第12話
「いらっしゃい、小牧ちゃん。わかばが何か迷惑とかかけてない?」
お母さんは満面の笑みで小牧を迎えていた。小牧は私以外の人間に対してはいつもよそ行きの態度をとっている。私の両親もその対象で、小牧はにこにこと、無駄に爽やかな笑みを浮かべている。
「お邪魔します。わかばとはいつも仲良くさせてもらってます。ね?」
ええ、非常に仲良くさせていただいておりますとも。私はにっこり笑った。
「そだね。なかいいもんね、わたしたち」
あはは、と笑い合う。
お母さんは微笑ましいものを見る目を私たちに向けている。自分の娘が幼馴染に人権を握られているなんて思いもしていない顔だ。思っていたら怖いけれど。
私はそのまま部屋に戻ろうとしたのだが、小牧に引き止められる。
「待って。お風呂、入る。一緒に」
さっきシャワーを浴びたばかりではありませんか。言いかけて、止めた。
小牧は絶対に譲らない、といった顔をしている。何をしようとしているのかはわからないが、今日も勝負に負けた私は、多分彼女にまた大事なものを捧げなければならないのだろう。
大事なもの。
ファーストキス。デート。そういう類で、私が大事にしているもので、まだ彼女に捧げていないものといったら。
いや、流石に彼女も、そこまではしないだろう。いくら嫌いな相手を傷つけるためにキスをする人間であっても、流石に。
「着替え、私の部屋にあるんだけど?」
「……じゃあ、とってきたらすぐ入る。私、着替え持ってきてないからわかばのやつ着る」
「家近いんだから、持ってきたら? 私の服、サイズ合わないでしょ」
「別にいいから、早く」
「……風邪ひいても知らないからね」
私はため息をついてから、自分の部屋に戻った。私の服はどれも小牧が着るには小さすぎるが、その中でも大きめの服を選んで脱衣所に向かう。脱衣所に小牧の姿はなかった。洗濯籠を見てみると、小牧の服がある。すでに浴室に入っているらしい。
なんなんだろう。
小牧に尊厳を捧げてから、幾度となく抱いてきた疑問と不可解さを今日も抱えたまま、私は服を脱いで浴室に入った。
すでに彼女は椅子に座っていて、自分の髪を洗っている。普通の家だから、あまり浴室は広い方ではなく、私は立って彼女が体を洗い終えるのを待つことにした。こんなことなら、もっと時間をかけて服を選べばよかった。
ようやく彼女が体を洗い終える頃には、私の方が風邪をひきそうになっていた。
「先、入ってればよかったのに」
「私、体洗ってからじゃないと浴槽に入りたくない派だから」
「……まあ、わかるけど。私もかけ湯だけでお風呂入るの、ちょっと嫌」
小牧はお風呂に浸かりながら私を見ている。誰かに見られながら体を洗うのは初めてなので、少し、いやかなり落ち着かない。視線が全身に突き刺さるような感じがして、肌がピリピリする。
幼馴染ではあるが、私たちは頻繁に一緒に入浴するような仲ではなかった。こうして一緒に入浴するのは、これで三、四回目くらいだろう。小中と修学旅行に行った時、一緒に入った記憶はある。
二回とも彼女は私の隣で体を洗っていたが、見られてはいなかった、と思う。私が意識していなかっただけかもしれないが。
「私の体なんて見て、楽しい?」
私は髪を洗いながら問う。
「楽しくはないんじゃない。わかば、子供体型だし」
「馬鹿にしとんのか」
私は決して子供体型などではない。毎年徐々に身長も伸びてきているし、十年後には小牧を凌ぐモデル体型になっている……かもしれない。
うん、それは無理だろうな。
「寿司屋でジュース出されてそう」
「何その具体的な例。楽しくないなら見ないでよ」
「楽しいって言ったら、見てもいいの?」
「そういうわけでもないけどさ」
ああ言えばこう言う、とはこのことなのかもしれない。運動や勉強だけでなく、口でも小牧に勝てる気はしない。
口喧嘩では絶対負けるだろうし、キスの時も主導権を握られっぱなしである。別に、私が主導権を握って、彼女の顔がとろけるくらいにキスをしたいとか、そういうわけではないが。
無駄なことを考えている。全ては小牧のせいだ。
私は考えを振り切るように、ボディタオルで体を洗い始める。小牧が使った後だから、少し泡が残っていた。両親のタオルも置いてあるのに、的確かつ勝手に私のを選んで使う彼女の所業には、ため息をつく他ない。
小牧の体を洗っていた泡が、私の体を白く包む。それを想像したら、少し嫌になって、私は念入りにタオルをお湯で流した。
でも、結局小牧が先に浴槽に入ってしまっているから、お湯は彼女がすでに使っているものなのだ。
心だけでなく体までも、彼女に侵食されていくようだった。
だが、シャワーを使うのも負けな気がして、彼女の体をどかすようにして手桶を突っ込んだ。
「私だって、これでも成長してるから。高度成長期だし」
「成長のピークがその程度なら、数年後にはむしろ縮んでるかもね」
不可解な態度を取られるよりは、こうやって馬鹿にされる方がよっぽど安心できる。そう、私たちは本来こういう関係であるべきなのだ。
互いに嫌いあって、馬鹿にし合って、ぶつかり合って。こういう関係が別れるまでずっと続いてくれれば、言うことはない。
彼女が私の大事なものを欲しがる理由が、今も気になっている。あの時、あんたのことが嫌いだからとはっきり言ってくれたら、それでよかった。
嫌い合っているという前提が崩れてしまったら、先輩と付き合って、先輩を捨てたというあの事件はなんだったのかという疑問が生まれてしまう。
私のことが嫌いで、私を傷つけたいから。それ以外に、理由なんて思いつかない。そんな状態で余計な疑問を抱くのは辛いから、心にそっと蓋をする。
考える必要なんてない。どうせ考えたって、今更どうにもならないのだから。
「梅園は、大きくなった」
あの事件があってから、私はずっと小牧のことばかり考えてきた。
心が小牧に侵されて、自分のことも嫌いになって。
思えばあの時から、私の心は止まったままなのかもしれない。小牧に勝って、いい加減彼女のことを忘れなければ、前に進むことはできないのだろう。
「いつも泣いてばっかで、私よりも小さなかったのにね」
私は体を流し始めた。小牧の視線に含まれるものが変わる。興味や好奇心から、当惑や怪訝さへと。
「私、泣いたことなんてない」
「泣いてたよ。いつだって泣いてた。そりゃ、梅園の涙は目に見えないから、誰にもわからないかもだけど。……ほら、詰めて」
私は小牧の正面から、浴槽に入った。狭い浴槽で向かい合っていると、せっかく温かいお湯に入っているのに、余計に疲れるような感じがする。
はぁ、と息を吐く。それは心地良さのためではなく、気疲れのためだろう。
小牧の長い脚が伸びてきて、私を両側から挟むように浴槽にぴたりとくっつく。本当に、無駄に長い脚だと思う。白くて、すらりとしていて、思わず噛みついてやりたくなるような脚。
「わかば」
話の続きを促すような声で、私の名前を呼ぶ。言葉に込められる意味が変わるだけで、私の名前だというのに、全く別の言葉に聞こえる。
名前なんて、何の意味も込めずに淡々と呼んでほしい。そう思ってしまうのは、なぜだろう。
「あの頃の梅園のこと、嫌いだった。でも、多分、今はもっと嫌い」
私の嫌いという言葉には、どんな意味が込められているのだろう。感情を伝える言葉でないはずの名前だって、意味が込められれば形を無限に変えていく。なら、嫌いという言葉だって、込める意味が変われば、その言葉の本質すら変わるのかもしれない。
たとえば、好きという意味を込めて嫌いという言葉を発したら。
その言葉は、好きという響きで、人の鼓膜を震わせるのだろう。
私は確かに今、嫌いだと心から言ったはずだ。
「嫌い、嫌い、嫌いだよ。私は梅園のこと……」
言葉は途中で止まる。私ではなく、小牧が止めたのだ。
唇で唇を塞いで黙らせるなんて、本来ならときめくシチュエーションなのかもしれない。でも、小牧にされても胸がちりちりするばかりで、ときめくなんてありえなかった。
お風呂でふやけたらしい唇が私の唇に吸い付く。いつもより水分を含んだ唇に溺れそうになって、空気を求めて口を開く。それを待っていたかのように、彼女の舌が私の口腔内に侵入した。
いつものことだ。キスなんて唇同士を合わせるだけの行為に過ぎないのだから、もう気にすることもない。
いつか誰かを好きになって、好きという感情を込めてキスをしたら。その時はきっと、キスという行為に特別な意味を持てるようになるだろう。だが、そうなってもきっと、こうして高校一年の夏に小牧としたキスのことを、私は忘れない。
忘れさせないために、キスしているのかもしれない。
自分の存在を刻みつけるように、小牧は舌を絡ませてくる。
「私だって、わかばのこと、嫌いだよ」
その嫌いに、色はない。だから少し、困ってしまう。
「知ってる。……前に私のこと見えないって言ってたけど、私にとっては、梅園の方がよっぽど見えないな」
「見せたって、見ないくせに」
小さくそう言って、彼女は再び私に口づけを落としてくる。
ちゅっちゅと、馬鹿みたいに軽くて虚しい音が浴室に響く。
キスに憧れていた頃が懐かしい。萎んだ気持ちは、きっと大事なものを小牧に奪われてしまった証拠だ。
「だから、嫌いだ」
小牧は泣きそうな顔で、そう呟いた。今度の嫌いには、確かに感情がこもっていて、私はそれに少し安心してしまった。
自分でも馬鹿だと思う。でも、一貫性というものを感じると安心するのは、きっと誰でも同じだ。
嫌いなら嫌いで、態度を統一してほしい。私を傷つけることを楽しんでいるくせに、飲み物はメロンソーダを選んでくれるのはなぜなのか。考えても答えが出ないし、彼女の気持ちはやっぱりわからないから、私も混乱する。
だが、一貫性がないのは、私も同じなのかもしれない。
小牧のことは嫌いだ。嫌いだけど、傷つけたくはない。泣いてほしくもないし、苦しませたくもない。
だから私は、軽口は叩いても、無理に辛いものを食べさせたりなんてしない。
不公平だ、と思う。
私は今でも小牧の幸せを願っているのに、小牧はそうではない。小牧は私のことが嫌いなのだと、心から信じさせてもくれない。だったら私は、一体これからどういう顔で過ごせばいいのだろう。
恨みが消え去った後の嫌いという感情はひどく脆くて、それを頼りに関係を構築するには、弱すぎる。
思わずため息をつくと、また彼女に唇を重ねられた。
舌先から伝わってくる感情は、「嫌い」ではなかった。
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