第19話 空の広さ
風が、やわらかく吹いていた。光を集めたような色の殿下の前髪が楽しげに踊っていた。その下の顔は、楽しさとはかけ離れた表情をしていたが。
憂いと苦悩の色を浮かべた頬はしかし、さらりと乾いていた。だからこそリクは遠巻きながらに殿下の横顔を眺めていられたのだ。
「ひとりにしてほしい、という望みは、おそらく今のわたくしが唯一叶えられないものなのかもしれませんね」
殿下は瞳だけを動かして、リクをちらりと見た。なんと答えてよいかわからず、リクは軽く肩をすくめた。余計なことは言わない、と示したつもりだった。それを受け取ってもらえたのかどうか、殿下は、ふ、と力を抜き、たおやかに保っていた姿勢を崩して立ち方を変えた。
「私になにか尋ねたいことがあるのでは?」
その声は先ほどまでに比べてはるかに低く響き、リクはいささか慌てた。
「殿下」
「心配ない。この距離だ、そなたにしか聞こえまい」
「それはまあ、そうかもしれませんが」
さっぱりと笑う殿下を前に、リクはソールたちが留まっている大樹との距離を目算しつつ、せめて少しでも彼らが殿下の姿を目にせぬようにと立ち位置を調整した。およそ貴婦人らしくなく大きく足を開いて立つ殿下の姿を。
「尋ねたいこと、ですか」
リクは少しだけ考えた。長く悩めば際限なく溢れ出そうな気がしたので、少しだけ。
「ありますね」
その返事を聞いた途端、殿下の肩が緊張したように見えた。リクは、それには気が付かなかったふりをしてゆっくりと首を動かし、己の顎を持ち上げる。
「違う空、見られました?」
「……え?」
殿下が振り返った。今度は瞳だけではなく全身を動かして、リクを真っすぐに見る。リクは姿勢を変えぬまま少し笑った。うす青い空を、渡り鳥らしい群れが横切ってゆく。
「殿下は、俺たちに初めてお顔を見せてくださったとき、そう仰った。あの閉ざされた皇子宮で。リードラに嫁ぎたいのはここを出て行きたいからだと。こことは違う空が見たいのだと。……見られました? 俺は、それがずっと気になっていたんです」
「……見られた、ともいえるし、見られなかったともいえる」
肩の力を抜いて、殿下が微笑んだ。リクにならうように、ゆっくりと空を見上げる。
「違う空を、見ることができた。見ることができて……、違う空も同じなのだと思った」
「はい」
俺も同じことを思った、とリクは昔の自分を思い出してほろ苦く笑う。違う空に焦がれて故郷を飛び出した。そして、違う空などないんだと知った。
「それでも私は、リードラで空を見てよかったと思うよ。違う空などないのだと、そんなことも知らぬままだった。違う空などないけれど、空の広さは計り知れない」
「……はい」
「私は、何も知らない。空の広ささえ知らなかった。この空の下で暮らす人々のことも、この国のことも、自分がどのような存在なのかも!」
リクは何も答えられなかった。返答を求められているわけでもないだろうということは、わかっていた。殿下の苦悩の一端に触れてしまったことがなんとなく後ろめたく、ただ空を見つめ続けた。二対のまなざしに戸惑うように、鳥が視界から消える。落ちてくるのでなくてよかった、と思った。
「……すまない。聞かなかったことにしてくれ」
「はい」
ようやく視線を下げると、殿下はため息を飲み込むように深呼吸をしていた。ひそやかに動く首筋が目に入り、リクは大樹の下で目にしたのと同じものを再び見つけてしまう。
「あ」
「どうした」
「えーと、いえ、その、なんでもないです」
「なんでもなくないだろう、言いなさい」
言いよどむリクを、殿下は怪訝な目で詰め寄る。助けてくれそうな同僚の宝石たちは今はいない。リクは小さく息をついてから、自分の首筋を叩いて位置を示した。
「……殿下の、このへんに、跡が。……まあ、閣下とは仲良くなれたようでよかったですけど」
「うっわ」
殿下は即座に自分の首筋を手で押さえた。秀麗な眉目がみるみる険しくなる。
「あー、そうか、髪を結い上げると見えてしまうのか……。まさか、それも織り込み済みだったのか……? あ、いや、ガーネット、一応説明させてほしいが」
「はい……、でもそれ俺が聞いていいんすか?」
「いいに決まってる。あまりにも何もなかったような様子だと人に疑われるから、とわざとつけられたのだ、だがそんなもの見せてまわるわけにもいかないのだから無意味だろうと私は思うのだけれど……、おい、聞いているのか、目をそらすな」
「そらすでしょうよ、そりゃ!」
リクが思わず砕けた調子で殿下に言い返したとき。
「うん、楽しそうだな、よかった。機嫌はなおったか」
リクの背後から、ソールの声がした。
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