第29話

「わかば。……わかば、起きて。わかば!」


 夢にしては鮮明な声が聞こえる。ゆっくりと目を開けると、小牧の姿があった。街灯に照らされた彼女の姿は、私を迎えに来た天使のようだった。


 死んだのかな、私。そんなことを思いながら、顔を上げる。日はもう完全に沈んでいて、黒い空が私たちを見下ろしている。


 薄れていた意識が鮮明になると、寒さで体が震えた。


「梅園だ。……本物?」

「何寝ぼけてんの。こんなところで寝て。風邪引いたらどうすんの」

「この前のお礼に、梅園に看病してもらおうかな。あーんとかしてもらって」

「絶対やらない」


 だよね、と笑う。小牧は無表情で私を見つめていた。感情がなくても彼女の顔は綺麗だが、感情たっぷりに笑ったりとかしてくれたら、もっと綺麗に見えると思う。


 などと馬鹿なことを考えてしまうのは、私が寝起きだからだろう。


「電車、運行再開した?」

「まだしてない」

「じゃあ、どうしてここに?」

「世の中には車っていう便利な乗り物があるの。わかばは知らないだろうけど」


 彼女は私の隣に座ってくる。

 そこで気づいたが、彼女の表情は、いつもより少し険しい。


「……怒ってる?」

「なんで」

「いや、そう見えたから。怖いなーって」


 彼女はわざわざ、タクシーを使ってここまで来たのだろうか。流石に、彼女の両親がここまで車を運転してきたということはないだろう。


 よくここがわかったな、と思う。同時に、わざわざここまで彼女が来たことに、私は少し驚いていた。


「タクシー使ったの? お金かかったでしょ」

「……別に」

「そっか。よく、ここってわかったね?」

「アナウンスで、何線か聞こえたし。それで、海ってヒントがあったから。海に繋がる駅、片っ端から探した」


 小牧は何食わぬ顔で言う。富豪なのか、小牧は。


「それはごめん。無駄金使わせたね。……でも、迎えに来る必要はなかったんだけど」

「何言ってんの」


 彼女は私の手を握ってくる。彼女の手は熱く、握られていると凍りついている私の手が溶けてしまいそうだった。


「迎えに来たんじゃない。攫いに来たんだよ」

「……む?」


 彼女はそのまま歩き出す。駅前の広場に設置された時計を見ると、午後七時だった。思ったよりも時間が経っていないが、一体これから何をするつもりなのだろう。


「ねえ。ちょっと手、痛いのですが」


 ぐいぐい引っ張られて、夜の街を歩く。彼女は私と違い、ちゃんと予報を見てきたのか、温かそうな格好をしている。こういうところが完璧と言われる所以なのかなぁ、と思う。


 彼女と繋がっている手だけが熱くて、他は全部寒くて、落ち着かない。


 手を繋いで、砂浜まで歩く。夜の海は昼間とは全く姿が異なっている。数多くの観光客を受け入れていた透明さがなくなって、全てを飲み込みそうな黒色に変化している。光が薄いためか、少し前を歩く小牧の表情は見えない。


 攫うって、なんなんだろう。

 蟹工船にでも乗せられるのだろうか。小牧のすることはいつも割と突拍子もないから、よくわからない。


「梅園」


 名前を呼ぶ。彼女は手を離して、私に向き合ってくる。自然と見上げる形になって、彼女の視線がぶつかってくる。光を飲み込んでうねる夜の海みたいに、深い色の瞳が私を見ていた。


「……わかば。何でもいいよ。今ここで、勝負して」


 彼女は静かに言う。

 波の音が遠く聞こえる。

 息遣いが、波よりも強く耳朶を打つ。静かなのに、うるさい。


「私が負けたら」

「初めてを、もらう」


 なんの、なんて聞く必要はないだろう。


「勝負を受けなくても、もらう。十秒で考えて。十秒経ったら、わかばを攫うから」


 いきなりだなぁ。

 私は一秒何かを考えたが、すぐに全部吹き飛んだ。

 考える暇も余裕もないなら、することは一つだ。


「わかった。じゃ、勝負。まずは目を瞑って」


 彼女は一瞬訝るような顔をしたが、やがてそっと目を瞑った。


「それから、屈んで」


 小牧は屈む。なんだか今日は、素直だ。

 素直な小牧は気持ち悪くて、可愛い。

 私は彼女の頬に手を添えて、そっと口づけをした。


 やっぱり、楽しくはない。胸がドキドキすることもないし、好きだなんて気持ちが溢れてくるわけでもない。ただ何か心地良いものが溢れて、混ざって、私の中に流れ込んでくるような感じがする。


 私は別に、昔からこういうことを小牧にしたかったわけではない。小牧が何度も何度もキスをするから、おかしくなったのだ。


 小牧が私に何もしなければ、私も何もしなかった。最初から最後まで私たちはただの友達のままでいられたと思う。そうして自然に別れて、数年後に再会して、今付き合っている人がどうとか、子供がどうとか、そういうことを話す関係になったはずだ。


 そうならなかったのは、小牧のせいだ。

 私がおかしくなったのも、キスを抵抗なくできるようになったのも、全部全部全部。

 全部、小牧のせいだ。


「私の負け」


 私はそっと彼女から離れた。


「わか、ば?」


 前とは区切るところが違う。かばがどうのなんて、からかうこともできない。


「うん。わかばだよ」


 彼女は呆然とした表情のまま、私を見つめている。

 馬鹿みたいな顔。

 もしかしたら私も、彼女にキスされるたびにこういう顔をしていたのかもしれない。


「今になって私を攫うなんて言ってきた理由、聞いてもいい?」


 小牧は何も言わない。私は小さく息を吐いた。


「前さ。見せても見ないって言ったけど、やっぱり見せてくれないとわからないよ。私は梅園の気持ちが知りたい」


 ほら、やっぱり聞いては駄目なことを聞いている。これは私たちの根本に関わることで、聞いたら駄目なことなのに、私の口は止まらない。


 だから小牧に会いたくなかったのだ。

 小牧の様子がどこかおかしくて、私のことをわざわざ追いかけてくれて。それで初めてをもらうなんて言ってくるから、私もおかしくなっている。


 流れてはいけない何かを堰き止めていたものは、きっかけがあれば簡単に砕け散るものに過ぎないから、私はもう止まれそうになかった。ずっと溜め込んでいたものが溢れて、それに流され、私が私でなくなっていく。


「私も私の気持ちがわからないから。自分の気持ちも梅園の気持ちも、どっちもわかんなかったらどこにも行けないよ」

「……わかば」


 嫌いって気持ちをぶつけられたから、私も嫌いと返した。

 じゃあ、好きって言われたら?


 わからない。どう転ぶか全くわからない。また何か失敗して、小牧が悪い方向に行ってしまったら怖いと思う。自分の気持ちにすら責任を持てない私は、小牧の変化にも責任を持つことができない。


 でも、もう、止まれない。

 きっかけは些細なことで、シャーペンを大事にしていたとか、嫌いという言葉に感情がこもっていなかったとか、そういうものだ。そんなきっかけで壊れてしまうほど、私の心の防波堤は脆いものだった。


「わかばのこと、今から攫うから。今日は、一緒にいてもらう」


 彼女は私の欲しいものを渡そうとせずに、手だけ握ってくる。


 こわばった声に、固まった表情。無表情の奥に見えるのは、緊張か恐怖か。彼女が表情をなくすときはいつも、何かをその奥に隠そうとしているのかもしれない。その中にあるものを暴いたら、私は、私たちはどうなるのだろう。

 答えが出ない問いは、胸にしまった。





 坂道を転げ落ちるように、私の心は彼女の方に一気に傾き始めている。


 私は結局彼女に連れられるままに、ホテルに来ていた。もらっている小遣いの量も私とそう変わらないはずなのに、すごい財力だと思う。私は先にシャワーを浴びて、ベッドで横になっていた。


 こういうところに来ることに、夢を抱いたことはない。初めては夜景が見えるところでー、とか、そんなことを考えたこともない。


 ただ、意外に雰囲気がないというか、こんなもんか、と思う。


 緊張も不安もない。ただあるのは、ぼんやりした眠気と退屈感。私と小牧の間に横たわるものの正体がわからない限り、抱く感情も変わらないのかもしれない。


 しばらくすると小牧が戻ってくる。バスタオルだけを巻いた姿で、艶やかと言えばそうだけど、現実味をあまり感じられない。


 小牧は何も言わずに私の隣に座って、顎に手を添えてくる。

 キスの温度はいつも通りだった。


 唇の隙間にねじ込むように舌が入ってきて、口腔内全部を味わうように動き回って、最後には私の舌に絡んでくる。甘くて頭が熱くなるようなキスだ。どこでこんなの学んだのだろう、と思う。

 別に、いいけれど。


「私にされること、一生覚えといて」


 言うまでもないことを彼女はわざわざ言う。

 ファーストキスを奪われた時点で、全部忘れられなくなっているのに。彼女は私に忘れられることが不安なのだろうか。


 彼女の手がゆっくり近づいてくる。いつか見たクリアネイルはすでにその爪から消えていて、あるのは形のいい自然な爪のみだった。


 そんなにわざとらしく光ってはいないけれど、綺麗だと思う。おしゃれは嘘偽りではないが、全てを剥がしたその先にある彼女本来の色は、目が眩むほど綺麗だった。


 化粧に彩られることのない、真剣な顔。それが私を見ていると思うだけで、胸がぐるぐるする。ぽかぽかでも、どきどきでもなく、ぐるぐる。色んな感情が渦巻いて、叫び出したくなるほどの想いが胸の内側を撫でてくるような。


「いいよ、梅園。……どうぞ」


 存外に、抵抗はない。最初にキスをしたときは抵抗があったが、私の心はすでに麻痺していて、変になっている。


 でも、いいと思う。

 変になっているのは私だけじゃなくて、小牧だってそうだ。だから、最後までおかしくなってしまえばいい。私はそっと、小牧の頭を撫でた。

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