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第二十二章 小さき者 (壹)
人の住む村は心さえ凍りつかせる程の冷たい空気と白い結晶の塊が止まる事なく降り積もっていく。
しかし、そこから遥かに高い峰の合間にあるというのにこのお屋敷は、雪も降らなければ雨も降らない。枯れる事のない花が咲き、一年中暑くもなければ寒くもないのだ。そこは仙人・
いつも穏やかな空気の流れる
代わりに寝殿の奥から、秘めた声が滲み出してくる。
「んん、師匠っ、これ、きつくないですか?」
「問題ない。」
卧榻(寝台)の側で弟子は若干汗を滲ませて後方の師匠の顔を見ようとする。だが、師匠は自分より低い位置にいるようで頭上がチラリと見える程度。
「でも、あの、初めてでこれはちょっと…」
ゆっくりとだが確実に圧迫してくる感覚に弟子は不安感に顔を歪ませた。
「はぁ、動くな。すぐ済む。」
師匠は文句の多い弟子を押さえつけ、両手に力を込める。初めて味わう息苦しさに戸惑う弟子は耐えられず声を上げてしまう。
「し、師匠っ」
「あ”ぁ”っ」
男に生まれて数百年。まさか自分の身にこんな事が降りかかろうとは弟子は思ってもみなかった。師匠の容赦のない力強さに涙が目尻から零れ落ちそうになる。
「無理無理無理無理、内臓出ちゃうっ」
「動くなと言っているだろうが。」
「ぐええぇぇええ。」
縛り上げる腰の紐が腹に食い込む。
弟子は生まれて初めて貴族しか着ないような上衣下裳を師匠によって着せられていた。
今日は朝早く師匠が屋敷の最奥にある普段は滅多に近づかない薄暗い物置小屋から埃まみれの古びた箱を運んできた。師匠が積もった塵を吹き飛ばすと箱は古さはあるがところどころ金で縁取られていた。開けると中は箱とは打って変わって綺麗に折り畳まれた白い衣服が埃一つなく保管されている。こういうところは几帳面なのにてんでめんどくさがりなため、書庫も倉庫も埃まみれなのだ、と弟子は改めて思った。
師匠が取り出したシミ一つない白い服はいつも師匠が身に着けているような長衣と白い巻きスカートのようなものだった。襟に透けた模様があるだけの簡素な衣服。これを先ほどから自分に着せられているのだ。
「仙人てこんなきつい服着てましたっけ。」
「無論だ。」
腰ひもを縛り終えた師匠が平たい帯を手にして口にする。弟子は長く開いた袖を上げてみたり、足元が見えないほど長い裳を足で上げて着心地を確認している。
「でも師匠、いつも優雅でゆったりしてますよね?この下のヒラヒラは着てないし。」
「そんな面倒な物。いちいち着るわけなかろう。」
「何で⁉ 私だけ? やっぱり嫌がらせですか‼」
淡米色の長衣をゆったりとそれでいて乱す事なく着こなしている師匠に向かって弟子が吠える。師匠はいつもいつも何かしら自分に嫌がらせをしてくるのだ。
「それは天仙の礼服だ。お前には当分用はないだろうが、まあ今から慣れさせておいても良かろう。わざわざ出してきてやったんだ、ありがたく思え。」
「天仙の!?わああ。ありがとうございます!!師匠。」
「でも…ちょっとキツイです、これ。」
嬉しそうに礼を言うも腹部の圧迫感に弟子は顔を顰める。
「慣れていないだけだろう。帯締めは私とそう変わらん。」
着衣が終わった師匠は片手を背後に回して直立してみせる。自分より背の高い師匠だがよくよく見ると腰と袖には隙間があり腰の細さが強調されているよう。いつもは長衣の上のもう一枚外掛けをかけているため腰が見えにくいのだが今日に限って珍しく着ていない。
「幼齢の頃よりこういう服を着ていれば自然と慣れるのは当たり前だ。お前もこれからちょくちょく着て慣せばよかろう。」
「はぁ…、でもこれすごく動きづらいです…」
生まれてからこれまで袖は長細く、下は
「文句ばかりだな。」
溜息をついて呆れる師匠に弟子は師匠の袖を引っ張って強調する。
「だって、良くこれで裾踏まないで歩けますね⁉というか良くこんな長い裾で戦えますね⁉」
師匠は早く歩く時でも剣を振るった時でもこの足元を隠すほど長い衣を踏んだ事はない。毎日飲む茶に袖が浸かる事もなければ邪魔そうにする様子もなかった。
「未熟者が。」
「そりゃあ、私はまだたったの三百年しか修行していませんし。未だに地仙にもなれない未熟な道士のままですよ。」
「ふん。」
鼻を鳴らす師匠に弟子は動きずらさを強調するように左右に動くがさっそく長い裾を踏んずけて尻もちをついてしまう。
「って痛てっ、言ってる傍からもうっ」
弟子がむくれていると目の前に手が差し伸べられる。
「ほら。」
「師匠…。」
(師匠なんだか昔より優しくなったような気がするな。)
師匠のたまに差し出される優しさに弟子は何だか胸が暖かくなる。普通に考えたら何でもない行動なのだが師匠がするのは珍しいのだ。
「うわっ」
顔を綻ばせて起き上がろうとした弟子だが内側に入り込んだ沓でまた裳を踏んでしまい、今度は前のめりに転んでしまう。せっかく差し出された手も一緒にだ。
「ご、ごめんなさい、師匠。」
「重い。どけ。」
師匠の上に馬乗りのような状態に乗り上ってしまった弟子が慌てて起き上がろうとするが、裳や袖が
「じたばたするな、さっさと立て!」
「もう、どうなってんだよ、この布束っ」
やけくそに叫ぶ弟子だが師匠に叱責され動きを一旦止めた。師匠の広い大きな胸に顔を預け、深呼吸をする。
(にしても師匠ってなんだか落ち着く匂いがするなぁ。)
師匠の長衣からはいつもの香の匂いが香ってきた。そこまで強い匂いではないので近くにいないと香る事がないので弟子は改めて匂いを嗅いではなぜか安堵する。いつまでも嗅いでいたい、そう思うほど。
「おい、寝るな。」
「寝てません。」
せっかく安堵していたのを師匠の叱責で起こされ弟子は渋々ゆっくりと上体を上げた。
「まったく、お前という奴は。」
師匠は不機嫌を現した顔で長衣の埃を払っている。そして腰に手を当てると眉を上げて弟子に怒鳴った。
「さっさと修行に行け!」
「これで⁉ まともに動けませんよ。」
弟子は唖然として袖を持ち上げる。今日初めて着たこんな動きずらい衣服で剣の修行や仙術の修行なんて出来やしない。それどころかまともに動けそうにもないのに。
「なら今日は仙薬の修行でもすればいいだろう。」
師匠は弟子をつま先から頭まで見上げて首を振ると違う提案をしてきた。着替えるという考えはないのか。暫く慣れさせたいのだろうか。
「師匠が教えてくれるんですか?」
弟子は今までまともに仙薬の修行をさせてもらえなかったため、疑心暗鬼に眉を顰める。
「他に誰がいる。」
「いませんいません!行きましょう!」
師匠の気が変わる前にささっと薬房の方へと師匠を促す。嬉しさのあまり顔がほくそ笑んでしまう。
「調子のいい奴め。」
歩きずらそうに背を押してくる弟子に師匠は首を軽く振る。弟子は半ば背伸びをしながら歩いてなんとか裾を踏まずに進めたのだった。
◇
薬房には壁にびっしりと置かれた棚にこれまた隙間なく置かれた数多の薬材がひしめきあっている。ここに初めて入れてもらったのはもう何年前だろうか、それからちょくちょく房の掃除を命じられたり、薬材を取りに来させられたのだがやはり新鮮な香りがする。師匠の寝殿より遥に狭い薬房に机と椅子を運び入れると珍しく真面目な師匠の修行が始まった。他の事はともかくやはり薬仙なだけあって薬には煩いのだろうか。
弟子は最初は真面目に聞き入っていたが一向に説明だけで調合をやらせてくれないので、そのうち飽きて師匠の手元から師匠の横顔へと視線をずらしていった。
じーーーっと見つめる視線に師匠の黒目が睨みつける。
「…お前は仙薬の調合より、私の横顔で何か学べるのか?」
「いやぁ、師匠って本当端正な顔ですよね。」
関心するような物言いに師匠の眉がぴくりと動く。
「ふん、元々こういう顔つきだからこればかりは修行しても習得できぬぞ?」
「べ、別に秀麗になりたいわけじゃないですよ!」
師匠に茶化され弟子が顔を赤らめて声を上げる。自分よりも端正な師匠をずっと眺めていたい、そんな気持ちだった。
「だがこの美顔によく効く薬を飲めば一発で…」
「飲みます‼」
だけどやっぱり誰だってかっこよくなりたいよね!弟子は師匠が丁度作り終えた白い小瓶を勢い良く取り上げると、躊躇する事無くそのまま口へと流し込んだ。
「あ…」
「ん?」
「話は最後まで聞け。まあ良いか、死ぬわけでもなし。」
師匠は上げた手をそのままにちらりと弟子を見ると軽く溜息をついた。
「え?何です⁉ な、なんかおかしい…。」
途端、視界がぐらりと揺れたかと思うと顔が波打つような感覚に襲われる。暫くして収まると師匠が明らかに嫌悪の表情を抱いてこちらを見つめていた。
「気色悪い。」
「えっ酷っ、師匠⁉ 私の顔どうなっちゃったんですか⁉」
まさか秀麗ではなく醜くなってしまったのだろうか、弟子が必死で顔の形を手でまさぐると明らかに以前の小顔ではない。眉も太いし唇も分厚い。
「池で見てくれば良かろう。」
「はあ…」
まさかいかついおじさんの顔になってしまったのだろうか…弟子は不安そうにいそいそと内院にある小さな池へと向かっていった。
◇
「なんじゃこりゃーーーー!」
内院の池にたどり着いた弟子は恐る恐る池を覗き込むと驚愕の叫び声を上げる。
「なななな、なんで師匠!え⁉師匠の顔になってる⁉⁉」
そこには紛れもない師匠の顔。髪を結い上げているのが若干違和感があるがかえってくっきりと師匠の端正な顔が露わになっている。
「この太い睫毛に切れ長の眼、厚い唇に細く通った鼻…師匠だ。」
弟子は太い眉毛や唇をなぞってじっくりと確かめた。師匠の顔に触った事もないので気恥ずかしいような照れ臭いような感情に口元が歪んでしまう。
(師匠になる薬だったのか⁉ 嘘! 凄い!)
何の取り柄も無いとくに秀麗でもない平凡な顔が端正な顔へと変貌して弟子はほくそ笑んだ。師匠の顔、というのが少々引っかかるが。
うきうきと自分の姿を池に映しては長い袖を振って浮かれるていた弟子は近づく物体に気づいていなかった。
「
「は?」
突如、頭上から降りかかる大きな声に弟子は空を見上げた。
ゴフッ
と、ほぼ同時に何か小さな物体が胸に突っ込み吹き飛ばされる。池に落ちなくて良かったが尻もちをついた弟子は胸の息苦しさに顔を顰めながら追突してきたモノに視線を向けた。
「
(ナニコレ。)
そこには掌ほどの少女がいる。自分の胸の上に乗り、小さな手で襟を掴んでこちらを睨んでいる。弟子は初めてみる小さい人間に眼が丸くなり言葉が出なかった。
「いつになったら戻ってくるんですか‼」
「え、えーと。」
「ほんの少しっていうお約束だったよね、ね!」
「あの、その…誰?」
息を吐かせない剣幕で言われ弟子は訳がわからず首を捻った。藥忱の姿で発せられた言葉に小さい顔がみるみる赤く染まる。
「はぁぁああ? あたちが分からないの⁉舐めてんの‼」
「お、落ち着いてっ」
今にも飛びかかってきそうな剣幕に自分の数倍は小さな者におどおどとしてしまう。
「
「
小さき者は頬をお餅のように膨らませて怒鳴ると、制そうと差し出した手にしがみつき思い切り噛みついてきた。
ガブッ
「痛てーーーーーー‼」
(何この小さい生物!いきなり噛んできてっ)
思い切り手を振り払おうとするが小さい少女は身体が揺さぶられるのもお構いなしに一向に離れようとしない。弟子は痛みのあまり眼に涙を浮かべる。
そんな時、いつの間に来たのか師匠の声が澄み渡ったのだった。
「これ、
「え?」
強く噛んでくっきりとした歯型を残し、驚いた様子で草加と呼ばれた少女は振り向いた。そして眼を見開き叫ぶ。
「えええええええええ⁉」
「
一方は涙目で地べたに座っている藥忱、もう一方はいつもの威厳ある藥忱、草加は二人を何度も何度も見比べていた。
◇
「あー、びっくりしたあ。まさか
ぺっぺっと嫌な物を口にしたかのような仕草に弟子がムッとする。この草加と呼ばれた小さい者は態度だけは人一倍だ。
(師匠、汚いモノとか酷くないですかっ いくら毒舌だからってあんまりだっ)
弟子の睨む先には草加が本物の藥忱の肩の上でくつろいでいる。
「あ、でも、その薬があれば誰でも
身代わりとは何だろうか。確かこの小さいのも身代わりが何とかと言っていたような…と弟子は師匠と草加を見つめた。口を挟めばまた災いが降りかかりそうな気がする為、口を
「しかしこれは一時しかもたない。」
「えー、じゃあ無理かあ。」
「とりあえず数本作ったから
「はーい。」
草加は明らかに残念そうに肩を落とした。
「ところで、
「ふっふっふ、
「なるほど。」
この前、折角取り繕ってやったのに結局バレてしまったようだ。まああの適当な性格からしてバレても大して気にしないのだろう。
「これでいつでも
嬉しそうに笑う草加は今度は興味津々な眼差しを弟子に向けてきた。
「んでんで? こいつが
(師匠が私に入れこんでる⁉まさかそんな。)
草加の言葉に耳を疑った。
師匠はやれ修行が足りないだの、やれ才能がないだのと罵るのにそんな自分に入れこんでいるなんて到底思えない。
「そうだな。」
(えーーっ、認めたーー!)
藥忱は否定する事なくあっさりと認める。弟子は益々驚きを隠せなかった。
「ふぅん。」
草加は薄い透明な翅を音もせず羽ばたかせると弟子の鼻先までやってきて検分するかのようにジロジロと見てくるので、弟子がたじろぐ。
「な、なに。」
「この平々凡々な顔つきの特に取り柄も無さそうな道士を?」
馬鹿にしたような、いや完全に馬鹿にしている態度に弟子が吠える。
「悪かったな!平凡で。」
「何よ、あたちのがあんたよりうーーんと偉いんですからね!仙界では上下関係が厳しいのよ、知らないの?」
草加は唾が飛ぶほど叫ばれて頬を膨らませて怒った。
ー続くー
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※淡米色:薄い黄色
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