこともなかったから、そもそも友達にもなっていないのだろう。


 ままならない。

 何かを掛け違えて今の関係になってしまったのなら、いっそ。

 いっそ、もっともっと掛け違えてしまえばいいのかもしれない。ねじ曲がったその先に、いい未来が待っていたり、するかもしれないし。


 私は立ち上がった。こんなところでうだうだ考えていても仕方がない。

 そのまま部屋を出ようとして、ふと彼女の唇が目に入る。


「梅園」


 小牧は答えない。寝息だけが、部屋に反響していた。

 私はそっとその唇に口づけをした。熱くも甘くもない、ただ触れるだけのキスだ。


 唇に触れた。それ以上の感想はなく、胸が高鳴ることも、苛立つこともなかった。自然体でキスできるのは、いいことなのか悪いことなのか。


 どうでもいいか、そんなの。

 これからも私は勝つまで彼女にキスされるだろうし。


 でも、じゃあ、私からキスするのはどうしてなのか。キスをしたって何一つとして掴めるものはないし、自分の気持ちも彼女の気持ちもわからない。なのに私は、キスをした。

 私は意味もなく病人の唇にキスできる人間ではないはずなのに。


「……はぁ」


 小さく息を吐いて、歩き出す。その時、足が何かに当たった。見れば、小さなテーブルの下にバッグが置かれている。白い小さなトートバッグは、お出かけの時に小牧が使っているものだった。


 蹴ってしまったらしく、中身が散乱している。折り畳みの傘、キーケース、ハンカチ。


 それに、シャーペン。

 私が無意識のうちに使い続けていたシャーペンとは色が違うけれど、同じキャラクターが描かれている。私のは背景がピンクだが、彼女のシャーペンは青だ。でも、どうしてバッグの中にこんなものが入っているのだろう。


「わかば……」


 声が聞こえて、私はびくりと体を跳ねさせた。

 起きたのかと思って小牧の方を向くが、彼女は寝息を立てていた。どうやら、寝言らしい。一体どんな夢を見ているのか。


 夢の中の私も、彼女に勝負を挑んでいるのだろうか。

 頑張れ、夢の私。夢でくらい、小牧に勝ってみせろ。


 馬鹿なことを考えながら、飛び出してしまったものをバッグに戻していく。私のものより綺麗な青のシャーペンを、最後にそっとバッグの中に入れる。


 キャラクターもののシャーペンは、外で小牧が使うには子供っぽすぎる。彼女が他者に見せているイメージとはあまりにもかけ離れているだろう。彼女も何となく無意識で使い続けているだけ、なのだろうか。


 いや、私の部屋に来た時、彼女は私のシャーペンにすぐ気づいた。使っている私ですら、小牧とお揃いだということは忘れていたのに。


 お揃いだと覚えていて、バッグの中に入れている。

 その意味は、多分今の私がどれだけ考えてもわからないのだと思う。だから私は頭の隅にシャーペンのことを押しやって、部屋の外に出た。


 小牧のお母さんに挨拶して、外に出る。

 白い入道雲がゆっくりと空を流れていた。


「……夏だ」


 私と小牧の関係がどうあれ、季節は流れる。時の流れに身を任せていれば、悩みも疑問もきっと流れて消えていくだろう。


 それでいい、と思う。

 深く考えるには難しすぎる疑問が、私の頭にはいくつも存在している。それに一つ一つ向き合っていたら、きっとおかしくなってしまうのだから。

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