深海の底に花が咲く
葛原詩賦
プロローグ
パソコンのモニター画面には譜面と音符が並び、繋げてあるシンセサイザーをヘッドフォンで聴きながら、キーボードで打ち込んでいく。
コウキは毎日その作業を行っている。アルバイトが入っていない時間の殆どを作曲に費やしている。
音を打ち込み、聴き、少し修正してはまた打ち込んでいく。
その繰り返し。
よく「生みの苦しみ」という言葉がある。
作家や漫画家、主に芸術家、クリエイターなどがこの言葉を使う。
しかしコウキは、辛いとも苦しいとも思ったことがない。
寧ろその時だけ全てを忘れられ、その空間、瞬間に飛び込んでいける心地よさが身体中を駆け巡る。
作り続ける事が大事、だと常に思っている。
続けていけば、
だがそれを見つけ出し修正して次に生かす為の材料とする。
そして曲を作るのならば、常に世の中の流行りや話題にアンテナを張っていないといけない、とも思っている。
だからインスピレーションを大事にしなければならない。
どんなロジックで曲が化けるかなんて分からないのだから。
毎日曲を作り、ドレミファソラシドの海の中に浮かんでいる。
時には泳いだり、潜ったり。
コウキの頭の中はバイトと、バンド練習している時以外はそんな風に感じている。
しかしそう感じながらもコウキの目は、少し
その状態にコウキは
どんなに自分では前向きな気持ちで考えていても、
その虚ろの目で、彼は何を感じ、何を見ているのだろう。
もし「苦しい」「辛い」という言葉を使うのであれば、それは曲作りでもなく、バンド活動でもなく、現実であると考えながら不安と戦っている。
このままの生活を繰り返していて、本当に大丈夫なのか。
バンドは果たして売れるのだろうか。
自分の曲が何処まで通用するのか。
現実はそんなに甘くない。
夢を語る上で、必ず立ちはだかるのは現実という巨大な山脈。
その
それが吉なのか、凶なのか。
迷っていても仕方がない。
自分が選んだ道だ。
コウキはシンセサイザーの鍵盤を叩き、曲を作り続ける。
虚ろだろうが何だろうが、彼は曲を作り続ける。
**********
ユイは目の前の油絵に薬品を流していく。
描いていく工程で急に気に入らなくなったのだ。
描かれた油絵がドロドロと溶け出し、キャンバスから流れ落ちていく。
ここ最近、自分の描く油絵が気に入らない。
いや、ドローイングでさえも気に入らない時もある。
高校の時とは違い、自由に
両親の反対を押し切ってせっかく入った美術大学。
描くことの技術は当たり前だが、ユイにとって一番辛かったのは自由がなかったことだ。
彼女は聴覚障害者だった。
誰かの手助けがないと講義をまともに受けられない。
福祉のボランティアのおかげで手話を通して、講義を何とか受けられるが何処かユイは孤独だった。
ボランティアの人の目の奥に映る
耳が聞こえないというだけで健常者は色目でユイを見る。
慣れていたはずだった。
幼い頃から耳が不自由であることが原因で、公園で遊んでいれば知らない子達からイジメを受けた。
家にいるのが一番安心なのだが、子供だからやはり外で遊びたくなる。
しかしまた、イジメを受けるかもしれない。
時々感情のコントロールが出来ず、
特殊学級のある小学校に上がると、さらに彼女を追い詰める。
補聴器を馬鹿にされ、壊され、押したり、叩いたりすれば、今度はその発する声を馬鹿にされ。
何度両親が学校に抗議に出向いたことか。
最初から分かっていたはずだ
普通の学校に通うことなど難しいと。
子供というのは残酷だ。
人と違うことを馬鹿にし、標的にする。
やがて不登校になり、引きこもるようになった。
子供ながらにユイは思った。
何故、私は音を聞くことが出来ないの?
悲しみなのか、怒りなのか、分からない感情に
特殊学級で聴覚障害者はユイだけだった。
他の生徒は知的障害者が三人。
この三人は一切イジメを受けることがなかった。
分かっているのだ。
子供ながらに誰をイジメの対象にして、面白い反応をするのかということを。
ユイはその現実を幼い頃から知ってしまった。
そして転校を
健常者ばかりの小学校より、居心地は断然良かった。
少しずつ、ユイの本来の性格に戻り始めた時だった。
それは図工の授業での出来事だった。
彼女の描いた水彩画が驚くほど上手だった。
その水彩画の完成度に驚いた美術教師は、県のコンクールに応募することを薦める。
あまりその時はよく分かっておらず、何故そんなに薦めてくるのか、疑問にも思ったがそのままコンクールに応募された。
すると結果は最優秀賞。
『絵を描く』ことは好きだった。
しかし自分の描く絵が表彰されるとは思わなかった。
気付くことがなかった才能が
ユイは生まれて初めて『自分は胸を張って生きていいのだ』と感じた。
だからいつまでもマイナスに考えちゃいけない。
物事をもっと違う角度で、プラスに考えていこうと思い出したのはこの頃からだった。
両親にねだり絵画教室に通うようになると、まるで水を得た魚の様に吸収していく。
中学に上がる頃には、近所では有名になっていた。
『絵画の神童』
そう呼ばれるようになっていた。
ユイの両親も喜んだに違いない。
何故なら彼女を明るく健やかにしてくれたのは『絵を描くことで自分の存在意義を示す』ことが出来たから。
だが。
今はどうだ。
その神童は
ユイの両親は普通の生活を望んでいた。
だから聾学校を卒業したら、就職するものだと思っていた。
その為に色々な資格も取ったのだし。
しかしユイから美術大学へ行かせて欲しいという。
もちろん反対だった。
聾学校とは訳が違うのだ。
だが、ユイは引き下がることもなかった。
勘当覚悟で受けたいという。
これにはさすがの両親も折れ、美術大学を受け、見事合格。
憧れていた美大生になった。
しかし現実は気に入らない絵ばかりしか描けないでいる。
ユイには分からなかった。
分からないなりにも、描き続けることが重要なのは分かっていた。
私は耳が聞こえない。
聞こえないからこそ、感じ取れるものがあるはず。
いけない、マイナスに考えては。
出来が悪かろうが何だろうが描き続けなきゃ。
一度肩の力を抜いて頭をまずリセットしよう。
ユイは新しいキャンバスをイーゼルに固定し、木炭を手に取ると再び描き始めた。
部屋に
描いている時だけ、余計なことなどを考えなくて済む。
それを一番分かっているのはユイ自身だ。
絵に集中している時だけ、彼女は自由だった。
下書きから想像される、色彩の数々。
黙々と描き続ける。
その目は凛々しく、夢に溢れる瞳をしている。
ユイの夢は画家になること。
だからどんな苦難にも屈しない。
そういう覚悟で美大生になったのだから。
彼女が存在できる場所。
絵だけが、ユイの、唯一の自分で正直でいられる場所だった。
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