第2話 出逢いは唐突に

 オールは正直キツイが、これもバンドの成長の為である。

 ちなみにオールとは『徹夜で練習をする』こと。

 バンドをやっているとよくこの言葉が使われる。決して夜遊びのオールではない。

 ベースやアンプ、ドラムなどを倉庫に預け、すぐに帰宅準備に入る。

 コウキの今日の予定はアパートに帰ったら、夕方まで寝て起きたらすぐにバイトに行かなければならない。

 バイトが終わったら直帰ちょっきで眠くなるまで作曲を行う、という不規則ふきそくなスケジュール。

 メンバーそれぞれバイトをしているから、すぐに荷物をまとめてスタジオを出た。

 朝陽が眩しくコウキを照らす。しかしその朝陽にじり、スタジオの前にある公園にそびえる桜の木が美しく見える。

 毎日が不規則なせいか、春の陽射しが目を突き刺してくる。

 そしてその光が、目の奥で乱反射らんはんしゃしているような気がしてならない。

 かろうじてコウキは頭痛までとはいかなかったが、少しだけ足元が覚束ない気がした。

 オールばかりしているからこういう症状が出ているのかもしれない。

 だけど音楽の為、バンドの為と思うと、そういうマイナスのイメージが嘘のようになくなる。


 病は気から。


 あながち、間違ってはいないのだろう。

 スタジオから出て自販機じはんきで缶コーヒーを買い、アパートまで帰る為の眠気覚ましに一気に飲み干す。

 おもむろにポケットからスマホを取り出してロック画面を見る。

 既に八時を超えていた。


 まずい。


 大体彼らのようなバンドマンにロクな休日なんてない。

 今日は平日だ。

 完全にラッシュ時に入っている。

 慌てて駅に向かう。

 それぞれが行き交い、少しずつ多くなってくる。

 増えてくる人の波。

 最悪だ。

 完全にラッシュに飲まれてしまった。

 早く帰らなければ、それだけで睡眠時間を削られることになってしまう。

 そうなったら、夕方のバイトに支障をきたすかもしれない。

 まるで競歩きょうほ並みの急ぎ足だ。

 急げば急ぐほど、人の行き交いが激しさを増す。

 コウキはあまり人混みに慣れていない。

 だから気を使いながら、人の波をかき分けていく。


 急ぎ足でかき分けていくうちに、アクシデントまではいかないが困ったことになった。

 コウキの進行方向しんこうほうこうに歩くペースが少し遅い、三つ編みの女性の後ろ姿が目に入った。

 小柄で細身の体型であるのに、大きなリュックを背負って、さらに肩からトートバッグを掛けている。

 荷物が重いから歩くペースが遅いのか。

 無理矢理追い抜くことも出来る。

 しかしそんなことをして女性にぶつかってしまうのは忍びない。

 だが、そんな迷っている時間もない。

 コウキは大股を広げ追い抜こうとした。

 予想通り女性の肩に当たってしまい転んでしまった。

 しかも前のめりに、大きく転んでしまったのだ。

 しまった。

 やってしまった。

 コウキは直ぐに起き上がる。

 バックの中身を派手にまき散らしてしまったその女性は、慌てて散乱してしまった持ち物を拾い始める。

 コウキも謝罪しながら女性に手を貸す。

 その時ふいに、女性の顔を覗き込めた。

 化粧っ気が全くないのだが、綺麗と可愛さを兼ね備えたような、そんな容姿をしていた。

 少しそばかすがあるがそんなの関係のないほどの容姿。

 その女性はコウキに目もくれず、辺りを見回し何かを探しているようだった。

 我に返ったコウキは辺りを見回す。

 目線の先には眼鏡が転がっていた。おそらくこの女性の眼鏡だ。

 だが今は通勤ラッシュ時。人の多さは尋常じゃない。

 無情にも眼鏡はサラリーマン達に踏まれてしまう。踏んだことにも気付いていないであろう。

 コウキは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。女性の方に向き直って、

「すみませんでした! 必ず弁償べんしょうしますので!」

 と頭を下げる。

 しかしその女性は真っ直ぐコウキを見つめるだけである。

 すると「あっ」という表情を見せ、首から下げているメモ帳に何かを書き出しコウキに見せてきた。


(私は耳が聞こえません)


 唖然あぜんとした。

 そしてすぐに思い返した。

 彼女が歩くのが遅かったのは荷物が重いとかではなく、耳が不自由だから。

 彼女なりの安全な歩き方をしていただけなんだ、と。

 コウキは自分が恥ずかしくなった。

 しかしここにしゃがんでいても通行の邪魔になるだけ。

 少し強引にコウキは女性の手を引いて、目の前にあったハンバーガー屋に駆け込んだ。

 その女性も驚いたがコウキの表情から申し訳なさを感じ取っていたから、特に抵抗ていこうすることなくそのまま一緒に入っていった。


(ゆっくり話してもらえれば通じますから。口元の動きで多少は何を発しているか分かります)

 テーブル席に座りホットコーヒーを二つ置いた。

 コウキはゆっくりと、眼鏡の弁償をさせて欲しいと伝えた。

 ぶつかりさえしなければ、彼女の眼鏡が踏まれるようなことにはならなかった。

 しかし彼女は、

(大丈夫です。スペアがありますから)

 メモにサラサラッとペンで書き、リュックから眼鏡ケースを取り出す。

 中にはスペア用の眼鏡が入っており、取り出すなり掛ける彼女。

 随分ずいぶんと分厚いレンズだった。かなりの近眼きんがんに違いない。

 よく漫画に出てきそうな、牛乳瓶ぎゅうにゅうびんの底のように分厚い。

 コウキはそんな印象を受けた。

 そしてまた眼鏡姿で印象が変わる。

 さっき見た印象と打って変わって、地味な女性に様変わりしてしまった。

 眼鏡ひとつでこんなにも変わるものなのか。

 ホットコーヒーを啜りながら、コウキはあることに気付く。

 あんな派手な転び方をしたのだ、怪我けがはしていないのだろうか。

 それを伝えると、

(ちょっと擦(す)りむいただけ)

 とメモ帳に書いた。

 コウキはいつも常備じょうびしている絆創膏ばんそうこうを彼女に渡した。

 貼る前によく傷口を洗って下さいと添えながら。

 大きな怪我もなく良かった。

 安心したのも束の間、えらいことに今度は気付く。

 今日は平日。

 世の中の勤労者達は、働いているのが当たり前。

 彼女の都合つごうを無視して、ここに慌てて連れてきてしまった。

 どこまで抜けているんだ、オールしたせいで完全に脳が働いていない。

 彼女に仕事の時間とか大丈夫ですか? そう伝える。

(大丈夫ですよ。私は大学生なんで。次の講義まで、まだ時間がありますから)

 コウキはほっとした。

 ぶつかり、転ばせ、怪我までさせて。

 さらには眼鏡の破壊(故意こいではないが)

 このまま迷惑かけっぱなしというのも、よろしくないとコウキは思う。

 やはり弁償だけはさせて欲しいと伝える。

 わざとではないのだから、気にしないで欲しいという彼女。

 どうしたものかと考えていると、ふいに彼女の指先に目がいく。

 ところどころ汚れている。

 しかも様々な色が混ざっているようにも見える。

 コウキは大学で何を学んでいるのか、少し気になり聞いてみた。

 すると彼女は美大生で、画家を目指しているという。

 化粧っ気がなく、指先は絵の具で汚れている。

 彼女は夢を追っているのだろう。

 勝手にコウキは解釈した。

 自分もプロのミュージシャンを目指している。

 何か共通する、惹かれるものを感じた。

 思い切ってコウキは、自分がバンドをやっていることを伝えた。

(バンドをやっているんですか? 凄い!)

 そこで初めて彼女の笑顔を見た。

 品のある笑顔。

 眼鏡越しでもそれが伝わってくる。

 そしてさっきから気になっていた。彼女の書く字。

 筆談ではあるがその書くスピードは速く、しかも綺麗で丁寧ていねいな字をしていた。

 文字に性格が表れる。

 そんな話をコウキは何処かで聞いたことがあった。

 もしかすると彼女はとても品のある、心が綺麗な女性なのかもしれない。

 勝手にコウキは妄想にふけ込んだ。

(私は三歳から全く音が聞こえなくなって。記憶として残っているのは、テレビの子供番組から流れる歌だったのが最後かな。うる覚えだけど)

 最後に音を聞いたのが三歳。

 相当でない限り、覚えていない記憶。

 それが子供番組とはいえ、それが歌だったという。

 何か縁を感じるようにもコウキは思えてきた。

 思い切って彼女に質問をぶつけてみた。

 耳が聞こえないというのは、一体どのような感じなのか。

 すると彼女は少し考えてから、メモ帳にササッと書きつづった。

(例えが難しいけど、海の底にいるような感じかな?)

 やはり感性が普通の人とは違うと思ってはいた。

 コウキは彼女に興味を持ち始めていた。 

 もしかすると彼女と接していることで、何かのインスピレーションが降り注いでくるかもしれない。

 さっきまでコウキは早く帰宅し、寝ることばかり考えていたがどうでもよくなっていた。

 この娘は自分に色々なものを与えてくれるかもしれない。

 本当に弁償しなくていいのか、もう一度コウキは確認した。

(全然、大丈夫です)

 それが分かった上でコウキはお互いに芸術家の卵だから、たまにはこうして会ってもらえないか頼んだ。

 お互いがお互いを高め合う為に、ということを添えて。

(それ、良いですね。そうしましょうよ)

 意外だった。

 今日初めて会ったばかりなのに。

 断られるだろうと思っていたのに逆に驚かされてしまった。

 結構大胆だいたんな娘なのだろうか?

 そう思いながら彼女から、ペンとメモ帳を借りて何やら書き始める。

 書き終えるとメモ帳とペンを返した。

(僕の名前はコウキ。二十一です。よろしく)

 それを見た彼女は驚いていた。

 そしてすぐに描き始め、コウキに見せる。

(私はユイ。今年で二十歳、歳が近かったんだね。ビックリしたよ)

 年齢が一つ違いだが、世代的には同じようなものだ。

 そのままお互いの連絡先を交換。

 コミュニケーションアプリに自動登録された。

 これでいつでもチャットメールが出来る。

 ユイの大学の講義の時間まで、チャットメールで会話を交わした。

 コウキも文字を打つのが早いが、ユイはそれ以上に速かったことに驚かされる。

 コウキはユイとの出会いに、何かしらの縁を感じた。

 目指す場所はことなるが、音楽も絵画かいがも芸術のひとつだ。

 自分達はその卵だ。

 チャットメールを通して、何気ない会話をしていった。

 この何気ない会話が、自分達のジャンルに貢献することを願いながら。

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