第5話 翠魚
ちゃぷん、とわずかに水面を揺らして、鉢の中の魚がぱくぱくと口を動かした。特に腹が減っているわけではないはずだが、人間が近づく気配を感じると何かもらえるものと思って上がってくるらしい。
「アメジストは、翠魚がお気に入りね」
熱心に魚の様子を観察しているネイ・アメジストに、殿下が声をかけた。
「す、すみません。部屋の中に魚がいる、というのが珍しくて、つい」
「謝ることはないわ。好きなだけごらん」
パッと鉢から離れたネイに、殿下はくつろいだ様子で笑って見せる。ネイはそうした殿下の笑顔を見るたびに、なんと美しいひとだろう、と思う。一日のうちに二十回は、そう思っている。
「高貴な方は、こうして部屋で魚を飼うのですか?」
「どうかしら。この国ではあまりそうした習慣はないように思うわね。崙国では流行した時期があるというけれど。今度、ジェイドにでも訊いてみましょうか。いえ、シトリンの方が詳しいかしら」
びっしりと刺繍の施された長椅子の上で、殿下は小首を傾げる。比喩だけではなく、なんとも小さな顔と細い首である。
殿下は、リードラへ来て以来、どんなときでも貴婦人の声と口調、所作を貫いている。それがたとえ室内にネイとハンナしかいない状態であっても。
「旅の一座に、魚はいなかったの?」
「あ、はい……。ロバと熊とニワトリはいました。あと、いつの間にか居ついてしまった猫」
「まあ、熊がいたの?」
「ええ。猛獣使いのバハロというのが、いちばん人気だったんです」
嫌なヤツだった、とネイはバハロのニヤケ顔を思い出し、内心で唾棄した。一座の稼ぎ頭であることを鼻にかけ、全員平等に課せられているはずの雑務を周りに押しつけた。「言うことをきかなければ熊の餌にしてやる」が脅し文句で、実際、それはただの脅しではなく、片腕を失って一座を去った者もいた。稼ぎ頭であることはたしかだったから、そうしたことが起きても座長はバハロを一座から追い出すことはできなかった。
「一座は、なくなってしまったんだったわね」
「はい」
なくなった理由を話そうとして、ネイは結局口をつぐんだ。座長の息子が売上金を持ち出して一座の踊り子と駆け落ちしたからだ、などというくだらない顛末を、殿下の耳に入れるべきではないような気がした。殿下はきっと、ネイがいたようなところとは無縁で生きてきたのだろうし、これからもそうであってほしかった。
「失礼いたします、殿下」
ハンナが銀の盆を持ってやってくると、ネイはスッと背筋を伸ばした。殿下とふたりだけのときよりも、ハンナがいるときの方が緊張するのだ。
「お茶をお持ちいたしました」
てきぱきと卓の上にカップや菓子を準備してゆくハンナの所作を、ネイはただ息を詰めるようにして見つめていた。同じようなことは、とてもできない、と思いながら。そんなネイに、ハンナがちらりとネイに視線を送った。ネイはハッとして殿下に一礼する。
「し、失礼させていただきます」
ハンナが殿下の傍にいるときにネイまで一緒にいなくともよい。部屋の戸の外に立つべく殿下の御前を立ち去ろうとする。
「ああ、待って」
「え」
「今日はアメジストも一緒にお茶を飲みましょう。いいでしょ、ハンナ……、オパール」
殿下がネイを呼びとめ、ハンナに微笑んだ。ハンナは黙礼し、ネイの分のカップにも紅茶をそそぐ。殿下は自分の分のカップを持って、鉢に近づいた。銀色の匙を一度カップにくぐらせ、紅茶を一滴、鉢に落とす。ネイは、わずかに目を見張った。
「……アメジストは、初めて見るかしら」
殿下がネイの様子に気がついて目を上げた。白く細い指で、今度は菓子のくずをぱらぱらと水面に落とす。魚が喜び勇んでそれを食べた。
「翠魚は元気よ、オパール」
再び鉢に目を落として、殿下が呟くように告げると、ハンナは一礼して紅茶をひとくち飲み、菓子をひとくち食べた。
「オパールは、自分が毒見をすると言って聞かないの」
わけがわからずただ立ち尽くすネイに向かって、殿下が微笑んだ。
「毒見はすでにリードラの厨房でなされているはずですから、良いのだけれど。それでは安心できないのですって。ではせめて、翠魚が口にしても泳ぎをやめなかったものだけを毒見するようにという条件で、わたくしが折れたの」
「我儘を申しまして失礼仕りました。殿下の御身が第一でございますゆえに」
ハンナはにこりともせずにそう言ってから、問題ありませんお召し上がりください、と殿下に紅茶を勧めた。
「ありがとう。アメジストは、そちらへ座って。オパールも」
「かしこまりました」
ネイとハンナは、殿下に示された椅子へ膝をそろえて座った。殿下は微笑んだままそれを見守って、少し、笑みの種類を変えた。
「さて。オパール、アメジスト」
「は、はい」
返事が上ずってしまったことを少し恥じながら、ネイは膝の上できゅっと手を握る。
「これから、女同士のお話をいたしましょう」
声をひそめてそう言った殿下の、青く澄んだ瞳はいたずらをする前の少年の輝きをたたえていた。
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