第13話

「これ、まだ使ってたんだ」


 小牧は部屋の机に置いてあるペンケースから、一本のシャーペンを取り出した。それは小学生の頃にお揃いで買った、キャラクターもののシャーペンだった。

 学校で使うには子供っぽすぎるが、ずっと大事に使い続けてきたので、捨てるのも勿体無くて家で使っているのだ。


 あまりにも自然に使い続けていたから、小牧とお揃いで買ったことなんて、今の今まで忘れていた。


 私はどうにも居心地が悪くなって、そっぽを向いた。小牧がシャーペンを弄っている音が聞こえる。


「丈夫だから」

「ふーん」


 相変わらず興味がなさそうである。別に小牧との思い出を大事に持っていようとかそういう意図はないのだから、何恥じることもない。


 私はベッドに座ろうとしたが、いつの間にか小牧の方が先に私のベッドに座っている。

 おい、そこは私のベッドだぞ。我が物顔で座るんじゃない。

 私は仕方なく椅子に座った。


「わかばの匂いがする」

「何じゃそりゃ」

「乳臭い」

「どういう意味じゃこら」


 小牧はシャーペンを私の方に投げて、枕を抱え始める。慌ててキャッチしようとするが、失敗して床に落ちた。


 ため息をついてシャーペンを拾って、机に戻す。小牧とまだ仲良かった頃の記憶と紐づいてしまったシャーペンは、多分もう今までのようには使えないと思う。


 手に馴染む感じがして、好きだったのになぁ。

 私は残念に思いながら、椅子に深く腰を預けた。


「枕、潰れるからやめて」

「この程度で潰れないよ」

「潰れるでしょ。ゴリラだし、梅園」


 小牧は私の枕に顔を埋めて、匂いを嗅いでいる。流石に恥ずかしいからやめてほしい。変な匂いはしないと思うのだが、自分の匂いなんてわからないから嫌だと思う。


 これも嫌がらせの一環なのだろうか。私はペンケースに入れたシャーペンを突いた。


「そもそも、わかばには私にものを言う権利なんてないんだよ」

「またそれ。することも言うこともワンパターンだ」

「ワンパターンにメロンソーダばっかり飲む人に言われたくない」


 枕が飛んでくる。私はそれをキャッチして、机の上に置いた。ゆらりと、小牧が立ち上がる。私は良からぬ気配を感じて、体をのけぞらせた。


「今度は何するつもり? またお腹でも舐めてみる? それともキスでもする? 別にいいよ、したいならすれば」


 強気に言ってみるが、こう言ったら彼女は全く別のことをし始めるんだろうな、と思う。小牧は私の前に立つと、右手を差し出してきた。何の真似だろう。


「勝負」


 短くそう言って、彼女は私の右手を握ってくる。四本の指をきゅっと握って、親指を立てるようにするその握り方には、覚えがあった。記憶の奥底に眠っていた、遠い昔によくやっていた遊び。


「指相撲?」

「そう。十秒押さえたら勝ちね。よーい」

「ちょちょっ……」


 彼女は勝手に勝負を始めた。

 でも、指相撲ならもしかしたら勝ち目があるかも。

 私は細くて長い指を軽く握りながら、親指の動きを追った。彼女の親指は別の生き物であるかのように動き回り、私では捕えることができない。こんな単純な勝負で負けたらいよいよ何なら勝てるんだって話になる。


 私は必死になって彼女の親指を押さえ込もうとしたが、逆に彼女の指に押さえられてしまう。私の指よりも彼女の指のほうがよっぽど長くて綺麗だから、不利だと思う。でも、それを言い訳にしたって、どうにもならない。


「一、二……」


 無慈悲なカウントが花びらのような唇から漏れ出す。力だって小牧の方が強いのだから、抜け出せるはずもない。結局彼女に押さえ込まれた親指を自由にしようと全力を出したものの、少しも動かせずに終わった。


「弱すぎ」


 くすりと笑いながら言う。その表情は明らかに私を見下していた。

 ムカつく。ムカつくけど、何も言い返せない。

 一番自信があった中間テストで負けてから、私の心はボロボロだ。後十点が途方もなく遠くて、彼女の背中すら見えないような気がしたあの時。あの時から、私は迷子になっている気がする。


「ほんとさ。変わんないよね、わかばは」

「何が」

「弱いところも、手が小さいところも。色々、全部」


 心外である。これでも私は心も体も成長しているのだ。同じだなんて、彼女が私のことを軽んじているから出るセリフである。


「いつまで?」

「え?」

「いつまで、わかばは私のわかばのまま?」


 いつから私は小牧のものになったのか。尊厳を奪われている今の私は、小牧のものと言っても過言ではない……わけないだろう。


「……これまで変わらなかったんだから、一生変わらないままでいればいい」


 茶色の瞳が私を映している。私は体が動かなくなるのを感じた。脳が警鐘を鳴らしているような気がする。

 でも、何に?


「か、勝手なことを言わないで! 私、変わってるから。私は小牧が知ってる私なんかじゃないし」


 指を握っていた手が、手首に移る。いつの間にか、もう片方の手も私の手首を掴んでいる。ぎりぎりと、万力のような力で私の手首が締め付けられる。


 なんだ。なんなんだ。

 私は当惑しながら彼女を見上げる。氷のような無表情が、私を見下ろしていた。


「脱いで」

「……は」


 勝負に勝ったと思ったら、早速私の大事なものを奪おうとしてくる。私は一瞬固まったが、彼女が服を脱がしてくるのを見て正気に戻った。思わず彼女を突き飛ばす。私のパジャマを着た彼女の姿は少し滑稽で、でも、何か怖い気がした。


「わかった。わかってる。脱げばいいんでしょ、脱げば。自分でやるから触らないで」


 てっきり物を言う権利は無いだの言われると思ったが、小牧は意外にも何も言わなかった。だから私は脱衣所でそうしたように、服を脱いでいく。


 いつもしていることだ。制服に着替える時だって普通に部屋で服を脱ぐし、この前だって小牧に見られながら着替えをした。だから別段恥ずかしがることでもない。そう思いながらも、今日はこの前のようにはいかないと感じていた。


 部屋で裸になって、奪われる大事なもの。もし彼女が私のそれを奪おうとしているのなら、私は全力で抵抗しなければならない。


 いや、ファーストキスだってそう簡単に奪わせたわけでは無いのだが、今度の初めては本当に洒落になっていない。キスくらいならいくらだって言い訳が効くというか、小牧は嫌いな人にそんなことできるんだなぁ、くらいの気持ちでいられるのだ。


 しかし。私の中に引かれた線が、そっちは駄目だと言っている。

 それなのに服を脱いでしまうのは、有る事無い事小牧に言いふらされることを恐れているためなのか。

 それとも、今まで大人しく大事なものを捧げてきたのだから、今更だと思っているのか。

 どっちにしても、私は多分、相当頭が茹っている。


「ほら、脱いだけど」

「じゃあ、こっち来て」


 彼女はベッドの上で私に手招きをした。一歩でも踏み出せば、触れられる距離だ。その距離を埋めてしまうのはひどく恐ろしくて、身動きが取れなくなりそうだった。


 しかし、私の中の何がそうさせたのか、気付けば彼女の方に一歩、また一歩と足を進ませていた。


 そして、彼女の目に前に立った時、ぎゅっと強く抱き寄せられる。そのまま体を引かれて、彼女の上に乗るような形でベッドに倒れ込んだ。彼女の顔は見えない。


 二つ分の体がベッドを軋ませて、いつもより深くマットレスが沈み込む。一人分の重さしか知らないベッドは、聞いていないとでも言うようにきしきしと音を立て続けていた。


 腕を背中に回されて、無くしてしまった何かを探すかのように触れられる。少し冷たい指が私の上を這い回ると、私は体が震えるのを感じた。


「確かに、変わってる……かもしれない」


 彼女はそう呟いて、力を抜いた。


「前と感触は違う。見た目は同じなのに」

「見た目も違うから」


 私の声は、少しだけ震えていた。


「……覚えておくといい。これから先誰をこの部屋に呼んでも、この部屋でわかばを初めて裸にしたのは、私だってこと」

「忘れたくても、忘れられないでしょ。こんなことされたら」

「……なら、いい」


 彼女は私を自分の上からどかした。私はしばらく無言で彼女を見続けたが、彼女はやがて「服、着れば」と言った。


 これだけで、いいの?

 疑問に思いつつも、私は大人しく服を着ることにした。その間も彼女の視線は感じ続けていたが、特に何もされることはなかった。


 勝負のせいで空気感が変わってしまって、私たちは話す言葉すら忘れてしまった。私は仕方なく携帯ゲームを取り出そうとしたが、考えてみれば、二人でできるゲームはない。


 私たちは肩を並べてベッドに座って、黙りこくっていた。

 段々と肩が寄っていって、かすかに触れるだけだったのが、ぴったりとくっつくようになっていく。

 それでも私たちはどちらも、体を離そうとはしなかった。小牧の静かな息遣いを、耳だけでなく肩からも感じる。


 私は目を瞑った。

 小牧が変わってしまったきっかけを、思い出そうとしなくても思い出してしまう。あれは小学二年生の頃のことだった。


 あの頃私は小牧と一緒に遊んでもいたが、同時に毎日のように勝負を挑んでいた。尊厳云々という難しい話はなく、負けてもただ悔しいだけだった。


 ある日小牧は、私を家に呼び出して、相談に乗って欲しいと言ってきた。私がいいよと言うと、彼女は続いてこう言ったのだ。


「私、にんげんなんだよね? みんな私のこと完璧って言うし、何をしてもできちゃうから、怒られる。嫌われる。私、本当ににんげんなの?」


 今にも泣き出しそうな顔をしていたことを、今でも鮮明に覚えている。

 ともすれば嫌味に聞こえるようなセリフ。でも、彼女が本気で悩んでいることはその顔を見ればわかった。


 確かに、彼女はあまりにも完璧だった。何をどうしても完璧にこなせてしまうし、実は人造人間か何かなのではないかなんて疑問に思ったこともある。

 彼女もそういう疑問で、自分自身に恐怖を抱いていたのだろう。


「何言ってるの? 完璧だろうと何だろうと小牧は人でしょ! そんなことで悩まなくても大丈夫だよ!」


 人の相談に乗ることが多かった私は、いつものように悩みを笑い飛ばした。深刻に答えすぎても相手は沈み込んでしまうし、何でもないことのように笑って心配事を吹き飛ばすのが一番だと、私は思っていた。


 でも、それからだ。

 小牧が人を見下すようになったのは。

 あれ以来小牧は、目に見えて人を見下すようになり、それまであった不安のようなものが一切なくなり、別人みたいになった。


 同時に彼女は人から嫌われなくなった。猫を被るのが上手くなったのだ。しかし、必ずしもそれがいいこととは思えなかった。


 今でも思う。

 あの時、笑って大丈夫だと言うのではなく、泣かなくていいと背中をさすってあげていたら、今とは違う未来が待っていたのではないかと。


 心で流していた涙を拭いてあげていたら、彼女は今のように人を見下さなかったのではないか。考えても仕方がないそんな後悔が、あれからずっと私の心を刺し続けている。


「わかば。寝ちゃ駄目」


 小牧に肩を揺すられて、閉じていた目を開ける。彼女の顔が息がかかるほど近くに迫っていた。


 何でそんなことをしたのかは、自分でもわからない。

 ただ私は、いつの間にか小牧の唇を奪っていた。

 顔を離すと、小牧は驚いたように目を丸くしていた。私も自分に驚いている。だからそっと立ち上がって、誤魔化すように笑った。


「寝る支度、しようか」

「……枕」

「取ってきたら?」


 小牧は目を細めた。わかっている。私にはどうせ、拒否権などない。


「嘘。なってあげる。泣かれたら敵わないからね」

「しつこい。わかばの前で泣くとか、ありえないから」


 私の前じゃなかったら泣くの?

 そう聞くのは意地が悪い気がして、私は何も言わなかった。

 その夜、私は言葉通り彼女の抱き枕になった。眠る彼女の顔は昔から変わっていなくて、安らかだった。


 私も、変わっていないのかもしれないと思う。

 ずっと私の心は、過去の小牧に向いたままだ。


 小学生の頃の小牧に、中学生の頃の小牧。年々私の心を占める小牧の数は増えていっていて、このままでは小牧に押し潰されてしまいそうだった。


 ああすればよかったとか、小牧が何であんなことをしたのか、とか。そんなことばかり考えていたら、私がいなくなってしまう。だから私は小牧を追い出すように目を瞑って、眠りにつこうとした。

 目の前に小牧がいる状態では、それも叶わなかったが。

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