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第二十六章 兄弟弟子 (壹)

 藥忱の弟子となり三百五十年。ここ藥忱のお屋敷に新たな風が吹き込んだ。二つの異なる音色にもう一つ異色なる音色が混ざり込んだのだ。この三つの音色が混ざり合い、変わる事のないお屋敷に響き渡っていた。



 南陽が来て二日目の昼。すっかり体調の良くなった師匠はいつものように茶を啜り、客である南陽は内院にわの池の畔にある大きな岩の上に腰かけている。弟子はというと毎日の日課といっても良い掃き掃除をしながらブツブツと文句を口ずさんでいた。


「酷い。」


「酷い。」


「酷い!」


「まだ言っているのか。しつこい奴め。」


 弟子は朝からずっとこの調子で同じ言葉を繰り返している。お茶を淹れる時も掃除する時も。もういい加減二人の耳にタコが出来そうなくらいだ。


「師匠の阿呆!何でちゃんと教えてくれなかったんですかっ」


 そう、弟子はやっと竜胆とは何かを教えて貰ったのだ。教えてもらった時は顔から火が吹くほど恥ずかしかった。まさか薬草を竜の胆嚢と間違えるだなんて前代未聞だ。薬仙の弟子としてこの上ない恥だ、赤っ恥だ!


「私のせいか?」


 師匠は茶碗を手に弟子の方は見ず、首を少し傾げる程度。それを見て口をすぼませた弟子が今度は南陽の方へと振り向いた。


南陽なんよう、なんであの時教えてくれなかったんだ!知ってて腹の中で笑ってたんだろ!」


「ごめんごめん、だって余りにも面白くて。」


(おかげで私は盛大に赤っ恥だよ。)


 へらへらと笑う南陽に弟子は頬を赤らめて怒る。全然悪いと思っていないこの態度に一矢報いたいくらいだ。


「もう、あの貸しは無しだから!」


「えー?俺のせいじゃないだろ?俺は親切に入口開いてやったし、死なないように助言してやったし、貴重な竜の胆嚢だってくれてやったんだぞ?」


「おかげで俺は今、人間並みに非力なんだぜ?誰のせいだよ。」


(ぐぬぬぬ。)


 南陽にさえ嗜められて弟子は口を固く結んだ。


 言われてみれば全て自分が無知だったがため。だが、仙薬の書物は数が多く、仙薬など数多に存在する。その上、人間界のが多く存在する普通の薬草の事までなんてとてもじゃないが学びきれていない。

 弟子は誰にぶつける事も出来ない溜まった鬱憤をただ飲み込むことしか出来なかった。


 なんとか心を落ち着かせて弟子は優雅に腰かける師匠に向きをかえ、話題を変えた。


「そういえば師匠。結局何が原因だったんですか?」


「……。」


 弟子の問いに藥忱は茶の水面を見つめて押し黙った。その見つめる先に何が見えているのだろうか。


「師匠?」


「ししょーう。もう、自分に都合悪い事は絶対話さないんだから。」


 黙る師匠に弟子は呆れたように呟く。


「きっと茶のせいだ、茶の。」


 藥忱は答えるのが面倒そうに鼻息を吹く。弟子は師匠の言葉にお茶へと視線をうつした。


「この新しく貰ったっていうお茶ですか。誰に貰ったんですか?」


「…鳳河ほうかだ。草加さいかが置いていった。」


「ああ、あの時。でも鳳河ほうか様に限ってそんなはずは……。」


 先日一度だけ来訪した藥忱の兄・鳳河は弟子の印象ではとても優しい神仙だった。ちょっと過剰な弟愛だったが、そんな人が毒を盛るなんて事をするとは思えない。


「言うたであろう。鳳河ほうかを信じすぎるなと。あやつは…あやつこそ善人の皮を被った悪仙人だ。」


「大方、草加さいかにバレたから虫の居所が悪くて嫌がらせしたんだろう。まったく、我が兄ながらなんと情けない。」


 藥忱が不機嫌そうに言い捨てるので弟子は何だか鳳河が可哀想に思えてきた。


「まだそうと決まったわけじゃないじゃないですか。可哀想ですよ、あんなに親身になってくれる兄上をそんな風に言っちゃ。」


「じゃあ、お前も飲んでみよ。」


 師匠は薄い翡翠色した茶を茶碗に注ぎ淹れると弟子へと差し出す。弟子はそれを見て苦笑して後ずさった。鳳河を疑ってはいないが、あの師匠でさえ酷く苦しんだ思いははっきりいってしたくない。


「えー、それはちょっと…。」


「ほらみろ。お前だとて疑っている。」


 師匠の細い眼に睨まれて弟子は自棄やけを起こすように茶碗を受け取った。


「の、飲みますよ。飲めばいいんでしょ!」


「まあ飲んだらまた人間からやり直しだがな。」


「は⁉ あ、そうだった‼ あぶなっ師匠ー!」


 鼻で遇らう師匠にもう少しで飲み込みそうになった茶碗を口から離す。弟子は丹田強化のため絶食しているのだ。そう絶食……アレ、先日丹薬を飲んでもう終わったはずでは?

 弟子は頭を捻る。


「まあ、確かめる術もない故、茶が原因という事でいいだろう。」


「納得いかないなあ。」


 弟子ははぐらかされ、茶化され、すっきりしない心境にぶつぶつ呟きながら茶碗を師匠へと返す。


「というか師匠。普通に飲んでるじゃないですか!」


「ふん、一度耐性のついた物には当たらぬ。この茶自体はとても風味が良く、旨味も強いしな。些細な事で破棄するのは勿体無い。」


 茶を啜る師匠を見て慌てると師匠は小馬鹿にした様に言い放つ。


(些細って…あんなに痛がったくせに。)


「はあ、神仙って凄いんですね。」


 弟子は半ば呆れたように言うと箒を持ち直して掃除を再開した。昨日、弟子もその茶を飲んだ事をすっかり忘れて。


 南陽は岩から跳ねる様に飛び降りると弟子に駆け寄り、得意顔で口を開いた。


「俺だって当たらねえぜ!」


「南陽は何食べても大丈夫な気がする。」


「何だと!」


 弟子の真顔の言葉に怒った南陽が大声を上げた。弟子は笑って走り出し、南陽が追いかける。全くまだまだ子供である。


 その光景を静かに見守りながら藥忱は再び茶碗の翡翠色をした水面を見つめる。


(それにしてもあの腹痛…本当に茶のせいか?鳳河がしたとは思えん。だとしたら誰が……)


 騒がしい日常の中、闇はゆっくりとゆっくりと足を忍ばせてきていた。




    ◇




 今日は珍しく寝殿の西の部屋にある湯殿に師匠が浸かっていた。湯殿は正方形で木製、大人が四人は入れる広さがある。綺麗好きな師匠だがお湯に入る事は滅多にない。面倒くさいのか、そういうものなのか弟子には分からなかった。何故なら弟子は生まれてこの方お風呂に入るという行為をした事が無いのだ。


「師匠、お湯加減はいかがですか?」


「問題ない。」


 ゆったりとお湯に浸かる師匠へ屏風越しに声を掛ける。お湯をこんなに大量に沸かすのも久々なのだ。普段、弟子は井戸の冷たい水で身体を洗っているし、師匠は…よくわからない。

 弟子は沸かしたお湯の入った大きな桶の前に立ち、小さな桶を持っていつでも動けるように準備していた。


「そうそう、弟子。お前は南陽なんよう殿の力が戻るまでお世話せよ。」


「戻るまで!? いつ戻るんですか!」


 戻るまでと言われ弟子があからさまに慌てる。一体いつになる事やら。


「さあな、実際に竜の胆嚢を頂くなんて馬鹿な真似はした事がないものでな。知らん。」


 師匠は素っ気ないような少し怒った様に言葉を返してきた。弟子は入り口の脇に身体を預けている南陽へと問いかける。


南陽なんよう?」


「ん?俺も初めて人にやったからしーらね。」


「はぁぁぁ。」


 弟子が大きく溜息をついた。


(口煩い師匠と付き合うだけでも手一杯なのに、それがもう一人増えるなんてっ)


 頭痛がしてくる気がして自然と頭を抑える。


(仙人は丹田に神通力を溜めて力を発揮する。なら竜族も力を溜めたら胆嚢が元に戻るのも早いかな!?)


 面倒事が増え、落胆する弟子だったがふと閃いて持っていた桶を置く。


「よし、南陽なんよう。一緒に修行しよう。」


「はぁ?一人でやれよ。なんで俺様もやらなきゃいけないんだよ。」


 弟子はさっそく南陽の袖を引っ張って出て行こうとすると、南陽は面倒そうに顔を顰めて反抗した。


「二人のが効率いいだろうし、それに力も早く戻るかもしれないだろう?」


「何。俺にさっさと出てけって事か?」


「ぜってーーやらねー。」


 弟子の企みに勘づいた南陽はそっぽを向き引っ張られても微動だにしない。弟子は一生懸命説得を試みる。


「違うよ。早く胆嚢が元通りになればいいなって思って。」


「それに早く力が戻らないと空も飛べないし、南海竜宮城にも帰れないよ。南陽なんよう、皇子だからご飯すら作れないでしょ。」


「別にお前が全てやってくれればいいしー。師匠も言ってたろ、お世話しろってさ。」


「もうー!」


 何を言っても岩の様に動かない南陽を、弟子は諦めず赤い袖が伸びて千切れそうなほど引っ張った。


 

 弟子と南陽の小競り合いをよそに湯殿から上がった師匠が着替えて出てくる。いつもの簡素な長衣とは違い銀糸で刺繍された白の上品な長衣を幾つも重ねて着ている。弟子は一目で出掛けると分かり声を弾ませた。


「あれ、師匠。どちらかへお出かけですか!」


「……お前の後始末だ。」


「後始末?」


 師匠が低い声で不機嫌そうに言うので弟子は着いて行こうとした歩を止めて考える。


(なんかしたっけ。)


「南海竜宮城へ行ってくる。あとは頼んだぞ。」


 師匠は考えこむ馬鹿な弟子を一瞥いちべつし、内院にわへと出ていく。


「あー、ハハッ、はーい。行ってらっしゃーい。」


 弟子はハッとなって苦笑し、手を振って師匠の背中を見送るのだった。師匠は内院を進むうちに霞みがかり霧の様に姿を消していった。





ー続くー


**************

※湯殿:お風呂

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