第3話 心に響き渡る音
ユイは次の作品に賭けていた。
パレットに絵の具を付ける。
パレットナイフで色を混ぜ合わせていく。
筆を手に取り、キャンバスに滑らせていく。
今までの描き方と、何かが変わったとユイは感じていた。
ライブに始めて行ったことで、彼女の心に衝撃が走ったのは間違いなかった。
ユイは聴覚障害者だから、そもそも音を聞くことが出来ない。
だからいつも孤独感を感じていた。
本音を言えば明るく振舞っていても、ネガティブ思考は幼い頃から変わっていなかった。
しかしその暗い影を打ち壊し、光を射し込んでくれたのはコウキだった。
コウキは健常者だ。
しかもミュージシャンを目指している。
ユイは聴覚障害者。
けれど画家を目指している。
そして…彼を苦しめてしまった。
リキから話は聞いていた。
(作曲とかやっていると、必ず誰かに聴かせたくなる衝動に駆られる。ことに身近な人だったら尚更だ。コウキはそれが出来ないのに悔やんでいた。それでも表現者として、どうすれば良かったのか、アイツなりに悩んでいたんじゃないかな?)
確かにユイも油絵だろうと水彩画だろうと、やはり誰かに見てもらいたいという気持ちになる。
その気持ちを知っていて、ユイはコウキの悩みに気付くことが出来なかった。
アイツは奥手なヤツだからとにかく傷付けたくなかったんじゃないか、と以前リキは言っていた。
チャットメールをしても既読なし。
リキが連絡を取っても応答なし。
だから自分が動くしかなかった。
例え連絡が取れなくても、コウキの姿だけ見れるならばいい、本当のコウキが見れる場所で。
リキの計らいで、ライブハウスに生まれて初めて足を運んだ。
多分周りは騒々しく、色々な言葉が飛び交っているだろう。
しかし、ユイには全く聞こえない。
客の迷惑にならないように、奥の隅で観たい、そうリキに手話で伝えた。
リキは頷いてユイの手を引いて、客席の隅へと案内してくれた。
突然照明の明かりが暗くなり、ステージに照明が集中する。
これからライブが始めるんだと、ユイは緊張気味で息を飲み込んだ。
まずユイの目に飛び込んできたのは、ベリーショートで金髪に襟足が青みがかった髪色のメイクの濃い、だけどどこか綺麗で反骨心が具現化されたような女性の姿だった。
声が聴けないのが本当に残念だが、表情からとてもパワフルな歌を歌っているのだろうとユイは認識した。
向かって右側を見た。
金髪でラフな、わざと痛めつけてあるTシャツを着た男性。
違う。彼ではない。
左側を見た。
そこにコウキの姿があった。
ベースを活き活きと弾く。
見たこともない左指の指さばき。
曲はとっくに始まっている。
だけど聴こえるはずがなかった。
だが。
突然、不思議な体験をした。
聴こえないのは当たり前だった。
それなのにユイの身体の奥に響き渡る振動。
一体何だろう?
ユイは何が起きているのか分からなかった。
感じたことのない、この感覚。
最初は戸惑ったが、コウキの姿を直視したことですべてに納得がいった。
コウキの奏でるベース音が、ユイの身体に響き渡っているのだ。
コウキの指さばきと、身体に伝わる振動がしっかりとリンクしている。
聴こえはしなくても、ユイの身体に常に反響として振動している。
そして信じられないことだが、その振動はコウキのベース音だけ。
他の楽器、歌は全く振動として響いてこない。
生まれて初めて身体全体で、振動という形でユイは音楽を感じ取れた。
演奏中であったが、ユイはリキに頼んですぐにライブハウスの出口に向かった。
まだ身体に残る振動。
それはまさしく、コウキが奏でていた音そのものだった。
(いいのか? ライブが終わればコウキに会えるよ?)
リキとユイは、いつもコウキと待ち合わせ場所として使っている公園にいた。
ユイは首を横に振った。
初めての経験に、ユイ自身も驚きを隠せない。
急に涙が溢れてきた。
(どうした?)
リキがユイの肩を優しく叩いて心配する。
(大丈夫です。何でもないです)
が、それとは違う身体に今も残る振動。
これは彼女にとって、紛れもなく『音』だった。
奇跡としか言いようがないが、間違いなくそれは『音』だったのだと。
それを感じ取れたことに、ユイは感じたことがない感動と喜びが入り混じった。
今でも身体中にコウキが奏でる音が、振動のように流れている気がした。
涙が止まらない。
ユイは初めて、コウキの心に触れることが出来たような気がした。
その経験を経て今、ユイはキャンバスに向かって筆を走らせている。
納得出来るまで、何度でも描き直す。
聴こえなくても、身体で感じ取れた。
信じ難い体験だった。
感覚を研ぎ澄ませ、集中しながら、今までにない絵を完成させる。
それを自分の絵画作品として残したい。
そしてこの作品を、次の全国学生絵画展に応募しよう。
これには私の全てを賭けてもいい。
ユイは改めて思った。
コウキに甘えっぱなしだった、そんな自分にサヨナラをしないといけない。
今度は私が、コウキ君に何かを与える番だ、と。
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