第30話

 はぁ、と息を吐く。

 白く染まった息は瞬く間に宙に広がり、空気に溶けて消えていく。綺麗に白く見える時間は数秒にも満たない。それが少し、人間の一生にも似ているような気がした。


 ポエマーか、私は。

 私は手袋をつけた手をコートのポケットに突っ込んだ。あれから約二ヶ月が経ち、十二月になった。そして、私と小牧の関係は、少しぎくしゃくしていた。


 高校生になってからの私たちの関係は嫌いという感情で繋がれていたものであり、それが確かなものでなくなった今、私たちは寄る辺を失っていた。


 間が持たなかったら、嫌いと言えばいい。

 そんな安直な考えすらあったのだが、互いに嫌い合っていないとわかった今、嫌いという言葉を口にしたって何の意味もない。


 身体を重ねるのは、会話である。そんなわかったような口を利けるほどああいう行為について熟知しているわけではないが、私はあれ以来、少しだけ小牧を理解することができるようになった。


 小牧は私を嫌っていない。

 むしろ、絶対好きだと思う。その程度がどれくらいなのかはわからないけれど、やたらキスしたがるし、手も繋ぎたがるし、間違いない。


 でも、私は。

 好きか嫌いかで言えば、多分、好きの方が強いと思う。しかし、嫌いという感情で今まで蓋をされていた思いはいつの間にか自分でもわからないくらい曖昧になって、薄れていた。


 ずっと一緒にいたいとか、そういうの、あるんだろうか。

 今の状態で小牧と引き離されても、なんだかんだ普通に生きていけそうな感じはする。実際どうかは、わからないが。


「わかば、帰ろう」


 小牧に誘われて、肩を並べて歩く。電車に揺られて最寄り駅まで着くと、小牧が手を握ってきた。


 先輩との事件について、彼女は語らない。私も今までそれについて詳しく聞こうと思ったことはない。友達だった小牧に悪意をぶつけられた時の胸の痛みは、未だに少しだけ残っている。


 しかし、聞かないことには前に進めないとも思う。

 嫌いって言い合わなくなって、勝負もしなくなった私たちは、完全に宙ぶらりんだった。私は小牧とどうなりたいのだろう。というより、この関係をどうしたいのか、である。


 彼女に幸せになってほしいという気持ちに嘘はない。

 でも、別に私が隣にいる必要もないよな、と思う。小牧はどうなのだろう。私に忘れられたくはない様子だったが、彼女は私とずっと一緒にいたいと思っているのか。どれだけ考えても、答えは出ない。


「今日、梅園の家に行ってもいい?」


 私は小牧のことを小牧と呼べずにいた。元々は敵意から始まった梅園という呼び名。それを変えようとするには、何かが足りていない。


 昔みたいに笑顔で彼女の名前を呼べたら。その時は私も、こんな悩みとは無縁の私になっているのかもしれない。


「……いいよ。今日は、親いるけど」


 小牧の爪には、相変わらずネイルが塗られていない。

 おしゃれには結構気を使うタイプだと思うのだが、やっぱり、待っていたりするんだろうか。


 でもなぁ、と思う。

 あの日の私と今日の私には連続性があるが、同じではない。今彼女にしよう、と言われても、多分しないと思う。といっても、私の尊厳はまだ彼女のものだから、拒否権がないのは確かである。


「いや、そういうあれじゃないからね。話があるだけ」

「……そっか」


 彼女は無表情のまま、微かに眉を動かした。

 残念がってる?

 いやいや、まさか。残念がられても困る。


 なんでこんなことになっているのだろう。本当に、人生というのはよくわからない。私は小さく息を吐いて、彼女の家に向かった。





「座って」


 彼女に促されるままに、クッションの上に座る。彼女の家に来るのは久しぶりだ。思えばあの時から私たちの関係はおかしくなっていった気がする。私があの日、彼女のバッグにシャーペンが入っているのを見つけていなかったら。


 私たちはまだ、互いのことを嫌いだと言い合えていたのかもしれない。


 仮定には何の意味もないことは、わかっている。私はコンビニで買ったメロンソーダのペットボトルをテーブルの上に置いて彼女を見た。その瞬間、目が合う。彼女はみじろぎ一つせずに私を見ていた。


「話って?」


 口が重い。これは今みたいに宙ぶらりんの状態で絶対に聞いてはならないことだ。わかってはいるが、口にしなければ何も始まらない。私は静かに口を開いた。


「先輩。結城先輩のこと。なんであんなことしたのか、詳しく教えてほしい」


 小牧の表情が微かに強張る。彼女はぬいぐるみを抱きしめて、私からそっと目を逸らした。


 俯いたまま、動かなくなる。疑問を口にしてしまった以上、私は何分でも何時間でも待つつもりだった。ここで引いたら、何も変わらないと思う。


 小牧を名前で呼ぶかどうかも、彼女の話を聞けばわかるかもしれない。私は何も言わず、彼女が話し始めるのを待った。


 それから数分経って、ようやく彼女は顔を上げて私を見た。その顔は今にも泣き出しそうなほどに不安げである。それでも私は何も言わなかった。


「……だから」


 私は目を細めた。


「すき、だから」

「誰が?」


 聞く必要のないことを、わざと聞いた。小牧は身を乗り出して、私の両肩に手を置いてくる。


「わかばの、ことが」


 静かだが、はっきりと彼女は言った。

 私たちを新たに繋いでいた縁の糸が、ぶちぶちと切れていくのを感じる。私は肩に痛みを感じながら、彼女を見つめた。


「すき。好きなんだよ。どうしようもないくらいに。抑えらんない。抑えたくない。わかばの特別になりたかった。ずっと、ずっと、ずっと、ずっと」


 彼女の声は色で満ちている。無意味な「嫌い」という言葉を発しまくっていたのが嘘であるかのように、瑞々しく偽りのない感情の色が、彼女の声に乗っていた。


「でも、わかばは私のことを特別だって思ってはくれないから。……だから、傷付けた」


 私は口を結んだ。彼女の声は痛い。


「わかばの特別になる手段がそれしか思いつかなかった。傷付ければ、嫌われれば、私だけ特別にしてもらえる。見てもらえるって、思ったから」


 そのために全く無関係の他人を傷つけるのは、最低だ。それを彼女もわかっているのだろう。だから彼女は私を見ようとしない。


「好き。誰よりも、何よりもわかばのことが好きなんだ」


 彼女は縋るように言った。

 私は彼女の想いを受け止め切れずにいた。好きだからこそ、見てもらいたくて人を傷つける。その気持ちが、私には理解できない。でも、彼女が真剣に悩んだ末にそういうことをしたのだと、痛いほどよくわかる。


 全てはもう終わったことだ。今更私は彼女を恨むことはできないし、先輩だってもう彼女のことを忘れて生活しているのだろう。


 しかし、あの事件の時に抱いた自分への失望を、私はまだ覚えている。勝手に先輩を好きになって、勝手に失望した自分に、私は何よりも失望していた。


 好きの気持ちが冷めるのは一瞬だった。でも、小牧に抱いていた嫌いという感情も長続きはしなくて。だから私は、どんな気持ちも簡単に忘れられてしまう人間なのではないか、なんて思う。


 私の感情と彼女の感情は、釣り合っていない。

 私は小牧に幸せになってほしいと願ってはいるが、傷付けてまで特別になりたいとは思えない。私の傍にいなくたって、小牧が幸せならそれでいいと思う。


 小牧が私と一緒じゃないと幸せになれないのなら、一緒にいよう。

 そんな気持ちで、彼女の傍にいていいのだろうか。


 感情の熱に差があると、結局いつかは破綻するに違いない。

 互いの目を奪って、心を奪って、他に何も映らないようにする。

 それができるとは思えない。


「……ごめん」

「何が?」

「色々と、全部」

「あはは、今更だよ」


 本当に、今更だ。今謝られても、私は何もすることができない。私は彼女の頬に手を伸ばそうとしたが、部屋の扉がノックされる音を聞いて、止めた。


「お菓子持ってきたわよー」


 肩から手が離れる。小牧のお母さんがお菓子を持って部屋に入ってきたのに合わせて、私は曖昧な笑みを浮かべた。


 お母さんにとっては、小牧はいつまでも子供なのだろう。実際私たちはまだ子供なのだが、扱いが小学生に対するそれだ。


 私ももしかすると、そうなのかもしれない。小牧に対する認識が小学生の頃で止まっているから、彼女の気持ちを理解できない。その可能性は、ある。私は今の彼女を見るべきなのかもしれない。


 小学生でもなく、中学生でもない。高校生として、今の私と奇妙な関係を築いている彼女のことを。


 そのためにできることは、何だろう。

 お菓子を食べながら考えてみたが、わからなかった。

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