第19話

 墨汁を流し込んだかのように黒く染まっていた空に、明るいオレンジが浮かび上がる。周りの音を消し去るくらいの轟音が響いて、いくつもの花火が空を埋めていく。その時、ぐい、と手を引っ張られた。


「行こう、わかば!」


 茉凛は私の手を引きながら、人混みをかき分けるように早足になった。


「会場に行けば合流できるよ」


 彼女は混じり気のない笑顔を浮かべて、私の前を歩いていく。

 小学二年生の時、小牧に向けた私の笑顔はどうだっただろう。今の茉凛のように、一点の曇りもなく輝いていただろうか。

 一瞬だけ、そう思った。


 花火の会場に行くと、すでに人でごった返していた。席取り合戦はとっくに終結しているらしく、花火が綺麗に見えそうな場所はもう埋まっている。私たちは会場にある屋台でいくらか食べ物を買って、隅に陣取った。


 人は無数に歩いていて、そこから夏織たちを見つけ出すのは至難の業だった。


 人の姿は容易に見えなくなるものらしい。

 一度見失ってしまったら、それまで鮮明に見えていたものも輪郭がぼやけて、無数の情報に紛れて消えてしまう。多分人はその度に新しく大事なものを見つけて、ぼやけていくそれを緩やかに忘れていくのだろう。


 私はまだ、忘れていない。一度見失いかけて、今では輪郭がわからなくなって自分でも正体が掴めないようなものを、忘れられないまま大事に胸に抱えている。

 捨てるには、大きくなりすぎているのかもしれない。


「たーまやー」


 夜の闇を切り裂いて、花火が輝く。私の手を握りながら空を眺める茉凛の顔は、鮮明だった。


「綺麗だねー、花火」

「そうだね。来てよかったよ」

「うんうん。来年も再来年も、こうやって見に来られるといいよねー」


 茉凛との関係は、来年も再来年も続いていくのだろう。茉凛は大切な友達で、できることならずっと仲良くいたいと思っている。


 小牧は、どうだろう。

 私は彼女との縁を切りたいと思っている。単純に嫌いだというのもあるが、小牧と一緒にいたら私の心は小牧の情報で埋め尽くされて、他の大切なものが見えなくなってしまう。だから彼女とは一緒にいるべきでない、と思う。


 私にもわからない、私のものじゃないはずの感情が、他の誰でもない私の心を埋めている。その感覚がひどく気持ち悪かった。

 勝たないとなぁ。


 何なら勝てるんだろう。そんなことを考えていると、私の顔を覗き込んできている茉凛と目が合った。


「花火、ちゃんと見てる?」

「見てるよ。今は茉凛の顔見てるけど」

「感想は?」

「綺麗だよ」

「それは、どっちが?」

「どっちも」


 私は空を見上げた。様々な形や光を持った花火が空を彩っている。この光を、小牧も見ているのだろうか。彼女はそれを見て、何を思うのだろう。


 花火大会に来てる人とか、馬鹿にしてそう。

 小牧に風情とか情緒とかそういうものがわかるだろうか。祭りに来る人も参加する団体も全部見下してそうで嫌だと思う。


「わかば」


 現実に意識が引き戻される。茉凛は一本一本指を確かめるみたいに、私の手を握っていた。


「今、他の人のこと考えてたでしょ」


 大きな瞳が私を見ている。


「せっかく花火見に来たのに。もったいないよ?」


 彼女はそう言って、買ってきた焼きそばのパックを開けた。私たちはどちらともなくそれを食べながら、花火を眺めた。


 焼きそばは胡椒が効いているのか、少しぴりっとする。小牧が過剰反応しそうな味だった。


「わかばは今、好きな人いる?」


 スターマインと呼ばれる花火が空を覆い尽くしていく。数えきれないほど多くの光の筋や点は、目を焼くほどに綺麗だった。


「んー。茉凛かな」

「それはどーも。……結城先輩のことは、もういいの?」

「いや、いつの話してんの。とっくに諦めてるから」


 あれは、諦めとは少し違う。でも、わざわざ言う必要もなかった。


「そっかー。じゃ、今は私がわかばのこと、独り占めだね」

「腕は、あげないからね」


 隣に座った茉凛が、私の腕に抱きついてくる。ソースの匂いに混じって彼女の匂いがした。


「そうだ。今度元テニス部で集まるんだけど、わかばも来る?」


 彼女は思い出したように言う。あまりいい思い出がないから少し迷うが、仲が良かったメンバーは今何をしているのか、気にならないと言えば嘘になる。


「迷ってるなら来なよー。皆わかばに会いたいって言ってたし」


 部活を辞めた直後は割と塞ぎ込んでいたから、そのせいで皆とは疎遠になってしまった。唯一の例外は、一番仲が良かった茉凛だ。


 茉凛とは、あの頃も変わらずに関わっていた。私に何があったのかを一切聞かず、ただ一緒にいてくれたからこそ、縁が続いているのだろう。

 好きな人との縁と、嫌いな人との縁。


 どちらも繋がっているが、いつ切れてもおかしくない、細いものだと思う。


「じゃあ、行く」

「おっけー。詳細はまた後で教えるねー」


 それっきり会話が途切れて、私たちは二人でそっと空を見上げた。

 このまま二度と小牧に会わなかったら、どうなるのだろうと思う。


 私は自分の心を埋めていたものを綺麗さっぱり捨てて、小牧に出会う前の私に戻れるだろうか。


 多分、無理だろう。気付けば私は小牧につきまとっていて、心が小牧に埋め尽くされていた。それ以前の私を、思い出せないほどに。


 仲がいい友達。泣いてほしくない人。嫌いな相手。彼女に向けた感情は本当に色々で、数えるのも馬鹿馬鹿しくなる。


 でも、だからこそ、決着をつけなければならない。これから先ずっと小牧と一緒にいるつもりはないから、私は心の荷物を捨てて身軽にならないといけないのだ。

 できるかはわからないけれど、しないと駄目だ。色んな意味で。


「あー! わかば! 茉凛!」


 唐突に、甲高い声が鼓膜を震わせた。思わず声の方を見ると、夏織と小牧が立っていた。


「あ、二人とも。よくぞご無事でー」


 茉凛がふわふわ笑う。


「ご無事でー、じゃないよ! もー。小牧さんの言葉がなかったら、一生見つけらんなかったかも」

「ん? 梅ちゃん、何か言ったの?」

「多分、わかばならこういうところにいるかもって夏織に言ったの。ビンゴだったね」


 小牧はにこやかに笑う。私は目を細めた。


「隅にいるような人間だと思われてるとしたら、心外だけど」

「でも、実際いるからねー」


 茉凛は私と小牧を交互に見て笑う。

 ぐうの音も出ない。

 別に私は、こういう隅っこが好きなわけではない。多分。


「まあまあ。合流できたんだし、よかったよ」


 小牧はやはり、いつもよりも声が高い。私は苦笑するしかなかった。


「ねえねえ、これ食べていい? 探し回ってたらお腹すいちゃった」


 夏織は私たちが食べていた焼きそばを指差した。


「いいよー。はい、箸」


 茉凛は自分の割り箸を夏織に渡す。夏織は人が使った箸を借りることに抵抗がない人間らしく、嬉しそうな顔で焼きそばを啜っていた。


 元気だなぁ、と思う。

 私もそれなりに元気だとは思うが、夏織には負ける。高校生らしい、元気な彼女が少し羨ましくなって、じっと見つめてしまう。


「わかば」


 小牧の声が聞こえる。耳のすぐ近くで囁かれたため、くすぐったい。私は体をのけぞらせて、耳を押さえた。


「私も食べる」


 彼女は右手を差し出してきた。私はその手に自分の手を載せる。


「わん」

「……は?」

「冗談。箸、新しいのもらってくる」


 手を握られる。行くな、という意思表示だろう。


「私、間接……そういうのとか、気にしないから」


 気にしないなら、わざわざ言う必要はないのでは?

 そう思ったけど、言わない。


 言ったら何をされるかわからない。二人の前でキスとかされたりなんだりしたら、終わりである。


 この前もスプーンの交換をしたのだから、別に箸を使わせるくらいは構わないけれど。妙に私のものを欲しがる小牧に呆れながらも、箸を差し出そうとする。


「それちょーだい」


 ん? と思った瞬間、夏織に箸を奪われる。夏織は器用に両手を使って、焼きそばを口に運んでいく。


「わお。両利き?」


 リスみたいに口を膨らませた夏織は、小さく頷いた。両手に箸を持って食べる人なんて、大食い番組でしか見たことがない。私は思わず拍手したくなった。


「全部食べていいよ。いっぱい食べて大きくなりな」


 私はぽんと夏織の頭に手を置いた。夏織は満面の笑みを浮かべる。

 小牧も食べたがっていたけど、まあ、いいか。夏織は食欲で頭がいっぱいになっているのか、焼きそばを見つめている小牧には気づいていないらしい。尊敬する人の視線にはちゃんと気づかないと駄目だぞ、と心の中で偉そうなことを言う。


「……わかば」


 私にだけ聞こえる大きさで、不機嫌そうな声を出す。私は彼女の耳に口を寄せた。


「焼きそば、そこそこ辛いから。食べなくて正解だよ」

「生意気」

「別の奢るから。その顔やめなよ。猫被れてないし」

「……いい。別に」


 夏織に焼きそばを奪われたのがそんなに悔しいのか。

 夏織の尊厳を奪うとか、そういうことを言い出さなければいいけれど。

 私は少し不安になって、軽く握られた小牧の手を掴んだ。


「ちょっと別の食べ物買ってくるね。ここにあるのは二人で食べていいよ」


 そう言って、私は立ち上がる。小牧は無表情で私を見ていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。


 別に、今の小牧が泣きそうな顔をしているわけではない。心で泣いている、ということもないと思う。そこまで弱くはないはずだ。だから、私が彼女の手をわざわざ握って、何かを買いに行こうとしているのは、もっと別の理由からだ。


 不機嫌な小牧をここに置いておいたら、夏織に被害が出そうだから。

 ただ、それだけである。


 私に手を引かれて歩く小牧は、相変わらず無表情だった。その瞳の奥にどんな感情を抱えているのかも全くわからなかったから、私は何も言わなかった。


 沈黙を紛らわせてくれる花火の音がありがたいような、そうでもないような。私は思わずため息をついた。

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