第4話 障害者と健常者

 同時刻。

 ユイは実家の制作専用の部屋で、課題提出用かだいていしゅつようの油絵の下描きをキャンバスに描いていた。

 木炭の擦る音が部屋に静かに響き渡る。

 両親はもう寝ている。

 夜は一番好きかもしれない。

 何故なら夜になれば、耳が聞こえない世界に思えるからだ。

 普段働いている人達が、夜を迎えることで(特に夜中)ユイがいつもいる世界に堕ちてくれると勝手に想像する。

 それだけでも創作力は湧き上がってくる。

 そういえばと彼女は今朝の出来事を思い出した。

 あのコウキという青年を。

 ユイは聾学校時代ろうがっこうじだい、かなりのお喋りで活発な女の子に成長していた。

 だが、大学に入学してからは真逆になってしまった。

 手話も両親としかしない。

 仲の良かった友人達も卒業とともにバラバラになってしまった。

 就職したり、普通に資格を取りに専門学校へ行ったり、大学に進学したり。

 大学でも美術大学を受けたのは、ユイただ一人だった。

 実家から通うのも少し大変である。

 片道電車かたみちでんしゃで三十分の所に大学があるのだが、耳が聞こえないというハンデから、人混みの中を急ぐことも出来ない。

 だからなるべく朝に講義がある際は余裕をもって早めに行くようにしている。

 人に気付かず、ぶつかっていることもあるだろうし、たずねられていることもあるかもしれない。

 だけど、ユイは聞こえないのだ。

 彼女の知らないところで、意図いとせぬ場面で、陰口を叩かれている可能性もある

 美大に通うようになってから、そういった不安の波がおおかぶさってくる。

 それが今日、ちょっと変わった健常者けんじょうしゃに出会った。

 ユイにぶつかってしまった事をひたすら謝り、その拍子で外れた眼鏡が踏みつぶされたことに対して、弁償をすると食い気味でいう彼。

 普通ならこっちが謝らなければならない。

あの人混みで気を張りながら、人の波を避けるようにゆっくりと、聞こえないながらの歩き方をしていた。

 ユイの後ろを進行方向に歩いている人からすれば、遅すぎると感じるのは当然のこと。

 もし急いでいるとしたら。

 そう考えるとユイは、自分の今の不慣れな生活に押し潰されそうになってしまう。

 だが、今日は違った。

 とにかく平謝りをする彼。

 ユイは必ず初対面の人の目を見る。

 スペアの眼鏡をかけた時に、彼の目を初めて見た。

 普通なら助けてもくれないし、散らばってしまった荷物を拾ってはくれない、しかもそんな時間帯にぶつかったとはいえ、助けてもくれた。

 だからその人のひとみを見たかった。

 少し疲れているような充血している瞳ではあったが、不思議と吸い込まれそうな雰囲気を持っていた。

 優しさに満ち溢れていると直感した。

 何故なら憐憫れんびんの目をしていないからだ。

 ユイが聴覚障害だと知っても、その瞳の色は変わらなかった。

 むしろ不思議なことだが、ユイの身体に電気が走る感覚がした。

 あれは一体何だったのだろう。

 この人のことをもっと知りたいと思った。 

 だから突然手を引かれて、ハンバーガー屋に連れてかれる事にも、何ら抵抗感はなかった。

 筆談ではあるが、話せば話すほどに興味が湧いてくる。

 そういえば彼はバンドをやっていることを、ふいにユイは思い出した。

 プロになる事を目指していることも。

 ユイは木炭を置き、作業台に投げ出されているスマホを手に取り、


『バンド プロ 目指す』


 と検索してみた。

 聴覚を失ってから、音楽なんて残っている記憶は幼き頃の子供番組の歌。無縁もいいところだった。

 検索しただけで、色々とワードに引っかかった。

 インディーズとメジャーの違い。

 インディーズのメリット、デメリット。

 ギター等の値段。

 インディーズで活躍している人達の大半はアルバイトをしていること。

 メジャー契約していても、アルバイトを続けているケースが存在すること。

 ユイは初めて知った。

 音を芸術に生業なりわいにしている世界を。

 そして成功者は僅か数パーセントにも満たないこと。

 これに関しては画家をこころざすユイにとっても同じではあったが、金銭のかかり方が段違だんちがいだった。その世界に彼は飛び込もうとしているのだ。

 そしてもうひとつ。


 彼は『生みの苦しみ』を知っている。


 曲を作っていると言っていた。

 アルバイトを何個も掛け持ちしていることも知った。

 いつ睡眠すいみんをとっているのだろう。

 あの充血した目が物語っている。

 だけど筆談をしている時の彼は、何だかとても楽しそうだった。

 ユイの感じた感覚は間違っていなかった。

 コウキという人物は必要以上の苦労を知っている。

 だから人に優しく、憐みな、差別的な見方をしないのだろう。

 正直健常者に対しての偏見へんけんは、少なからずユイは持ち合わせていた。

 もしかすると彼は、それをくつがえしてくれるかもしれない。

 自分を、取り戻し始めた気がした。

 だから彼が連絡先を交換しようと提案してきたときには、勿論こちらからもお願いします、という心持ちだった。

 そこからユイの講義時間まで至近距離なのに筆談をやめ、チャットメールの送り合いというはたから見たら、とても可笑しな光景かもしれないが、少なくともユイは楽しかった。

 彼と別れ、大学の講義中も集中出来ないぐらいの興奮が残った。

 いつも一緒に手話通訳しゅわつうやくしてくれるボランティアも、今日は何か良いことでもあったのか? そう尋ねるくらいだった。

 聞かれても教えなかった。

 ユイは勿体無もったいないと思ったからだ。

 冷やかされるとかそんな幼稚な理由ではなかった。

 スマホのチャットメールの、今日のやり取りを見返す。

 彼は絵文字をあまり使わないが言葉のチョイスが面白かった。

 対してユイは絵文字をこれでもかというほど使う。

 そんなのお構いなしで、彼はちゃんとチャットメールで返信してくれる。

 初対面で一気に距離が縮まり、仲良くなった健常者は初めてだった。

 こんな人とは滅多めったに巡り会えない。

 この出会いは今までの苦労のご褒美ほうびかもしれない。そんな風にユイの心が少し火照り始めた気がした。

 気持ちが暖かくなった。

 また彼に会いたいと思った。

 そしてまた、あの至近距離でのチャットメールを交わしたい、とも思った。

 でもやっぱり傍から見たら、その光景はやっぱり可笑しい。

 その構図こうずをユイは思い浮かべると、自然と笑顔が溢れた。

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