第四章 親密な関係
新しい茶を淹れ戻ってきた弟子は内院の異様な雰囲気に眼を疑った。
シミ一つない純白の上衣下裳は裾を長く引いていて、流れる艶やかな髪が墨汁を垂らしたかのように黒々と輝いている男性と、一方、曲りなりにも美しいとは程遠い質素な淡黄と暗灰の長衣をそれでもきちんと着こなしている毎日嫌というほど見ている師匠の姿が重なりあっているではないか。
(‼ 抱き、抱き合っている⁉)
彼らは遠目から見ても分かるほど、お互いの衣服が重なるほど近寄り、来訪者の彼は師匠の腰に両手を回しているのが見て取れた。師匠の方が幾分、背が低いようで表情までは見えない。
弟子はしばらく唖然としたが、絶対に怒りそうな師匠が微動だにしない事に疑問と興味を覚え、淹れた茶が冷めてまた淹れなおしするのも面倒だな、と恐る恐る口を開く。
「あ、あの…」
「ああ、ご苦労様。」
声をかけるより早く師匠が察知し、彼を押しのけた。とくに照れている様子も、又怒っている様子もなく普段どおりの師匠に弟子は益々好奇心が募る。 男性は弟子からお茶を受け取ると、早々に座した師匠へと自分の茶碗より先にお茶を注ぎ淹れる。 二人がごく自然な様に見えるのは、師匠がふんぞり返っているからか、はたまた彼が献身的だからだろうか。
「あの…ふ、二人のご関係は…?」
お盆を胸の前で持った弟子はつい口を開いてしまう。また師匠に怒られるかもしれないが、気にせずにはいられない。
「んー、それはもう親密な関係だよ。飲食を共にし、卧榻(寝台)も一緒で…」
(え‼)
弟子は驚愕し、口を大きく開いて閉じられない。
「一緒に寝た覚えはない。誤解を招くような言い方をするな。」
驚きを隠せない弟子にたまらないといった様子で師匠が間髪いれずに言葉を刺し込んでくる。
「えーでも、飲酒した後は酔って一緒に仲良く寝るでしょ。」
「そのまま床にゴロ寝だろうが。」
「えへへへ。」
まるでじゃれ合いのような会話に弟子は口の端が綻んだ。いつもの弟子との口論とは違い言葉の掛け合いに親密さが伺えて。
師匠にとってかけがえのない人なのだろう。
だからこそ、弟子は二人の関係がとても気になってうずうずしていた。それを感じ取った彼が弟子に振り向き顔を近づけてきた。
「ふふ、彼との関係、知りたい?」
ごくりっ
「彼とは、兄弟だよ。」
「えっ、えーっ」
目を細めて笑う彼の口から意外な言葉が飛び出し、弟子は思わず叫んでいた。だって全く似ていないまるで正反対の二人なのだから。
「そやつは兄の
補足するように師匠が彼の背後から言葉を飛ばしてくるが、迷惑そうな雰囲気をひしひしと感じる。
「上でも人気の仲良し兄弟でしょ。いいじゃない、少しくらい。」
鳳河は今度は師匠へと振り返り、ゆっくりと話しながら背後へと回っていった。
「何が少しだ。姿を見れば飛びついてくる。暇さえあれば引っ付いてくる。そして姉上に一緒に怒られるのは誰のせいだ?」
眉間に皺を寄せて不機嫌な素振りを見せ、文句を言ってくる師匠に対して、鳳河は薄ら笑いを浮かべるとごく自然に師匠に覆い被さり、丁度おんぶしている様な形で抱きついた。鳳河は間近の師匠の顔を覗いて無邪気に笑う。
それにしても本当に異様な光景だ。師匠はともかく鳳河のこの抱擁に深い意味は無いのだろうか?
「えへへ。」
「纏わりつくな。」
師匠は無理矢理剥がす事も押し返す事もしないが、鳳河を見る事なくただ鬱陶しそうに言い捨てる。どうやらこれが天界での二人の日常であり、もう慣れてしまっているという事なのか。師匠が構ってくれないと知ると早々に離れた鳳河がまた弟子のところへやってきた。
「ケチ。いいよ~、じゃあこの子とイチャイチャしちゃうからね~。」
矛先が自分に向けられた事をいち早く悟った弟子が防衛体制に入る。師匠も大概大きい人だがそれよりも拳一つ分大きい彼が頭上から覆い被さろうとしてきた。
「好きにすればいい。」
師匠は解放されて優雅にお茶を啜っている。弟子から差し伸べられた手を気にする事もなく。
「ちょっと、やめっ、さっきだってお尻触られたのに!師匠‼︎」
袖に隠れていたが容姿とは違い長くて力強い両腕に捕まった弟子がもがきながら半泣きで師匠に訴える。
「手が早いな。」
「可愛くてつい。」
愛おしそうにくっついてくる鳳河に弟子は力いっぱい反発するが体格差か、それとも仙力の差なのか押し返すどころか両腕ごと抱き抱えられてしまった。
「じゃあ、嫁にくれてやろう。」
「いいの!」
「良くない‼︎」
反発するのに手一杯な弟子を放って、二人が楽しそうに勝手に話を進めるので、弟子は堪らず叫んだ。
(もうっ何この兄弟‼)
やはり師匠の兄弟なだけある。
この二人、まるで対照的な容姿なので兄弟だと聞かされても初めはピンとこなかったが、息はぴったりだし、人を弄ぶ事が好きだ。
弟子はしばし二人の会話の種にされるのだった。
◇
やっとの事であの二人から解放され逃げてきた弟子は一人、百二十年前に渡された武術の基本の書を岩の上に置きつつ、練習をしていた。ここにきてから修行といえばこれしかなく、すでに身に沁みついているが師匠が彼と話しているので特にやる事もなく、積る話もあるだろうと弟子なりに気を使ったのだった。
「きーみ。何してるの?」
忽然、背後から声をかけられたが、今日よく耳にする透き通った心地よい声に弟子は驚きもせずすぐ振り向く。
「体術の練習を…」
「へえ、真面目なんだね。」
そこには案の定、微笑みかける鳳河の姿があった。この人は師匠とは違い、身体から朗らかな気を発しているのか弟子も姿を見るだけで、和やかな気分にさせられ口元が緩む。師匠が本気で怒らないのは彼の人の心を和やかにする気のせいもあるかもしれない。
「あの、師匠ってどんな人ですか?」
弟子はこの百二十年間、一度や二度ではない問いかけに頑なに答えなかった師匠の事をこの機会を逃したら一生知りえないと思い、彼に尋ねた。
「んー、
「は⁉」
鳳河の言葉に耳を疑う。師匠が仙薬を扱っているところなんて一度も見た事がない。 それを言ったら素晴らしい仙術を見せて貰ったことも、武芸を見せて貰った事もないが。
「あと優しい。」
「は⁉」
弟子はまた耳を疑い、驚きで目を大きく見開いた。
(師匠が優しい⁉ 何かの間違いでは?)
そんな思いが沸いてくるのも仕方ない。弟子と師匠は和気あいあいとした師弟関係ではなく、毎度言い合いをする傍からみたら仲の悪そうな師弟だから。そんな師匠の優しさなど弟子は今まで一度として目の当たりにした事などなかった。
「君、ここに何年いるの?」
弟子が困惑しているのを感じとった鳳河は小首を傾げて弟子に問いかけた。
「百二十年ほどですが…」
「そうか。」
遠慮しがちな弟子に鳳河は顎に手を置いてゆっくりと頷く。
「彼が去ってからもう数千年は経っている。彼は下界にいたからもっとだね。彼はね、自分の事をあまり話したがらない。」
(数千年‼)
なんと師匠は自分と出会う以前からこの山にとてもとても長く居たという事実を知った。
自分の事を話したがらないという事実は弟子も身に染みて分かっていて自然とうんうんと頷いてしまう。
「自分にとって得な事は特に話したがらない。だからほとんどの人は彼の優しさを知らない。」
「見て。」
鳳河は急に真剣な面持ちになり、手をかざすと手の上に渦が出来てそこは鏡のようになった。
映し出される人通りは下界のどこかの村の道のようだ。
弟子は何気に初めて仙術という仙術を目の当たりにして感動に胸が震えた。
鳳河が見せる鏡にはそれから一人の女性が映し出される。
「あれ、この女性…」
弟子はその女性をまじまじと見て、
「嘘。生きてる!」
信じられない!といったように目を見開いて驚愕した。
彼女を忘れるわけがない。ほんの数週間前、ここの屋敷に訪れて自分を刺し、師匠に…殺されたと思っていたが、彼女は元気に歩いているではないか。しかもどことなく幸せそうな雰囲気だ。
彼女が自分を刺したのはお金のため、と言っていた。という事はお金をあげたのか?あの師匠が?誰にでも厳しい師匠がそう易々と金を渡して帰らせるとは考えられない。これはまた師匠と口論する素材を手に入れてしまった。
「でも、なぜこの女性の事をあなたが知ってるんですか?」
弟子はその時いるはずもない鳳河がなぜこの事を知っているのか不思議でならない。
「それはね、君の頭の中をちょっと拝見しちゃった。」
鳳河は片目をつぶり人差し指を立ててウインクした。こんな仕草、大の大人がやったら恥ずかしい事間違いなしだが鳳河がやるとそれは可愛らしい雰囲気へと不思議と変化する。
「我々神仙は人の思考が読める。でも彼はもっと凄くて近くの人ならたとえ神仙でも誰の思考でも自然と読めたんだよね。」
「良い事も悪い事も。」
仙人はそんな事も出来るのだと知った弟子は呆けて口を半開きにして聞き入っている。
「
「だから成長するにつれ、口数が少なくなっていったんだ。」
物悲しそうに語る鳳河に師匠の知られざる過去を教えてもらい、弟子は何を言ったらよいのか分からずただただ静かに聞いていた。
「大切な事も話したがらなくて、誤解を招く事は増えていった。彼が天界を離れたのは、煩わしくなったんだろうね。」
「私がもっと…気にかけてあげていたら。」
鳳河は地面を見つめて悔しそうに語る。
師匠の過去の事は弟子には到底分からない。自分の居場所から、家族から離れて下界で何千年も一人で暮らす。それがどんなに寂しい事かも。ただ弟子は自分の事のように胸が締め付けらる思いがした。
「でもね、そんな彼を今日みたら、生き生きと話してる姿を見てね。」
鳳河は途端に顔を上げて嬉しそうに語りかけてくる。師匠はここに居る事が幸せなのだろうか。毎日のように弟子と言い合いする生活が?
やはり弟子にはまだ師匠の想いをくみ取るには早すぎるようだった。
「連れ戻しに来たのに…決心が鈍るよ。」
「え、じゃあ…」
彼が強引に師匠を連れて行くとは到底思えない。鳳河の憂い顔に弟子はどうする事も出来なかった。
「うん。今日は様子を見に来ただけだし、このまま帰るよ。またちょくちょく遊びに来るから。」
「あはは…いつでもお待ちしています。」
優しく微笑んだ鳳河は弟子の頭をくしゃくしゃと撫で、振り返りゆっくりと歩いていった。
弟子は少し心淋しさがこみ上げる。
「うん、じゃあまたね。」
振り向かず背を向けた鳳河が掌をひらひらと振り、別れの挨拶をした。
「あ、師匠には?」
「もう言ったよ。」
弟子に最後の一言を述べ、鳳河の表情は弟子からは見えないが、最後口角をうっすらとあげて満足そうに微笑むと霧のように霞んで消えていった。 嵐、というには穏やかで優しい風はもうどこにも気配がない。ここには吹いたことは一度もないがそれはまさしく春の風のようだったな、と弟子は余韻に浸るように思った。
「やっと帰ったか。」
彼のいなくなった先に見える夕日の沈むのを眺める弟子の背後から、透き通った低い声がかけられた。
振り返ると師匠が肩の荷が下りたという感じに溜息を吐き近づいてくる。師匠の過去の話を聞いて、師匠が実は優しい事も凄い事も知った。でも弟子には今目の前に映っている師匠が全てであり、そう簡単に美化はされず、いつもの師匠として捉えてしまう。
「おい、弟子。」
「茶。」
そんな師匠は知ってか知らずかやはりいつも通りに弟子に茶を催促する。でも今日はそのいつも通りな師匠になぜかホッと安心感を覚えた。師匠は師匠だな、と。
「はい!」
と、いつになく元気に返事をすると内院に戻ろうとしていた師匠が急に振り返った。
「ああ、それと。」
「あまりあやつの事を信じすぎるな。何も修行してないヒヨっ子が簡単に天界へ行けるわけがないだろうが。」
「え‼」
弟子は今日何度目かの耳を疑う言葉を聞かされたが、この言葉が一番驚いたかもしれない。
(あの善人を形どったような人が嘘を⁉ 師匠ならまだしも‼)
弟子には到底信じられないが、すでにいない人に問いただす事も出来ない。
「あやつはそういう奴だから、気を付けろよ。」
そう言い、師匠は振り返りすたすたと内院へと戻っていった。 弟子はただ呆然としばし立ち尽くして師匠の背中を見送っていた。
ー終わりー
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