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第五章 招かれざる客
ここは人はおろか蟲一匹存在しない豪風吹き荒れる峰の中腹、そこに居するはかつて天界に住んでいたとされる神仙の一人、名を
彼にはただ一人の弟子がいる。
弟子が藥忱の元へ来てかれこれ百二十余年。彼はいまだに仙術の一つも扱う事の出来ない人間同様の道士だった。
外壁は岩に偽装させているのか暗い灰色がかった壁をしているが、屋敷の中は白一色の清潔感のある壁や床で、暗紺色の屋根が際立って見える。主張する事のない金銀の灯篭や手摺の金の模様が高級感を醸し出していた。
普段、閑静な屋敷は今日に限って師匠の平静さを欠いた声が響き渡っていた。
「何をする!」
いつも落ち着いていて大声を上げた事の少ない師匠の慌てた声に、驚いた弟子が台所から飛び出て内院へと急いだ。
「師匠?」
師匠の顔を確認しようと恐る恐る覗き込むように屈みこむと、弟子は予想だにしていなかった光景に硬直してしまう。
女性の紅い唇は師匠の厚い唇を確実に捕らえていたのだ。
「え!あ、あの、ごめんなさい。」
弟子は慌てて声を上げて後ずさりした。まさかこの師匠に彼女的な存在がいたなんて、弟子は今の今まで知る由もなかったから。
師匠は覆いかぶさる女を強引に身体から引っぺがすと襟首を鷲掴み、弟子を睨みつけた。
「勘違いをするな、弟子。」
不機嫌を絵に描いたような師匠は獣の耳の生え、赤い尖った爪で威嚇する女を、まるで布団でも干すかの如く軽く持ち上げると、大きく振りかぶってその次、なんと事もあろうに屋敷の外まで放り投げた。彼女が軽いのか、師匠が剛腕なのか分からないが女性を放り投げる師匠の容赦ない姿に弟子はしばしば唖然として立ち尽くしていた。
「あの女狐が勝手に入ってきて口づけしてきただけだ。」
(女狐…)
師匠の言葉に我に返った弟子が思考する。
どうやら、彼女は妖狐の類の者らしく、師匠が張った結界になぜか僅かな亀裂があったようで、そこから忍び込み、襲い掛かられたと–––
妖狐とは天狐と違い妖魔の類だ。人間や仙人を
「あ…師匠、その、大丈夫なんですか?」
「何がだ。」
弟子はハッとなって師匠をまじまじと見つめた。 思い出したのだ、仙人が做爱をしたら仙力を失う…と。あんなに熱烈な口づけを受けて大丈夫なのだろうかと心配になった。
「だって、仙人は做爱をしたら仙力が…」
「問題ない。」
師匠は身体についた土埃を叩き落とすと、乱れた衣服を整え、いつものように冷静沈着に言った。
「あんなもの做爱のうちにはいらぬ。」
「そうですか。なら良かった。」
未だに機嫌が悪いのか眉間に皺をよせ話す師匠に弟子はほっと胸を撫でおろした。まだ仙術のせの字も教えてもらっていないのに師匠が使い物にならなくなったらたまったものではない。
「だから、一時的に仙力を失うだけで済む。」
「は?」
真顔で何やら爆弾発言をしたような師匠に、弟子は訳が分からず瞼をしぱたかせる。
(仙力を一時的に失う…?)
すぐにはピンとこなかったが、やがてそれは急に訪れた。
爆音のような音と共に豪風が屋敷の中に一気に流れ込み、屋根やら塀やら、師匠が愛用している机と椅子までもまるで枯れ葉のように軽く宙に巻き上げられ、屋敷は見る影もない。
「師匠!師匠ーー!」
何が起こったのか思考がついていかず調度品と一緒に飛ばされる弟子が師匠をひたすらに呼ぶ。
身体は横になって今にも豪風に巻き込まれそうな弟子だったが、何故かその場所に留まって上下左右に激しく揺さぶられていた。
「このくらいの風で飛ばされるな。」
こんな豪風吹き荒れる中、なぜか師匠の透き通った声が耳に届き、弟子は恐る恐る目を開いた。
仙力を失ったはずの師匠だが平然とした顔で長衣が豪風にたなびくのに身体はまったく動かない。そして彼の白く長い五本の指は弟子の襟首をしっかりと捕らえていた。
助けるにしても何故襟首を掴むのか。弟子はまるで豪風の中、飛ばされそうになっている洗濯物のようにはためきながら師匠を恨めしそうに睨む。
「建物が粉々なのにどうして私が飛ばされないと思うんですかっ。」
「ていうか師匠凄いですね!」
「ふん。このくらい当たり前だ。お前が弱すぎるだけだ。」
弟子が珍しく賛美の声を発するも師匠は喜ぶどころかいつも通り貶すばかり。
こんな状況でも言い合いが出来る師匠は本当に凄い。弟子は眼や耳に砂埃が入り、目も口も開けるのがやっとなのに。
「だから修行を…」
「とにかく、一度山を下りるぞ。」
なんとか返せたか細い声を無視され、師匠は屋敷を見渡し言い放った。 そして次の瞬間、師匠はなんと掴んでいた弟子の襟首をパッと手放したではないか。
「へ!?」
「うわーーーーーーっ」
途端、木の葉のように軽く爆風に舞い上げられ、弟子の姿は屋敷ともども空の彼方へ見えなくなっていった。
◇
二人は緑の深い木々の生い茂った森の中を下っている。
先ほどの豪風吹き荒れる場所とは打って違ってとても静かな森の中は、ときたま鳥のさえずる綺麗な音が響き、そよ風に揺れる草の擦れる音か、あるいは餌を探す小動物の足音か定かではないが、心地よい森の音が耳をくすぐった。
「はぁ、死ぬかと思った。」
弟子は
屋敷から麓の一番近い村は目視する事が出来るが、実際は三百里ほど離れていて、村に通じる森林地帯まで弟子は一瞬のようなそれでいて長い間のような時の中、瓦礫や風花に切り刻まれもみくちゃにされながら飛ばされた。
「軟弱者め。」
師匠は弟子には目もくれず冷たく言い放ちつつ、黙々と歩を進めていく。
「手を離すとか、殺す気ですか!」
(この師匠、本当に本当に一体どこが優しいのだろうか。)
鳳河の言った言葉は今でも弟子には信じられない。
所労した身体を引きずって弟子が師匠に噛みつく。たとえどんなに疲れていてもやはり師匠に一言二言言わないと気が済まないのだ。
「丁度、風向きが村の方角だったからな。早く来れて良かっただろう?」
師匠は口角を上げて一瞬ちらりと弟子を見る。
「良くありません!木に引っかかったから良かったものの地面に落ちたらどうするんですか!え‼」
怒って叫ぶ弟子は自分の背丈ほどもある草の根をかき分けつつ師匠の後についていった。まるで流れるように前を進んでいく師匠が不思議でならない。草木が自ら避けているようにさえ見える。
木々の合間から見える連峰山は上のほうが雲に覆われて良く見えないが屋敷のあっただろう場所は遥か遠くに見えた。あんな場所から飛んできたのかと思うとよく無事でいられたなと、弟子は思っただけでぞっとした。
「それに師匠がちゃんと修行させてくれていれば、飛ばされる事もなかったし、もしかしたら私が制御出来たかもしれないじゃないですか。」
「私ほどになるのに何年かかると思っている。ほんの数百年で会得出来るものではないわ。」
弟子の訴えにも師匠は動じる事無くきっぱりと言い切る。
「で、でも、少なくとも自分の足で立つことは出来たかも。」
「体幹の事を私のせいにするな。お前が日々自分を鍛えないからだろう。茶ばかり淹れているからそうなるんだ。」
「はぁ?師匠が毎日淹れろって言うんじゃないですか!」
「当たり前だろう。それが弟子の仕事だ。他に仕事があるのか?」
(ぐぅぅ。)
師匠に言い負かされ、弟子の口は悔しそうにへの字に曲がる。
ひっそりとした森の中に師匠と弟子のせめぎ合う声が響き渡り、驚いた動物は身を隠し、宥めるように木の葉がサラサラと音を立てているが、師匠と弟子の言い合いは森を抜けるまで続いていた。
森を抜け、村の全貌が見える高い丘に来ると弟子は久しぶりの村に胸を躍らせた。 思えば村を出てから百二十余年。もう自分を知る人は一人として残っていないだろう。
「それにしても師匠。村なんて久しぶりですね。」
「ああ、そうだな。」
急く気持ちの弟子をよそに師匠は一度歩を止め、衣服の乱れを整え、見えない埃を叩いた。いつでもどこでも身なりを整えるのは師匠の美徳のようなものらしい。農民の出の弟子にはその神経質な性格がどうにも理解出来なかった。
「お前に絡まれた時以来か。」
「絡んでません。」
再び歩き始める師匠の独り言のような言葉を弟子は逃さず言い返す。
実際、絡んだ記憶はない。というより百二十余年も前の事、弟子にはもう虚ろにしか思い出せなかった。
ただ、師匠に出会った時の事、それだけは今でも鮮明に脳裏に蘇る。
ー続くー
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※百草霜:黒色
※玉緑色:淡い緑色
※深緑宝石:深緑色
※中国の“1里”は500メートル
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