46.良かった

 人気のない校舎から離れて、俺は自販機で買った紅茶で優雅にティータイムしていた。

 三人の話が一段落つくまでの時間潰しである。終わったら千夏ちゃんがメッセをくれるはずだ。

 しばらくすると、背後から軽やかな足音が聞こえてきた。おそらく千夏ちゃんだ。早く俺に会いたくてメッセを送るのももどかしかったに違いない。

 飲み終わった紅茶の紙コップをゴミ箱にシュートし、格好良く振り返って彼女を出迎えた。


「ひでぶっ!?」


 しかし、出迎えの言葉を発することはできなかった。

 ていうか今の顔面への衝撃はなんだ!? 崩れそうになる体勢を立て直して、俺は犯人を見た。


「将隆くん、あまり格好つけない方がいいですよ。似合わないですから」

「ま、松雪?」


 ニッコリ笑顔の松雪がそこにいた。両手で鞄を持っていることから、さっきの衝撃の正体を知った。


「おい、今その鞄で俺の顔面殴っただろ」

「殴ったなんて言わないでくださいよ。ちょっと当たっただけで大げさです」


 ちょっとの意味を間違えて覚えてんじゃないのか。

 じと目を松雪に向けると、彼女はくすくすと笑った。


「それに、隠れて盗み聞きをする将隆くんも悪いんですよ」

「なななな、なんのことだよ?」

「しらばっくれてもダメですからね? 私にはバレバレでしたよ」


 隠れて様子を見ていたことがばれていたようだった。そんな素振り全然なかったのに、松雪の観察力はどうなってんだ。


「将隆くんって過保護ですよね」

「なんだよ、千夏ちゃんのことか? 彼氏が彼女を甘やかして何が悪いってんだ」

「千夏さんのこともそうですけれど……。将隆くんは自分が影響力の大きい人だって自覚するべきですよ」

「影響力? よくわからんけど、千夏ちゃんに良い意味で影響を与えられる奴にはなりたいって思ってるぞ」

「うふふっ」


 なんでそこで笑うんだよ? やっぱり松雪ってよくわからん奴だ。

 わからない奴だけれど、前とはちょっとだけ雰囲気が違っているように感じる。


「千夏ちゃんと大迫と話をして、松雪にとって、良かったことになったか?」

「そうですね、良かったと思います。本当に、とても……」


 良い悪いなんて人それぞれだ。松雪自身が「良かった」って思えたんなら、それで良かったんだろうな。


「あの、将隆くん」

「なんだ?」

「……嫌がらせして、ごめんなさい」


 松雪は頭を下げた。サラサラの黒髪が肩から流れ落ちる。

 嫌がらせってのはあれか。修羅場を俺が目撃してたのを知っていたってやつ。そのことを伝えられはしたけど、別に嫌がらせってほどのものではなかったけどな。


「いいよ。むしろ松雪に言われなかったら千夏ちゃんに伝える勇気が出なかったかもしれないし」


 松雪が顔を上げる。その表情からは安堵しているのが感じられた。

 最初は悪い事実を知られたことに落ち込みはしたけれど、結果的には良い方向へと向かった。

 大迫から話を聞いて、松雪がいろいろとやっていることを知った。でも、今こうやって振り返ってみれば、不思議と悪いことになっている人はいないんだよな。


「許してくれてありがとうございます。ついでに一つ、お願いしてもいいですか?」

「お願い? 俺にか?」


 なんだろう……。一気に雲行きが怪しくなったような気がするんですけど?


「私、千夏さんと友達になったんです。ですから、夏休みはいっしょに遊ぼうって話になりまして」

「へぇー。それは良かったな」


 千夏ちゃんの友達が増えたという点でも良かったことだろう。


「はい。なので申し訳ありませんが、将隆くんが千夏さんとデートをする時間が少し減ってしまうと思います」

「……は?」


 え、デート減らされるとか聞いてないよ?


「ということですので、将隆くんは了承してくれたと千夏さんに伝えておきますね。さすがは将隆くんです。あなたの優しさには、私は感謝に堪えません」

「ちょっ、おまっ」

「では、私は帰りますので。さようなら将隆くん」


 松雪は駆け出した。両手に鞄を持って、長い黒髪がなびいて優雅な走りっぷりだった。

 その姿が見えなくなる前に、松雪が振り返る。


「んなっ!?」


 赤い舌を「べっ」と出してから、楽しそうに駆けていった。


「なんか……、松雪って思ってたよりも子供っぽいんだな」


 少しだけ彼女の印象が変わる。

 でも、前よりも少しだけ親しみやすくなったように感じた。


「マサくん」


 なんて思っていると、今度は千夏ちゃんが来た。

 松雪のせいで格好良く迎えられなかったじゃないか。微笑んでいる千夏ちゃんを見たらどうでもよくなったけども。


「それじゃあ、いっしょに帰りましょうか」

「おう」


 当たり前のように千夏ちゃんと並んで帰宅する。互いにとって、それが当たり前になったのだ。


「そういえば大迫は?」

「先に帰ったわ。今日からボクシングジムに通ってトレーニングするんだって言っていたわね」

「ボクシングジム!?」


 まさかの本格的な奴である。大迫も本気で自分を変えようとしているようだ。

 俺も負けてられないな。千夏ちゃんに肉体美を褒められるように、トレーニングメニューを見直そうかな。


「千夏ちゃんは、夏休みに松雪と遊ぶのか?」

「ええ。私達ね、友達になったのよ」


 嬉しそうに報告してくれる千夏ちゃん。気になってる相手だったもんね。


「松雪と遊ぶから、もしかして……俺とのデート時間が減らされるのかな?」


 千夏ちゃんの言葉を遮り、俺は気になってることを聞いてしまった。

 やべー……、これじゃあ友達よりも俺を優先してくれって言ってるようなもんだ。これでうざい男って思われたらショックだ。

 でも聞かずにはいられなかったのだ。だって、千夏ちゃんとの夏休みを楽しみにしているんだから。


「ふふっ。マサくんとのデートが最優先に決まってるじゃない。綾乃ちゃんもそれは知っているわ」

「くっ、はめやがったな松雪め……」


 千夏ちゃんはおかしそうに笑った。そして、愛おしそうに俺と腕を絡めてくれる。


「初めて彼氏といっしょに夏休みを過ごせるんだもの。もちろん、イチャイチャさせてくれるわよね?」


 胸がドキドキする。千夏ちゃんと目を合わせて、俺は力強く頷いた。


「当たり前だ。飽きるほどイチャイチャしようね」


 千夏ちゃんの頬がぽっと朱に染まる。とても可愛く照れていた。

 それから、千夏ちゃんは自然に目を閉じた。俺も、それが当たり前のように彼女にキスをした。


「んっ……」


 夏の空の下。唇を離した時に漏れた彼女の吐息は、とても熱かった。

 ──夏休みは、もうすぐそこまで近づいていた。


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