41.綾乃の価値観(前編)

 小学生時代。綾乃のクラスでは友達を名前で呼び合う決まりごとがあった。


「みんなお友達なんですから名前で呼び合いましょう。よそよそしく名字で呼ぶだなんておかしいですよね? 先生はみんなが早く仲良しになってほしいと思っていますよ」


 担任の優しそうなくしゃくしゃの笑顔に、綾乃を含めたクラスの全員が元気良く返事した。


「遊ぼうよ綾乃ちゃん!」


 先生の言ったことは本当だった。「綾乃ちゃん」と呼ばれ、自分も相手を名前で呼ぶようになってから心の距離がぐっと縮まったと綾乃は感じた。

 男子も女子も関係なくて、みんなと仲良くできた。綾乃の楽しかった思い出である。


「綾乃ちゃん……俺、綾乃ちゃんのこと好きなんだ……」

「うん。私も好きだよ」

「えっ、本当に!?」

「私嘘なんか言わないよー」


 みんなとの関係に変化が訪れたのは小学六年生の時だった。

 クラスの男子に「好き」と言われた。綾乃も深く考えることなく「好き」と返した。

 本当に嘘ではなかった。しかし、綾乃にとっての好意はその男子一人だけのものではなく、みんなに向ける同等の気持ちでしかなかった。

 後日。その男子は綾乃と恋人になったとクラスで宣言した。

 それに慌てたのは綾乃だ。彼に対しては友達としての好きであり、恋人だなんて考えてもみなかった。


「綾乃ちゃん……騙したなんてひどいよ!」


 その男子は怒った。「恋人になったつもりはなかった」と言った綾乃を責め立てた。

 みんなは異性を意識する年頃になった。けれど綾乃はその意識がまだ薄かった。

 男子も女子も関係ない。綾乃にとってはみんなが仲良しの友達だったから。そこに特別は存在していなかった。

 それでも他の子は違う。

 いつしか男の子と女の子のグループに分かれていた。男の子と女の子がいっしょにいるだけで囃し立てる光景も見られた。

 だから、異性に「好き」と伝えることは覚悟を伴った行為なのだ。綾乃は反省した。


「綾乃ちゃんひどーい」

「彼を弄んだんだってー」

「サイテーよね」


 綾乃は告白した男子だけではなく、女子からも責められた。

 綾乃に告白した男子は女子から人気があった。性を意識し始めた少女達にとって、背が高くてスポーツが得意な彼が魅力的に映っていた。

 そんな彼を悲しませた綾乃はとてもひどいことをした。そんな図式が成り立ち、綾乃はいじめられるようになった。


「どうして? 私達仲良しだったはずなのに……」


 綾乃の悲しみには誰も気づいてもくれなかった。

 あれだけ仲良しだったのに……。名前で呼び合って、笑い合って。そんな思い出があるはずなのに、みんなは「綾乃ちゃんが悪い」と責め続けた。


「また、みんなと仲良くしたいよ……」


 綾乃はたくさん反省した。

 みんながそう言うのなら、自分が悪いのだろう。もっと人の気持ちを敏感に感じ取らなければならなかったのだろう。


「松雪さんのことが好きです! 俺と付き合ってください!」

「ごめんなさい」


 中学生になって、またもや綾乃は告白された。

 その気もないのに適当な返事はできない。綾乃は過去の反省を踏まえ、はっきりと断った。


「その気にさせておいて告白を断ったんだって」

「自分から誘っておきながらひどいよね」

「男を手玉にとって遊んでるつもりなんでしょ」


 なのに、周囲の反応は冷たかった。

 言い分はこうだ。男子相手に親しげに名前で呼んだ。距離が近かった。だから誘っていたのだろう、と。

 綾乃にそんなつもりはなかった。友達として仲良くなるために名前で呼んだ。距離感は男子も女子も変わりなかった。それだけのことだった。

 周りが徐々に男女関係に敏感になっていく中、綾乃だけは小さい頃の意識が抜けきらなかった。変えたつもりで変わっていなかった。

 だって、こうやって友達を作ってきたから。先生がそう言っていたから。よそよそしくならないように笑顔を浮かべて、何が悪いのか綾乃にはわからなかった。


「好きです!」

「俺と!」

「付き合ってください!」


 その後も綾乃は多数の男子から告白され続けた。

 自分は可愛いのだと自覚していく綾乃。男子が自分を見る目も、他の女子とは違っていることに気づいていった。

 そして、告白を断る度に女子から反感を買っていくことにも気づいていた。告白を断った男子も同じだ。好意を示しておきながら、断れば簡単に手のひらを返す。


「私……どうすればいいのかな?」


 綾乃は友達に相談した。なんでも相談ができる、たった一人の友人だ。

 みんなと仲良くなりたいこと。でも男女関係はまだわからないこと。告白されたくないということ。やっかまれるのが嫌だということ。

 思いつくことをすべて話した。どうすればいいのかわからなかったし、この気持ちをわかってほしいと思っていた。


「何それ……綾乃ちゃん、贅沢すぎるんじゃない?」


 でも、友人の反応は綾乃が予想したものではなかった。

 慰めるものでも、共感するものでも、元気づけるものでもない。友人は綾乃を敵意のこもった目で睨んでいた。

 友人も、綾乃に対して反感を覚える者の一人でしかなかった。

 そこでようやく綾乃は気づいた。いつの間にか自分に「友達」がいなくなっていたことに。


「先生の嘘つき……っ」


 その事実を受け入れられず、綾乃は塞ぎ込んだ。

 それでも可愛い綾乃に告白する男子は後を絶たなかった。付き合うこともできず、でも断れば女子から「調子に乗っている」と責められ、告白を断った男子からは「良いのは顔だけで性格が悪い」と罵られた。

 そんな日々が続き、綾乃はふと思った。


「みんなが私を傷つけるなら……私も、みんなを傷つけてもいいんだよね?」


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