第5話 手話という『心』の会話

 今日はバイトもなく、昼間からの練習だったので、コウキは夕方にはスタジオを出ていた。

 帰りの道中、スマホを何気に取り出して画面を開いた。

 ユイからチャットメールが届いている。


『明後日の午後、時間ありますか?』


 誘いのメールだった。

 彼女と出会ってからもう一か月は経とうとしている。

 何度か会い、会話は筆談かチャットメールのみ。

 ユイと会う時間は勿論楽しいのだけれど、

 コウキは少し不便さを感じ始めていた。

 もっと彼女と会話をしたい。

 それも効率こうりつよく。


「はい。大丈夫っス。待ち合わせ場所はいつもの時間にいつもの公園でいいですか?」


 ユイとの待ち合わせ場所は、人通りの少ない閑静かんせいな場所にしていた。

 それはやはりあのようにコウキとぶつかってしまった時みたいに、転んで怪我をしてほしくなかったからだ。

 だからなるべく人通りの少ない、彼が所属している事務所兼スタジオから、そう遠くない公園を待ち合わせ場所にしていた。


『わかりました。それじゃまた明後日』


 コウキは明後日、ある事を実行に移そうと決めていた。

 それはユイと三回目に会った時の帰り道、たまたま本屋の前を通った時のこと。

 何気にふとコウキの頭に


『手話を覚えれば、ユイと直接会話が出来る』


 と思ったのだった。

 何故今まで思いつかなかったのか。

 すぐさま本屋に入り、手話の教材本きょうざいぼんを購入。

 バイトもなかったので直帰した。

 アパートに着くなり、部屋に入ったらすぐに本を読み始めた。

 コウキは夢中になって本を読み、手を動かしながら手話の練習をした。

 この瞬間、コウキは感動を覚えた。

 手話というのは凄い。

 これさえ出来れば何処でも会話が出来る。

 バスの中だろうが、電車の中だろうが、目が届く範囲はんいなら何処でも。

 しかも声を発さずに、周りに迷惑かけずに会話が出来る。

 二人だけの会話が出来る。

 この手話を発明した人に、敬意を払いたいと素直に思った。

 音のある当たり前の世界で育ったコウキからすれば、手話は本当に感動でしかなかった。

 曲作りもしつつ、休憩がてらに手話を夢中になって練習した。

 コウキは一度感動したり、興味が湧くものに目が向くと、掘り下げないと気が済まないという性分しょうぶんがあった。

 だから手話の吞み込みもすこぶる早かった。

 わざわざ鏡の前に立って、手の向きや角度にさえ気を遣う入れ込みよう。

 その練習の成果を明後日、ユイの前で披露ひろうしようと思ったのだ。

 ユイの驚く顔が見てみたい、というちょっとした悪戯心サプライズもあった。

 でも何よりちゃんと「彼女の声を聞きたい」というのが本音であった。

 手話というのは、手の動きによる心の声。

 コウキは、ユイと真っ直ぐ心から会話がしたかった。


 あっという間に約束の日を迎えた。

 コウキはいつもの公園に、少し早めに来ていた。

 自分が覚えた手話に、自信があるかといえば、はっきりいって無いに等しい。

 ただ無我夢中むがむちゅうになって教材本に書かれていたことを、コウキはほぼマスターしていた。

 手話を覚える。

 普通ならそう簡単に覚えることは出来ないのだが、コウキはそれをたった一週間ほどでこなしてしまった。

 集中力が段違いなのかもしれない。

 それでも果たして、上手にユイに手話で伝えることが出来るのか。

 約束の時間が近づくにつれ、緊張感が増してきた。

 突然コウキの肩をポンポンと叩く感触。

 振り返ると笑顔のユイがそこに立っていた。

 ユイが(待ちました?)というメモを見せると同時に、コウキの両手が自然に動いた。

 コウキの顔が強張る。

 上手く伝わっているだろうか。

 ユイの表情が読み取れない。

 驚きの表情なのか、全く解らなかった。

 もしかして間違えたのか?

 失敗だったのか?

 やはり伝わらないのか?

 そう思って自分の両手を眺めているコウキだが、ユイが急に両腕りょううでつかんだ。

 驚いて顔を上げると、ユイが初めて見せる笑顔で指を動かし始めた。


(手話を覚えたの? いつ? 覚えるの、凄く大変なんだよ?)


 喜んでくれた。

 コウキの心の声が伝わった。

 これでもっと、沢山の会話が出来る。


(ユイさんともっとちゃんとお喋りがしたくて。僕の手話、合っているかな?)


 するとユイは、大きく頷いて、


(大丈夫だよ、凄いよ! コウキさん!)


 目をキラキラとさせて、ユイは驚きと喜びの感情が入り混じった嬉しさが心を駆け巡る。


(間違っているところがあったら教えて。ユイさんの方が手話の先輩なんだから)


(そうだね、それじゃここはもう少しこうした方が……)


 手本を見せるユイ。

 コウキは教わりながらこう思った。

 ちゃんと伝わった。

 彼女と意思疎通いしそつうの会話が、本当の意味で初めて出来た。

 そして何より喜んでくれた。

 それが嬉しかった。

 手話を通して、いつも以上に会話が弾んだ。

 ユイは思った。

 やっぱこの人は優しい人だ。

 同じようにコウキも思った。

 手話でやっと、彼女の心に触れることが出来た。

 その日は二人にとって、特別な日になった。

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