第二章 人助け
暗い混濁とした意識の中、誰かが呼ぶ声が聞こえてくる。
「おい。生きているのか?」
腹部の痛みは未だに衰えず、幾らか口の端から血を滴らせて弟子はゆっくりと眼を開いた。
揺れる視界の中には、
「……し…しょう。」
刺されてからどのくらいの時間が経ったのだろう。身体から血の気が抜け、喉も掠れて、振り絞った弱々しい声を発する弟子を急いで治療するわけでも無く、追い討ちをかけるわけでも無く、ただ師匠にしては珍しくしゃがみ込んで覗いてきている。
「だからいつも言っているだろう。人間なぞ信じたところでろくな事にはならないと。」
明らかに嫌悪感を含んだ物言いが弟子の胸を突く。腹部の痛みよりも師匠から聞かされるお小言の方が何倍も弟子には刺さるのだ。
ゴホゴホッと喉に溜まった息苦しさを引き起こす血を吐き出し、弟子は動かせれる眼球だけで周囲を見回し、乾いた唇を開いた。
「か…彼女は……?」
こんな目に遭ってもまだあの女性の事を気にかける自分自身が不思議だ。刺された事に対しての怒りや憎しみは全くと言って良い程無く、女性の泣き顔だけが脳裏に焼き付いている。
「馬鹿が。こんな目に会ってまだ女の心配をするのか。」
師匠はヤレヤレというように首を横に振ってゆっくりと立ち上がる。
長身の師匠が立つと頭は遥か上にあるが、虚ろに見える顔形でもその静かな怒りに満ちた眼光だけははっきりと捉とらえる事ができた。
「気がしれん。」
吐き捨てるような言葉が淡い雪のように冷たく降り注ぐと同時に弟子の意識はまた暗闇へと引きずり込まれていった。
◇
弟子が目覚めたのはそれから一晩経った昼頃だった。
いつの間にか自室の寝台に横になっていて、腹部には薬を染み込ませた当て布が施され、弟子はしばしば眼を疑う。
(まさか、あの師匠が…?)
師匠にこの方、優しくしてもらった記憶はなく、口を開けば「茶。」しか言わず、いつも言い合いばかり。そんな師匠が初めてしてくれた施しに弟子は感動を覚えずにはいられなかった。
すぐさま飛び起きた弟子は痛みも忘れ、師匠がいるであろう内院を目指す。何故だか胸がホカホカと心地よい温かさに包まれているのを感じながら。
「師匠!」
内院のいつもの定位置に座する師匠を早々に見つけると弟子は心躍らせ駆け寄った。
師匠はいつもと変わらず書を読み耽っている。
「起きたのか。」
「はい!師匠…この傷の手当てをして下さったのは…師匠ですよね?ありがとうございます!」
嬉しさに礼を言う弟子に師匠は目も合わせず冷たく言い放つ。
「知らん。」
「え…?」
この屋敷に師匠と自分以外誰が居ようか。弟子は怪訝そうに首を捻って師匠を見つめた。
「師匠がしたんですよね?他に誰がいるっていうんですか?」
「知らんものは知らん。それよりもさっさと茶を淹れよ。」
いつも通りの冷淡な態度に弟子は不安を覚えた。確かに師匠が手当てなんてするはずがない…という想いが膨れ上がる。それと同時に胸に氷でも当てられているかのような冷たさがじんわりと広がり、弟子は知らぬうちに涙ぐんでしまった。
(そうだよ…師匠なわけ…)
そう思っても二人しかいない中、手当てするのは師匠しかいない。何故嘘を付くのか。そんなに自分の事が嫌いなのか。
(まさか彼女の事でまだ怒ってるのか…!)
あまりの嬉しさにすっかり忘れていた元凶を思い出し弟子は師匠の後ろ姿をおずおずと見つめた。
「師匠。」
午後の日差しが差し込む中、いつも通りに竹の椅子に腰かけ、今日は布に描かれた解読出来ない文字の書かれた書物だろうかを読んでいる師匠の後ろで立ち尽くしていた弟子がそっと呟く。
「んー。」
素っ気なくそれでも返事が返ってくる師匠に向かって弟子は言葉を繋ぐ。
「…彼女にも何か理由があったんだと思うんです。」
俯いて白い石床の地面を一心に見つめる弟子はどことなく思い詰めたような、泣きそうなような表情だった。
彼女はどうなったのか…、自分の対応が悪かったせいだろうか、師匠は誤解していたのではないだろうかという想いが脳裏を回想する。何も出来ない自分よりも仙人として徳の高い師匠が応じていれば結果は変わっていたのではないだろうか、と。
「…理由があれば、人を傷つけても良いのか?」
さもつまらなそうに師匠は聞き返してくる。布切れにそんなに面白い事でも書かれているのか視線は布から離さずに。
「それは…いけないことですが…、仕方なかったとか……」
「家族が飢えに苦しんでいるとか、借金があるとか…」
彼らの住む屋敷の麓の村や集落は決して裕福な土地とは言えない。昔、麓の村に住んでいた事のある弟子も苦しい生活を強られていたのを思い返す。この数百年で裕福になったとは考えづらく、そんな噂も聞いてはいない。作物も十分に育たないような枯れた土地で、十分な食料もなく、人も離れていき、寂れて、住む人の活気もない。盗みや暴力などは当たり前の事だった。
そのせいか弟子の義侠心はとても強く、弱い者を助けたいという想いは誰よりも強かった。
「じゃあお前はそうやって苦しんでいる人間全員のために命を張るのか。命がいくつあっても足りんな。」
小馬鹿にしたように言い放つ師匠は読み終えた布をくるくると巻いて机の上に置くと別の巻物を取り出して広げて読み始める。
「私だって命まで差し出してたらきりがないです。でも、なんとか助けてあげたい。」
「ふん。力がついてから物を言うんだな。」
弟子の切なる訴えをまるで切り捨てるかのような師匠の態度に弟子は心が裂ける思いがした。傷を負った腹部に痛みはもう全くないが、突き刺さる言葉に胸がズキズキと痛む。
「だから修行させてくださいって言ってるじゃないですか!」
半ば怒りの籠った口ぶりになる弟子に師匠は至って冷静というか冷淡に話す。
「仙人は人と関わってはいけない。掟だ。忘れたか?」
「お、覚えてますが、私はまだ仙人じゃありません。仙術も何も教えてもらっていない…」
「仙術を覚えたら仙人になるだろう。同じ事だ。」
(ぐぬぬ……)
師匠には何を言っても響かないのだろうか。仙人とはかくも冷淡な存在なのだろうか。口で勝ったためしは今まで一度もない。最終的にはいつも弟子は言い負かされて口ごもってしまう。
師匠は息を吐いて、持っていた巻物を置くとゆっくりと立ち上がり、弟子に振り返る。
「仙人が人と関われば、人の運命が狂う。」
「仙人が做爱に身を委ねれば、仙力を失う。」
まっすぐと貫く眼光でゆっくりと弟子に近づきながら語りかけてくる。まるで蛇に睨まれた蛙のように身動ぎが出来ず、弟子は唾下し、ただずっと師匠から眼が離せなかった。
師匠は弟子の一歩前まで近づくと頭を下げて端正な顔を目の前まで近づける。
今までこんなにちゃんと師匠の顔を見た事はあっただろうか。切れ長の眼に主張してくる太い眉毛、目が離せない黒々といた眼光に厚い唇。
息がかかりそうな程近くにある師匠の顔に弟子は冷や汗を止められず、そんな弟子を弄ぶかのように口角を少し上げるとゆっくりと口を開いた。
「仙人が死んだ者を生き返らせたら…どうなると思う?」
しっとりと纏わりつくような声に唾が喉を通っていく音が分かるほど弟子は唾下し、目を泳がせる。
「それは…分かりません……」
師匠にまっすぐ見つめられて緊張の他に感じた事のない動悸に弟子は戸惑い、口が震えた。
言い終えると師匠はすぐに後ろを振り返って元の位置へと戻ってゆく。まるで何事もなかったかのように。
「まあ、お前がどうなろうと私の知ったことではないがな。」
普段通り言い捨てる師匠は竹の椅子に座ると衣服を整えてまた巻物を手に取った。
師匠の言葉には深い意味がある。しかし、それを話すときはいつもわざと弟子を戸惑わせる行動をとるので弟子は理解する事が中々出来ない。
「おい、茶。」
動揺して呆然としている弟子の前に翡翠色の茶碗が差し出された。
弟子はやっと混迷した意識を取り戻し、茶碗を受け取る。
「はい。」
弟子は持った茶碗を見つめて台所へと歩きだした。
茶碗には冷たくなったお茶がまだ一口分残っている。
ー終わりー
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※做爱:性行為
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