2・様々な現実
第1話 バンドマンと聴覚障害者
手話によって、お互いのコミュニケーションが取れるようになったコウキとユイ。
それで意外とユイが、お喋りだったことに驚いた。
彼女は手話でよく喋る。
ユイに教えてもらいながらも、よく喋る。
コウキのぎこちない手話も段々と慣れていく。
コウキの思い描いていた、ユイに対する印象も少しずつ変わっていった。
彼女は手話で平気にスラングな言葉を使う。
言葉を発せられるとしたら、その辺にいる女子と全然変わらない。
だから余計に話しやすかった。
冗談も言いやすく、それに突っ込み、突っ込み返したり。
コウキにとって、ユイと出会ってからこの時間、空間がとても心地よかった。
それはユイも同じだった。
健常者で初めてボランティアではなく、手話の出来る普通の友達。
会う回数に連れ、お互いが会える時間が唯一の楽しみになっていた。
だがコウキだけ楽しみで安らぐからこそ、手話でなかなか伝えることが出来ない内容があった。
『音楽をやっている自分のことを、踏み込んで詳しく話せない』
ユイが画家の卵であることは知っている。
だから彼女が思い描くものを会話で通して、新鮮であるのも確かだ。
しかし自分はどうだろう。
世間話程度でバイト先の話、後はくだらないどうでもいいような話ぐらいしかしていない。
コウキはバンド活動を
それは遠慮しているのか、それとも聴覚障害であるユイに、悲しい思いをさせたくなのか。
コウキ自身にもそれは分からなかった。
バンド活動を話す事にもどかしさがあるのも正直なところ。
それでも彼女との時間は、コウキの
そして季節はもうとっくに夏になっていた。
日中だろうが夜だろうが、蒸し暑さが続くのが変わらない季節。
熱帯夜でも、コウキ達『スピン・メディア』は今日もオールで練習だった。
定期的なバンド練習。
スタジオ内はこれでもかというほど、冷房が効いている。
それだけ練習の熱量も半端じゃない。
ある意味でスタジオもまさに熱帯夜であった。
セカンドアルバム用の曲も完成して、今はそれを中心に練習している。
各々模索しながら、編曲を持ち込み練習しながら、曲を形作っていく。
それぞれの編曲を披露し合い、採用できるところを盛り込んでいく。
ルナは入念に曲を聴き込みし、出来上がった歌詞に修正を入れながら歌い込む。
その作業が終わると、初めて演奏とルナのボーカルを合わせる。
各々のパートを編曲していく作業を繰り返しながら、曲を一曲一曲完成させていく。
今日だけではなく、暫くのオールはこれの繰り返しだろう。
幸いライブも今のところは入れていない。
やはりアルバム制作となると集中もしたいし、スタジオに
休憩を挟み、いつもの様に休憩スペースのソファに身を落とすコウキ。
むくりと起き上がり、手に持ったスマホの画面を見る。
ユイからのチャットメールが届いていた。
(今日の練習、頑張ってね)
それだけでコウキの励みになる。返信しようとしたその時だった。
「ユイって誰?」
思わずスマホを落としそうになる。
振り返るとルナが立っていた。
バレた。
コウキが最初に思ったのがこれだ。
しかも一番バレたくない相手であるルナに、まさかバレてしまった。
「いや、これは、バイト先の……」
しどろもどろになってしまうコウキ。
「嘘をつくのが本当にヘタクソだね。で、一体誰?」
ニヤッと不敵な笑みをこぼすルナ。まるで新しい玩具でも見つけたかのような、嫌な笑い方である。
「お前に教える道理はないよ」
「ほーっ、そうですか」
ルナは
「ねぇー! コウキが女の子とメールしているけどー!」
ただでさえ声を売りにしているボーカリスト、張りのある声で叫ぶ。
「バカ! やめろ!」
慌ててルナの腕を掴むコウキ。
「だって事実じゃない。あとこれ、セクハラ」
慌てて掴んでいた腕を放す。
悪戯っぽく笑い、舌を出す。
「いいから。とにかくやめてくれ、マジで。今はバンドの練習に集中してくれよ」
「女とメールしながらよくそんなセリフが出てくるね。逆に開き直ってない?」
「でも迷惑も何もかけていないだろう? いい加減にしてくれ。練習するぞ」
「さっき休憩時間、入ったばかりなのに?」
コウキは立ち上がり、スタジオに戻ろうとするが、すぐに振り返ってルナに念を押した。
「いいか、もしメンバーに言いふらしてみろ。ただじゃおかないからな」
そう吐き捨てるとスタジオの中に入ってしまった。
ルナは今まであんなに怒るコウキを知らない。
ユイって誰なんだ?
ルナは気になって仕方がなかった。
実はコウキとルナは中学時代の
そしてルナの初恋の相手もコウキだった。
中学二年の春。
その頃からヤンチャであり、ギャルで男子生徒としょっちゅう喧嘩していたルナは、屋上で
『素行が悪い』
この一言に尽きる。
絵に描いたような学生生活をしていたルナ。
ある日通りかかった音楽室から、ピアノの音色が聞こえてきた。
最初は音楽教師が弾いているのだろうと思った。それにしては美しいまでの流れるような
しかもその当時の流行りの曲を、ピアノで大胆にアレンジしながら弾いている。
ルナは流行りの曲であることに最初は気が付かなかった。
気が付くや否や、思わずドアを開けてしまった。誰が弾いているのか気になったからだ。
弾いているのは男子生徒だった。
グランドピアノで慣れた手つきで弾いている。
視線に気付いたのか、男子生徒は演奏を止め、ドアの方に振り返る。
これが初めてルナとコウキの出会いである。
『さえない男子が流行りの曲を、即興で大胆にアレンジして弾く』
コウキに対するルナの第一印象。
しかしコウキとルナの間が近付くのに、それほどの時間はいらなかった。
ルナは歌うのが幼い頃から好きだった。
上手い下手は別として、とにかく歌うことが好きだった。
だからそのままコウキを捕まえ、何でも弾けるのか尋ねた。
「一応、知っているのなら…」
ルナはリクエストをして、コウキにピアノを弾かせた。
それに合わせて彼女は歌った。
コウキも段々ノッてきたのか、一段とピアノの旋律が熱くなっていった。
それからは放課後や時間さえあれば、
下校も一緒だった。
不釣り合いな二人。
ルナは今時のギャル。
一方、学ランの詰め襟をちゃんと留めている。
傍から見たらオタクにも見えるコウキ。
だがコウキからすれば、母親意外と初めて異性と話したのはルナでもある。
その頃からコミュ障のコウキ。
ルナと
そして不釣り合いながらもお互いに意識し始める。
やがてコウキはルナに告白した。
ルナは二つ返事で付き合うことになった。
が、それも三か月という短さで
ルナがコウキを振ったのだった。
理由は明確だった。
コウキはピアノを弾いている時以外は、非常につまらない男子生徒だった。
デートらしいデートもしない。
例えデートしても殆ど会話がない。
ルナもそれなりの努力はした。
茶髪だった髪を黒く染め、コウキが好きな音楽を聴くようになって、話題を寄せていったりもした。
だがお互いに若かった。
限界も早かった。
キスはおろか、手も繋がないという奥手のコウキに嫌気をさして振った。
それからのコウキは知らない。
中学を卒業してそれぞれ別々の高校へ進学。
高校卒業して、偶然バイト先で再会するまで、コウキのことは忘れていた。
そしてコウキがバンドをやっているが最近ボーカルが辞めたというので、高校在学中からボーカリストになる夢があったルナが加入することとなった。
メンバーチェンジを何度かして、今のメンバーに落ち着いた。
そんな中学時代から、結成時までの思い出が昨日のように甦る。
それが未だに女に奥手のコウキに女の影を感じ取ったルナ。
学生時代とは違うし、そもそもバンドメンバーになるまでの間、コウキの女性関係など知るはずもない。
ルナが知っているコウキは中学時代で止まっている。
ルナは何故か『ユイ』という名の女が気になってしまった。
オール明け。
それぞれスタジオを出ていく。
朝だから少しは
夏の暑さは日に日に強くなるばかり。
朝陽と暑さにめげそうになりながらも、コウキはそのまま駅に向かおうとすると、
振り返ると悪戯っぽくルナが笑顔で立っていた。
「何だよ、何か用か?」
「ねぇねぇ、ユイって誰よ?」
顔が強張るコウキ。その表情をルナは見逃さなかった。
「メンバーに言っちゃおうかな? コウちゃんに彼女が出来ましたって」
「そんな関係じゃないよ」
意外な返答だった。
だったらスマホの画面を見ていた、コウキのあの穏やかな表情は、何だったのだろう。
あの顔は恋をしている時の、まさに中学時代に告白してきた、コウキの表情そのままである。
ルナは胸に小さな痛みを感じた気がした。
「そんな関係じゃない? じゃあ何でコソコソする必要があるのよ?」
「別にいいだろう? プライベートまで関与してくるなよ」
「あっそ。じゃあ中学時代、付き合っていたことも、メンバーに言ってもいいのね? 言っちゃうわよ~?」
「はぁ? それこそもっと関係ないだろう?」
ルナは何だか
今まで自分にしか見せたことのない表情を、現在進行形で見せたことに嫉妬していた。
しかしその感情にルナ自身は、全く気付いていない。
「確かに僕とルナは付き合っていたよ、でも三か月ぐらいだろ? 何もしてないし。そんな昔の話をメンバーに言いふらして何か得でもあるのかよ」
「ないけど。面白いかなーって」
「勝手にすれば」
コウキは踵を返してその場から去ろうとする。
すると急に逆ギレをし始めるルナ。
「えーそうですよ、確かに降ったのはアタシ。高校別々になってそれっきりだったのに、まさかのバイト先で再会」
「何だよ、今度は逆ギレか?」
「コウキがバンドやっていて、女性ボーカルを探しているって入ったのがアタシ。それだけの関係よ」
何故こんな意地の悪い事をするのか、ルナ自身も全く分からなかった。
もう嫉妬の他でもない。
だがルナは突然、
「けどさ。アタシ達、バンドでメジャーを目指しているのよね? 女にうつつ抜かしていていいの? それよりもやらなきゃいけないこと、沢山あるんじゃないの?」
コウキの足が止まる。
何故かその言葉が胸に突き刺さった。
「アタシだってバイトもそうだし、作詞に煮詰まって、そりゃ誰かに甘えたくなる時だってあるわよ。それこそ男がいれば全力で甘えたくなる。だけど、今はそんなの言っていられない時期でしょ? 違うの? 次のアルバムにアタシ、賭けてるんだから」
コウキは振り返って何か言おうとするが、その言葉がうまく出てこない。
ルナはコウキの表情を見て、複雑な気持ちになった。
言い過ぎた。
アタシのいけないところだ。
そんな表情をさせるつもりはなかったのに。
後悔した。
これじゃいけない。
ルナは直ぐに切り替えて、
「ゴメンゴメン、ちょっと
ルナは逃げるようにしてその場を後にした。
残されたコウキは唇を噛み締めていた。
ユイのことで、全く言い返せなかった自分に
実際にユイに対して、全てをさらけ出せていない。
それなのに彼女の前では、何もかもが許される気持ちになる。
ユイはそんな存在だった。
特別な存在なのに何ひとつ言い返せなかった。
そんな自分が悔しかった。
そしてふいに頭の中を横切る想い。
ひょっとして、自分はユイに恋をしているのか?
図星だったから、何も言い返せなかったのか?
もしそうだとしたら、とてもいけない。
彼女は聴覚障碍者。
コウキはプロを目指す、ミュージシャンの卵。
恋愛になんてなったら、お互いが嫌な思いをするに違いない。
その事実に気付かされた気もした。
ふと空を見上げる。
朝陽が
普通であれば、この朝陽や空の色が綺麗だと思うかもしれない。
しかし今は返ってその美しさが、こんなにも残酷に見えるとは思わなかった。
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