第25話 旅立ち
ロード帝国にはもうすぐ夏が来る。短い夏だ。ロードの民は青葉の生え揃うこの短い季節を懸命に満喫し、次の冬を越えるための準備をし、生きる力を蓄える。一日たりとも無駄にはしたくないと、誰もが思う。そんな大切な季節の始まりに、リクはぼうっと空を眺めていた。周りには誰の姿もなく、リクは咎められることなく裏庭に寝ころんでいた。
こんなふうに外で空を眺められるのも、ほんの少しの間だけだ。薄青い空はすぐに分厚い雲に覆われ、雪と風がこの地を閉ざすだろう。
違う空が見たい。
それが、すべての始まりだった。
ネイは、学校に通い始めた。ルカとホウタツの話を聞いて感じるものがあったらしく、叶えてもらう「望み」は学ばせてもらうことだ、と殿下に願い出たのだ。サリードラ邸から通える位置に学問所があり、殿下の従者の仕事を続けながら通うことができるという。
ホウタツは剣と共に騎士の位を受けた。本人は柄ではない、と渋ったようだが、殿下が「剣を授けられるとはそういうことだ」と言いくるめたらしい。ソールの親衛隊に混ざって訓練をしつつ、殿下に仕えている。
ジークとハンナは「我々は殿下のお傍にいられれば他に何も望まない」と言い張っていたが、どうやら両者の間でなんらかの話し合いが行われたらしく、ジークは殿下の親衛隊を設立すべく、その隊長の座を、ハンナは殿下付の侍従長の座を得た。
「そろそろ、行くかー」
リクが身を起こすと、待ちかねていたように大きな鳥がヒィ、と鳴いた。殿下から賜った、雪鷹という鳥である。この鳥の扱いに慣れるために何日も訓練をした。
「ゆきますか、ガーネット」
「殿下」
起こしたばかりの体を折りたたむようにしてリクが膝をつくと、殿下は笑いながらそれを制し、自分の前に立たせた。
「そなたの望みなのか、わたくしの望みなのか、わからなくなってしまいましたね。すまなく思います」
「何を仰いますやら」
肩をすくめ、リクは笑う。誰かの望みはいくらでも叶えてやれるのに、自分の望みはそうはゆかないという殿下の境遇を考えると胸の痛む思いがするが、そんな憐みは不要であるということもわかっていた。なにしろ、性別を偽って嫁入りを果たしてしまうようなひとだ。
「まずはどこへ?」
「うーん、そうですねえ、とりあえず南かな。夏が長いところへ行こうかと」
「それはいいですね。サーシャあたりまで行くと冬がほとんどないそうですよ」
「冬がない? なんだそれ、全然思い浮かべられないな。あ、すみません」
思わず砕けた口調になってしまったリクが首を縮めると、殿下は苦笑して顔つきを変えた。
「いいよ、いまさら」
「はい。……殿下、気をつけてくださいね? ジークやハンナもいるし、なにより閣下とは仲良くおやりのようですから大丈夫だとは思いますが……」
リクは周囲に誰もいないことを再度確認する。殿下はリードラへ馴染むにつれて不意に男性の振る舞いを見せることが多くなった。それだけこの土地と人々に心を開いているということだろうが、油断は禁物だ。
「わかった、わかった。……そなたも、気をつけるようにね」
「はい」
「手紙を寄越すのだよ。そのための雪鷹だ。ああ、手紙にはどこにいつまで滞在するかきちんと書くように。そうすれば私も返事を出せる。それから……」
「殿下」
いつまでも続きそうな殿下の言葉を、リクは柔らかく遮った。リクはこれから、リードラを出て目的地のない旅をする。故郷を出る程度では見つけられなかった違う空を探しに。王宮を出ることを自分の手で叶えた、殿下の望みも背負って。
「手紙、書きますよ。得意じゃないけど。返事もちゃんと受け取ります」
「うん」
「そしてあなたが望むときには、すぐに帰ってきます」
「うん。……え、そんなに寂しそうにしているかな、私は?」
「えーと、まあ、はい」
リクも戸惑うほど、殿下は別れを惜しんだ。いろいろな土地を見てきてほしい、と話したのは殿下であるにもかかわらず。
「ねえ、ガーネット。私は、そなたらと出会えたことを本当に嬉しく思っているんだよ。そなたらにとって私は付き従い、身を守る対象である主人でしかなかったかもしれないが、私は友を得たような気持ちになったのだ。……これまでの人生で、初めて」
「……勿体なきお言葉。実に光栄でございます」
どのような返答をすべきか少し迷ってから、リクは丁寧に頭を下げた。殿下は寂しさを頬に淡く滲ませた。その表情が、踵を返しかけたリクの足を引きとめた。軽く息をついてから、リクは少し視線を落として口を開く。殿下の整いすぎた顔を直視して語ることはとてもできないと思った。
「ねえ、殿下。俺もね、殿下には本当に感謝しているんですよ。俺は、生き方とか考えたことなかった。こんなところにはいられない、って故郷を飛び出してから、ただ生きているだけで。違う空が見たかったのに、勝手にこんなもんか、って見切りをつけて。誰かのためになにかするなんて、一度もなかった。だから……、殿下に仕えられたことは、俺の人生のうちのいちばんの幸運です。俺のしたことが、殿下の望みを叶える助けになった。それが俺に、生きる意味を与えました。だからこれからも、俺はあなたの望みを叶える助けになりたい」
「……うん、ありがとう、リク・ガーネット」
「礼は不要です、殿下。勿体ない。俺は……」
リクはちらりと空を見上げた。殿下も釣られたように顔を上げた。
「俺は、皇子殿下の嫁入り道具ですから」
薄青い空の光を、リクの深紅の瞳が吸い込んだ。ガーネットのような、瞳が。
皇子殿下の嫁入り道具 リードラ編 紺堂 カヤ @kaya-kon
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