随便的仙人
方糖
◇1
第一章 師匠と弟子
霧がかったおおよそ頂上など捉えきれない程、高い峰々が連なる白い岩肌は、草木などの影は微塵も無く、湿り気も無く、幾筋にもひび割れ、パラパラと風に吹かれて落ちる小石が物寂しさを語っている。
到底このような場所には人はおろか生物でさえ生存する事は難しい。しかし、峰の中腹には薄らと灰色に浮かび上がる建物か、はたまたただの岩か分からないモノがぼんやりと映し出されていた。
この高い山々の麓にはいくつかの村や集落があり、そこでは昔から語り継がれてきている––––あの高い峰『
とはいえ、確かめに行く者など殆どいない。
あの峰は一年中、人を軽く吹き飛ばす程の強風が吹き荒れ、山を登る道などなく、照りつける太陽のせいで日中は灼熱地獄、日が落ちると冷たい岩肌と強風で極寒地獄と化すのだ。
もし、それでも命を顧みず行くような愚か者がいるとしたらそれは、すでに命運が尽きて仙人に
「おい、弟子。」
低く透き通ったそれでいてはっきりとした声が
一人用の小さい墨色の机と竹で出来た椅子にゆったりと腰掛け、書物を片手に弟子を呼ぶ男は、三十歳前後くらいの容姿にとても落ち着いた風貌で髪は腰下まで伸び、艶やかな黒い滝のよう。白と雪灰色の長衣を乱す事なく着衣し、重なった長い裾が足先を包んでいた。
「はい?」
呼ばれた若い弟子は師匠の後ろで部屋を調えていたが、呼ばれる声に近づいていく。
十五、六歳だろうか上半分を結上げた黒髪は絹糸のようにサラサラと揺れ、浅水緑の袖なしを着て、丈も長くはない。白い
「茶。」
振り向かず発せられる言葉に、弟子はしばし硬直した。
茶……
(まただ。毎度毎度、毎日毎日。口を開けば「茶、茶。」ばかり。)
彼のところへ来てかれこれ百二十年余り。ろくに仙術を教えてもらった事もなく、人であった時は普通の人間だったため武功もない。とりあえずの基礎として、人間の子供が学ぶような武芸の基礎の本一冊を最初に渡されたのみ。これをもう何万回と読み返し、すでに体得している。
返答どころか身じろぎすらしない弟子をおかしく思ったのか師匠が振り返る。
端正な顔立ちに太い眉毛、力強い眼差しが向けられ、弟子は眼力に圧されそうになるが、もう我慢出来ないという胸に溜まった思いに自然と口が開いた。
「師匠!もうずっとここにいるのに何も教えてもらっていません。」
「んー?」
師匠は太い眉毛を曲げて怪訝な表情を浮かべる。
「技は教えてもらうものではない。盗むものだ。」
もっともらしい言葉を並べるのもいつもの事である。このやり取りもこの数百年の内に何回も行われてきたことで、ちっとも進歩しない。それでも溜まった鬱憤を晴らすかのように弟子は時折声を荒げては師匠に進言するのであった。
「盗めるような事なんて何もしてないでしょう!毎日毎日、茶ばかり啜って
文句の一つでも言いたくなる。たとえそれで師匠が動かずとも。師匠はというと話をまともに聞く気もない様子で弟子から視線を反らし、机の方へ向き直り、袖を振って衣服を整えるのみ。
「馬鹿者。仙術を使う事が何かあったか。なぜ無意味に使わねばならん。」
「それよりほら、客だ。」
相手するのも面倒そうに師匠は手を振って合図を送ると、弟子はハッとして門の方へと視線を向けた。確かに弟子の正面の白い塀の彼方から微かな声にならない声が聞こえてくる。
弟子は今していたやり取りをすっかり忘れたかのように焦った様子で門へ向かおうと、師匠の横をすり抜けるが、何かに行手を遮さえぎられた。
灰色の棒のようにまっすぐと伸びた腕が翡翠色の綺麗な茶碗を差し出していたのだ。
「その前に、茶。」
(ああっ、もうっ…!)
急いでいるのに鬱陶しいっというように、師匠と茶碗を交互に見て、差し出された茶碗を強引に受け取ると急いで新しい茶を注ぎに台所へと消えていった。
◇
弟子は大小の白い門をいくつもくぐり抜けると正門にたどり着いて、重たい大きな門を力いっぱい押した。
ここ数年、来客などなく、この門を開ける事が無かったため、この門がこんなに重いものであったと弟子は改めて
白い門を人一人が通れるほど開けると、外は白い霧が流れるのが分かるほどの豪風が吹き荒れ、粉々になった石が巻き上がり一緒に舞っていた。
「ああっ助けてください、仙人様!」
門に隠れて見えなかったのだろう、急にみすぼらしい恰好の女性がしがみついてきて弟子はしばしば驚愕した。
髪は乱れて、後ろで一つに結んでいるようだがあちらこちらへと舞い上がっている。ここに来るまでの道のりを物語るかのように顔も身体も埃まみれで服はあちこち裂けていた。
女性は涙ながら必死の形相で訴えてくるが、風の音が煩くてよく聞こえない。
「あの…私は、仙人では……」
弟子は困った様子で屈みこみ、女性の腕を掴んで話しかけた。
なんの神通力もない、人間とほとんど変わらない自分に何が出来るだろうか。とはいえ、ここに住んでいる仙人はというと大の人間嫌いで、助けるどころか会う事さえしないだろう。何もできないと知りつつも弟子は放っておけず、考え込む。
「お願いします。お願いします。」
女性は弟子の袖やら
弟子は師匠がいるであろう
弟子が来てから随分経つがここが使われた事は一度もない。そのせいか部屋は灯り一つなく、窓も小さく陽の光が入りずらく、薄気味悪さを醸し出していた。師匠にバレないようにとはいえ、このような薄汚い部屋に案内し、弟子の良心が痛んだ。
とても辛い出来事でもあったのか、女性は未だにすすり泣いている。まずは落ち着かせようと弟子は茶を淹れるべく小部屋を後にした。
屋根しかない閑静な廊下を渡って台所へと向かう途中、低い声が弟子を呼び止める。
「おい、弟子。」
ビクッとして声の方へ振り向くと、一本の柱に身体を預けて腕を組み不機嫌そうに横目でちらっとこちらを見る師匠の姿が映った。
「面倒を見るのは勝手だが、自分で対処しろよ。」
「ちょ、師匠は見て見ぬふりですか!」
人間嫌いと分かっていても師匠のすげない態度に自分の義侠心が許さず、つい嚙みついてしまう。師匠はというと常々交わされる弟子の言い分など蚊の羽音ほども気にしない様子で、弟子から視線を離し、素っ気なく言い捨てた。
「私が入れたわけではない。」
言い終わるか終わらないかの程に師匠は弟子に背を向けて速やかにその場を立ち去っていった。
「なっ、薄情者!」
師匠を追うように弟子の叫ぶ声が閑静な廊下に反響していく。
◇
仙人見習いの道士としてここに来て百二十年余り。弟子はこの間一度も仙術や武術、仙薬に簡単な基礎知識すら学んでいなかった。その為、傷ついた人が助けを求めても怪我の治療はおろか、薬湯を作る事も出来ない。弟子は仕方なく客人用の埃の被った茶器を取り出し、いつも師匠に淹れているお茶を淹れて、女性の待つ小部屋へと戻っていった。
(あれ、いない…)
部屋に入ると蝋燭は消えており、小さい窓からわずかな光が差し込むばかりの薄暗い小部屋には、いるはずの女性の姿が無い。そこまで広くない小部屋をゆっくりぐるりと見回していくと、途端、腹部に鋭い痛みと衝撃を受けた。
「ぐっ…!」
痛む腹を抑えようと手を回すと同時に視線に女性の乱れた髪が映る。
弟子はしばらく何が起こったか分からなかった。じんじんと熱を持ち始める腹部は女性が背中を丸めてまるで抱き着くように屈みこんで密着している為、状態がよく見えない。
すぐに女性が肩の力を抜き後退すると、更なる刺すような激痛に顔が引き攣つり、咄嗟に手で局所を抑えた。ぬるっとした生暖かい滑りが衣服を通して広がっている。
(これは何…?)
制御の効かない震えた濡れた手に視線を落とすと、そこにはまるで彼岸花の如く真っ赤に染まった片手があった。身体から力が抜け、片膝をつくと、弟子は女性の方へと視線を向ける。女性の手にはしっかりと真っ赤に染まった
「……な、なぜ。」
生まれてこの方、人に刺されるという経験のない弟子はどういう事かも分からず、ただ女性へ疑惑の眼差しを向け、問う。
「ハッ 馬鹿だね!あんたに用は無いんだよ。私に用があるのは金さ!ハハッ」
女性は不気味な笑いを浮かべて嘲笑うと、血塗られた匕首を振り上げる。
弟子は静止する事も出来ず、身体が倒れるのを止められずただ朦朧とし薄れる意識の中、思った。
ああ…また師匠に馬鹿にされる……、と。
ー続くー
**********
※随便:無頓着、勝手気まま、いい加減、適当の意。
※雪灰:薄い灰色
※長衣:長い着物のようなもの。袖が大きい。
※浅水緑:薄い青緑色
※
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