◇2

第三章 来訪者

 照りつける太陽と止むことのない豪風吹き荒れる峰々の中腹には一つのお屋敷がある。

 そこには一風変わった仙人といつまでも仙人になれない道士が住んでいた–––––




 仙人の居である屋敷の炊事洗濯掃除あれこれ全て弟子一人が日々こなしている。

 とはいっても仙人は食事をするわけでもないし、早々衣服が汚れるわけでもない。もっぱら弟子の仕事はだだっ広い屋敷の埃を履き出す作業と、師匠に茶を淹れる事だけだった。


 今日は珍しく師匠が生涯をかけて収集したといわれる書物や巻物が壁の棚やひつにびっしりとそれでいて乱れる事無く綺麗に整頓された書房の拭き掃除をしていた。


「弟子!何処にいる。」


 師匠の低く透き通った声が屋敷に響き渡る。

 

バシャッ 


(あぁ…やってしまった……)


 師匠の探す声に応じようと振り向いた折に置いてあった桶につまずいて水をこぼしてしまったのだ。

 しかも丁度水のこぼれた所には埃を掃うために避けておいた数冊の書物が置いてあり、水溜まりを作っている。

 弟子は青ざめ、びしょぬれになった書を恐る恐る開いてみる。恐れていた事に書かれていた文字は滲んで見る影もない。


「弟子。」


「ヒッ、ひゃい!」


 落胆した弟子の背後から急に師匠の低い声が響き、彼の心臓が飛び上がり、肝が冷える思いで声にならない悲鳴をあげ、恐る恐る振り向いた。


「なんだその声は。」


 そこには怪訝そうに眉を曲げて見つめる師匠の顔。


「いえ…何でも……」


 苦笑する弟子の持つ水に塗れた書に気づいた師匠の顔はこわばり、続いて濡れた床や床に置かれて水分の吸った書物を見て、みるみるのうちに顔が烈火の如く変貌していく。


「でぇぇぇしぃぃぃ!」


「わー、ごめんなさいーーっ」


 弟子の悲鳴と師匠の怒号の声が屋敷内に響き渡った。




    ◇




「師匠っ、ごめんなさいってばー。降ろしてくださいよぉ。」


「ふん。」


 弟子はというと書房にて師匠に首根っこを掴まれ、いつも師匠がくつろぐ小さな墨色の机と竹の椅子の置いてある内院にわに連れてこられると、初めて聞き取れないほど小さな声で仙術を唱え弟子を宙に持ち上げ、屋根の出っ張りに縄で吊るされた。


 師匠はいまだに憤りが収まらない様子で、無造作に書を捲っている。

 空の茶碗を何度も持ち上げては弟子を横目でちらりと見て、溜息を吐いて茶碗を置くの繰り返しをもう数十分はしていた。自ら茶を淹れるという概念はないのだろうか。


「ほんの数冊、書を駄目にしただけですよー?」


「ああ、手首が痛い。手がもげちゃいますよぅ。」


「泣き言ばかり言うな。そう簡単に手は取れん。」


 弟子の再三の訴えも師匠はどこ吹く風のように受け止める事はない。数刻すうこく後、吊るし上げられ、本当に手首は痺れて痛覚も薄れてきて冷たく、血の気が全て足まで落ちたような感覚で意識が朦朧としだすと、


「可愛い弟子より、書のが大切なんですか!」


 と半ばやけくそに弟子が師匠に向かって叫んだ。


「そうだ。」


 師匠は息をゆっくり吐いて、椅子にもたれかかると伸びをしつつ言い放つ。


「お前の手が取れたところですぐに治せるが、書物を修復するのは……」


「面倒くさい。」


 弟子には目もくれず再び持っていた書物をせわしなく捲って読み始める非情な師匠を見て、弟子は憤りが沸々と込み上げてくる。


「なっ、私はあなたの奴隷でも召使いでもありません。修行に来ている道士です!そんな私にこんな仕打ちをして良いと思ってるんですか。」


「この鬼畜仙人ー!」


 弟子が溜まりにたまった鬱憤を履き出すかのように叫び終わると、師匠はぴたりと動きを止め、ゆっくりと振り向いた。上目遣いの眼光は黒々しく鋭く射貫いてくる。


「何だと?」


「減らず口め。」


 師匠は見ていた書物を机上に静かに置くとゆっくりと立ち上がり、一本の柱へと向かう。そして、柱に立てかけてあった細い竹の棒をニ本手に持つと空いている手の上でぽんぽんと叩きながらぶら下がった弟子へと近づいてきた。


「ちょ、ちょっと待ってください。その棒で何するんですか!」


 この後に起こりうる事が容易に想像出来た弟子は青ざめ、慌てて師匠に問いかける。


「良い機会だ。存分に躾けてやろう。」


 師匠の眼は全く笑っていないが、口角を少し上げて竹の棒を強く握りしめて言い放つ。


「まままま、待ってっ」


 弟子はまるで蓑虫みのむしのように自由のきかない身体でそれでも逃げようと暴れ、縛る縄がギシギシと音を立てる。師匠は狙いを定めると、くねくねと動く臀部へと容赦のない一撃を打ち込んだ。


「痛ーーっ」


 二度三度と間を開けずに叩き込まれ、内院に弟子の叫び声が師匠の気が晴れる数分後までこだましていた。




    ◇




「くっそぅ、あんの冷酷な仙人め。」


 何回叩かれたか知れないビリビリとした痛みと熱のこもった臀部をさすりながら、弟子はそのままの状態で放置されている水浸しの書房へと片付けに向かわされた。


 (何もあんなに怒らなくても…)  


 確かに師匠は日々書物を読み耽っている程の本の虫だ。弟子に読ませる事は勿論、触る事さえ許してくれない程。おかげで書房は他の部屋よりも埃にまみれていて、師匠もそのままなので、偶然通りがかった弟子が気づいて拭き掃除を勝手にしていたのである。

 勝手に書房に入ったのはいけなかったかもしれないが、師匠の大切な書物を一冊一冊丁寧に綺麗にしていたのに、感謝される事はあっても怒られる言われはない!と弟子は悶々とする心境で歩いていく。


「はぁ、超痛い……」


 熱をもって腫れ上がった臀部は次第に悲鳴をあげていく。弟子はこの時、臀部にばかり気を取られ周囲にまったく気を配っていなかった。


「大丈夫かい。」


「ええ…」


「は?」


 ふいに音もない静かな軒先から声がかけられた。草木が、もしくは建物が自分を心配して声を掛けてきたのか?とあるわけも無い錯覚に一瞬落ち入り、まさか人がいるとは露ほどにも思わず、反応が遅れる。


「な、誰!ど、どこ触ってるんですか!」


 (知らない男に尻触られたーーっ)


 声のした方を振り返るとそこには真っ白な上衣下裳に身を包み、細く長い艶やかな黒髪が肩から腰にかけて流れ、切長の眉毛に少し伏せられた眼は優しさが満ちて、薄い唇が微笑んで、文句なしの眉目秀麗びもくしゅうれいな男性が立っていた。

 一見真摯な雰囲気の彼であるが、驚くことに彼の手は弟子の臀部を確実に捉えて撫で回している。


「痛そうだったから治してあげようと思って。」 


 パッと離した手を見せて、悪びれた様子もなくにっこりと微笑んで彼は言った。


 (え、ああ、確かに痛みが消えてる。)


 弟子は今まで悲鳴をあげていた臀部を見て怒るのも忘れ、不思議そうに男性と臀部を交互に見て恐る恐る口を開く。


「あの…どなたですか?」


 ああ…と男性が言いかけたところで、これまた急に低い声が降り注いだ。


「来たのか。」


 いつの間に背後まできたのか、師匠は驚いて硬直する弟子には目もくれず、一心に男性を見つめている。一方の彼も視線に応えるように先程とは比べものにならないほどの優しい笑みを浮かべ、嬉しそうに言葉を返した。


「ああ、来たよ。」


藥忱やくじん。」


(誰⁉︎) 


 実はこの百二十余年、師匠の名前を教えて貰えなかった弟子は、まさか別の人から、しかもこんな急に知る事になろうとは思いもしなかった。

 弟子をよそに二人はしばし動かず、言葉を交わす事もなく、見つめあっていた。




    ◇




 先に沈黙を破ったのは師匠で、男性を内院にわへ促すと弟子に椅子を用意させ、お茶を淹れさせた。

 今まで師匠の知り合いが訪ねて来た事は一度もない。弟子は失礼ながらこの師匠に友と呼べるような存在がいるとは思ってもみなかった。


「君が私のところを去ってもう何年になるかな。」


「さあな。」


 (私のところって…どんな関係⁉)


 どうやら彼らは友人以上の関係のようだ。

 弟子はこのまま聞いていて良いのか戸惑った。  師匠がゆっくりと茶を口に含む仕草を、彼は優しく見守っている。


「君が居ないとつまらないよ。姉上の口もうるさくてさ。」


「ああ、あれのせいで私は静かな場所を求めた。」


(姉上?  ま、まさか、師匠の恋人とか⁉︎  いやいや、同居していたみたいだし、だとすると…奥さん⁉︎)


 弟子の思考は膨れ上がってゆく。


「何も下界に来なくてもいいのに。空気は悪いし、暗いし、深謀しんぼうが渦巻いているし。」


「少なくともあの甲高い声は聞こえないな。」


「あはは、確かに。」


 和気藹々わきあいあいに話す男性にいつも通りに話す師匠だが、声音はいつもより愉しそうに聞こえた。


「ねえ、いつ戻ってきてくれる?」


「戻るつもりはない。」


 彼の言葉に忽然と師匠の声色が不機嫌の色に変わるのを弟子は捉える。

 師匠は日々嗜好している茶も今日に限って喉を通らないらしくニ、三回口に含む程度で机上に置き、音を立てずに席を立つと不愉快さを隠すように背を向けた。


「はぁ、…神仙がいつまでもふらふらしてちゃ駄目だよ。別居したいならちゃんとした院を見つけてあげるからさ。」


「……。」


(神仙⁉︎) 


 弟子は耳を疑った。

 毎日、茶を啜って書を読み耽る事しかしない師匠が、まさか天界に住むと言われる謂わば神に等しい存在の神仙だったとは。

 人間は修行して仙人になるものだが、神仙は初めから天宮に仙人として生まれる。伝説では神仙が人間の世界に降りて来ることは殆ど無く、世界の移ろいを管理したり、人の運命を決めたりする大切な仕事を担っているという。


「あのぉ…」


「うん?」


 弟子は恐る恐る上目遣いに男性にこっそりと訪ねた。


「師匠って神仙なんですか…?」


「うん、そうだよ。驚きだよね、神仙がこんな辺鄙へんぴなところに住んでいるなんてさ。」


 優しく語る彼にコクコクと力強く首を縦に振って応える。本当になぜこんな人里近くのそれでいて住みづらい辺鄙な場所に居を構えているのか、弟子にも分からない。


「君からも言ってよ。天宮へ帰ろうって。そうしたら君も一緒に素晴らしい天界で修行が出来るよ!」


「素晴らしい…天界! 師匠!戻りましょう‼」


 この自分たち以外誰もいない平素でつまらない場所から錦が織りなし天女が舞い、天人が唄うと聞き描く輝かしい天界で修行が出来るなんて!と弟子は眼を輝かせて師匠に進言した。


「煩い。餓鬼ガキが口を挟むな。」


 師匠はというと益々不機嫌さを増し、竹を切るようにすっぱりと弟子に言い捨てる。


「もう、そんな言い方したらこの子が可哀想でしょ。」


 明らかに彼と弟子とでは態度が違い、弟子は貝のように口をつぐむしかなかった。

 さすがに不憫に思ったのか彼が白く透き通った手で弟子の頭を撫で師匠を咎める。


「ふん。」


 師匠は悪びれることもなく、まったくとりあってくれない。

 無駄に姿勢の良い身動ぎひとつしない後ろ姿が頑固さを表しているよう。


「ねえ、申し訳ないんだけど、お茶のおかわりをくれないかな。」


「あ、はい!」


 申し訳なさそうに言う彼の助け船に弟子は快く応じ、その場を後にした。




ー続くー


************

※淡黄と暗灰:薄い肌色と灰色

※数刻:数時間(一刻=約二時間)

※上衣下裳:上が着物のようなもの下が巻きスカート

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