第21話

「楽しかったねー」


 茉凛は私に笑いかけてくる。私も曖昧に笑った。


「なんか、食べてばっかだった気がするけどね」

「それも醍醐味だからねー。でも、できれば最後の花火、わかばと一緒に見たかったなー」

「私じゃ不満だと申すか?」


 前を歩いていた夏織が振り向く。


「だって夏織ちゃん、見てなかったじゃん。最後の花火の時、たこ焼きしか目に入ってなかったでしょ」

「まさに花より団子ってねー。まあま、いいじゃん。皆思い思いに楽しんだってことで。小牧さんも楽しめました? ……小牧さん?」


 小牧はバッグの中を見て、ぼんやりとしていた。俯きながら歩いているのを見ると、転びそうでドキドキする。

 私じゃあるまいに、そんなへましないだろうけれど。


「梅園」

「ん、え」


 私が呼ぶと、返事になっているのかそうでないのか微妙な声を漏らす。一体何があったのか、彼女は挙動がおかしい。


 振り向いてこちらを見る彼女の表情は、どこか青ざめているように見えた。


 バッグを見て青ざめるって、なんなんだろう。ソースでもこぼれていたのか、それとも。


「楽しかった?」


 私は聞く。


「……うん。楽しかったよ」

「良かった!」


 小牧が笑みを浮かべると、夏織が安心したように笑った。私は少し歩く速度を上げて、小牧の様子を窺った。彼女は何かを探すように、バッグに手を入れている。何かを落としたのかもしれない。


 バッグの中に入っていて、小牧が落としたら取り乱しそうなもの。

 キーケースを落としていたとしたらまずいと思うが、多分、違うのだろう。なんでかわからないが、そう思った。


「あ、やば」


 私は声を上げた。三人の視線が、私に向く。


「ちょっと、いきなりめっちゃお腹の調子悪くなった」

「大丈夫?」


 茉凛が心配そうに聞いてくる。


「だいじょばないかも。先行ってて。ちょっと行ってくる」


 我ながら強引だ、と思う。だが、こう言っておけばついてくることもないだろう。


 私は早足になって、花火の会場に戻る。どうせ小牧は何を落としたって、落としました、なんて言えないだろう。涙を流せないのと同じで、プライドが邪魔をしてしまうに違いない。


 そうして、茉凛たちと別れた後にそっと落とし物を探しに行くに決まっているのだ。だが、時間が経てば経つほど、見つけるのが難しくなるはずだ。


 私は落とし物を扱っているらしい中央センターに行ってみるが、小牧のものは見つからなかった。小牧は基本的に油断することがない。いつだって完璧な彼女が落とし物をするくらい気を抜くことがあるとすれば。


 私はわたあめの屋台の近くに戻る。近くを探してみると、何かが落ちているのが見えた。


 それは、割れたシャーペンだった。誰かが踏んだのか、プラスチックでできた部分がほとんど粉々になっている。綺麗に保たれていた青のシャーペンは、もはやシャーペンとして使えるものではなかった。


 私はそっとそれを拾い上げて、ポケットにしまった。

 どうしたものかと思う。小牧にこれを返すか、なくなってしまったことにするか。


 壊れたシャーペンを見たら、彼女はどう思うだろう。もしかしたら、悲しむかもしれない。なら、どこにも見当たらなかったということにした方が、まだマシなのではないかと思う。砕けたシャーペンは、持ち主でない私ですら、見ていると心が痛んだ。


「わかば!」


 切羽詰まったような声が聞こえる。顔を上げると、小牧が息を切らして走ってきているのが見えた。私はポケットに手を入れた。


「あれ、梅園。何してんの?」

「それはこっちのセリフ。トイレ行ったんじゃなかったの?」

「行ったよ。で、調子良くなったから、ちょっと一人で見てこうと思って」


 小牧は私の目の前に立つ。こうして前に立たれると、やっぱり大きいな、と思う。ずっと小さいイメージだったのに、いつの間にか彼女は私よりもずっと大きくなった。それに伴って、心も変わっているのだろうか。


 私の知っていた小牧は、ここにいるのだろうか。

 本当の小牧は、壊れたシャーペンを見せても無表情で「捨てといて」と言うかもしれない。でも、私の知っているはずの小牧は、違う。


 きっと、私が嫌いなあの顔をすると思う。

 泣きそうなのに、泣けない顔。


「で? 梅園さんはどうしてこちらに?」

「……何も」

「そっか。じゃ、私は帰ろうかな。茉凛たちも、もう帰っちゃったろうし」


 踵を返そうとすると、彼女に腕を掴まれる。強い力だった。


「何か、落ちてなかった?」

「知らない。手、離してよ」


 そのまま引っ張られて、手がポケットから出る。それに引きずられて、壊れたシャーペンが再び地面に落ちる。


 軽い音がして、シャーペンが転がった。

 私が壊したって、思われるかもな。私はどこか冷静にそう思った。私は彼女の顔を見たくなくて、落ちたシャーペンに目を向けた。


「……ぁ」


 掠れた声が、確かに鼓膜を震わせた。

 耳が痛い。もう見なくたって、どんな顔をしているのかわかる。小牧はしゃがみ込んで、壊れたシャーペンに目を落とした。


「……誰か、踏んだみたい」


 私の言葉は聞こえていないのか、彼女は背中を丸めてシャーペンを見つめていた。


「泣かないでよ、梅園」

「なんで、そうなるの。泣くわけないでしょ、こんなことで」


 彼女はシャーペンを拾い上げて、バッグにしまった。その手は微かに震えている。


「なら、いいけど」


 沈黙が訪れる。花火が終わり、三々五々散っていく人々は、私たちを見ることなく横を歩いていた。


「そんなにあれなら、私のやつあげるよ」

「いらない」

「……そ。私、もう行くね」


 ここに居たくなくて、私は歩き出そうとした。でも、顔を上げた小牧に見つめられると、足が地面に縫い付けられたかのように動けなくなる。


「知ってたの?」


 何を、とは聞けなかった。


「この前お見舞いした時、偶然見た。で、さっき様子がおかしかったから、落としたんだと思って」


 小牧は目を見開いた。そして、すぐに俯く。


「やめてよ」


 小牧の声は震えている。こういう声は、初めて聞いたかもしれない。


「嫌いなら、優しくしないでよ」

「優しくなんてしてない」

「優しいじゃん。いつも優しい。わかばから与えられるものは、全部」


 そう思われているとは、思っていなかった。私は少し当惑している。何を言えばいいのかわからない。


「別に、梅園のためとかじゃない。私が個人的に見たくないものを見ないために、やれることをやってるだけ」

「私にとっては、違うから」


 彼女は立ち上がって、私を見下ろす。やっぱり大きいなぁ、と思う。


「嫌いならもっと嫌いって言って。あんなことしたのに優しくされると、自分がわからなくなる」


 私だって、自分のことなんてわからないからおあいこだ。


「そういうのが続くと、勘違いしそうになるじゃん。……わかばの、馬鹿」


 勘違いとは、一体なんなのか。

 彼女が私に抱いている感情はどういうものなのだろう。嫌いという言葉には力がなくて、伝えてくるものはよくわからなくて。


「梅園も一応、あれが最低な行為だってわかってやってたんだね。安心した」


 的の外れた言葉が口から出てくる。小牧は泣きそうな顔で私を見ていた。でも、その瞳には、いつもと違う感情が湛えられているように見える。どれだけ見つめても、わからない感情はわからないままだ。


「そうだよ。私は、最低だ。だから、もっと抵抗して。嫌いって言って。恨んだ目で、私を見て。そうじゃないと、何するかわからない」


 今の時点でも、十分何をするかわからない。

 私の嫌いは、ピークを過ぎている。小牧の嫌いにも、色がない。だったら、私たちが口にしている嫌いという言葉は、何の意味があるのだろう。意味のない「嫌い」を交わし合ったって、感情は正しく伝わらない。


「嫌い」


 試しに口にしてみても、やっぱり言葉は空っぽだ。一応、確かに私は小牧のことを嫌っているはずなのだが。


 小牧は何を思ったのか、私を強く抱きしめてくる。彼女の胸の中にすっぽりと収まって、心臓の音を聞く。彼女の心臓は、予想以上に早く鼓動を打ち鳴らしている。


 小牧の匂いを嗅いでいると、頭がくらくらする。何もかもがわからなくなって、でも、心地良くて。わけがわからないと自分でも思うけれど、心地良さを胸から追い出す方法を、私は知らない。


「わかば。わかば、わかば」


 彼女が私を呼ぶ声は、昔から変わらない気がする。そこに込められた意味を、私はずっと探している。


「……ごめん」

「今更ハグくらいで謝られても。もっとすごいことしてるのに」


 シャーペンが壊れたことで、彼女の心は乱れているようだった。それは、ただお気に入りのシャーペンが壊れたというだけで生じた乱れ、ではないと思う。


 そうして一つまた、彼女についてのわからないことが増えた。シャーペンが壊れて、何かを勘違いしそうになって、私に謝って。その行動一つ一つが、繋がっていないように思える。


 私たちはそれからほとんど言葉を交わすことなく帰路に着いた。家に帰るとすぐに、ペンケースに入れたシャーペンを眺め見る。


 彼女のシャーペンは壊れて、私のシャーペンは変わらないまま。

 心も同じかもしれない。彼女の心は昔とは完全に形を変えていて、私の心だけが、昔と変わっていない。その差が、今の私たちの何かがズレた関係を生んでしまったのだろうか。

 だとしたら、私もこのシャーペンを壊して、自分の心に変化を生じさせた方が……。


「なんて、馬鹿」


 シャーペンを壊したって、私は変わらない。変化はきっと気付かないほどゆっくりと訪れるもので、いきなり変わることなんてありはしないのだ。


 だから私たちの関係も、きっと変わらない。

 嫌い合っているという外郭を保ったまま、中身がぐちゃぐちゃになって変化しているように思えても、外見が同じならそれでいい。私たちはこれ以上関係を変化させる必要なんてない、と思う。


 私はため息を一つついて、シャーペンを転がした。

 音はやっぱり軽くて、そのせいで私の心は、少し重くなった。

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