第六章 過去の出逢い (壹)

 –––––百二十年程前。


 村は干ばつにより貧困に陥り、子供どころか自分を養う事さえ精一杯の様子で、村のあちこちには座り込み腹を空かせた子供たち、空腹で苛立つ大人の喧騒の声、活気も希望もない寂れた村に、ただ乾いた風だけが頻繁に行き来していた。


「こんの疫病神が!村から出て行け!」


「とんでもねえ奴だ!」


「知らなかったじゃ済まされないんだよ!」

 

 村の中心に大小の大人たちが輪になって集まり、罵声を飛ばしている。 

 それでなくても苛立つ感情が増々沸き立っている様子で中心の薄黒い塊に向かって吐き捨てているようだ。


「ごめんなさい、ごめんなさい。」


 薄黒い塊はもぞもぞと動いてぼそぼそと声を発した。

 どうやら人間のようだ。それも小さい、まだ成人していない子供に大の大人が寄ってたかって何をしているのか。

 子供は頭を抱えて背中を丸め、時折怒りに任せて蹴飛ばされるのを耐えようと必死に縮こまっていた。


「…父さん。」


 十五、六歳ほどの子供は恐る恐る薄汚れた顔を持ち上げてぼやける眼である男を探した。 自分の唯一の肉親である父ならば助けてくれるだろうと淡い期待を抱いて。

 しかし、


「お前なんて、俺の子じゃねえや!二度と父と呼ぶな!」


 目上に見える父は蛆虫うじむしでも見るような眼で自分の子供を見下し、言い捨てる。他に頼る者もいない子供は唯一の肉親に見放され、絶望感を覚えた。


「ふん、明日までに消えろよ。」


「はぁ、顔も見たくないわ。さっさとどっか行ってちょうだい。」


 散々罵り、蹴飛ばし、憂さ晴らしをした大人たちは最後に吐き捨てるように言うと散り散りに帰っていった。ボロ雑巾のように倒れた子供はぴくりともしない。


 その一部始終をただ静かに誰にも悟られる事なく見つめている男がいた。

 

 彼の服装は村のお粗末な服とは雲泥の差で玉緑色の長衣が高級感を匂わせている。整った長い髪が風に揺れ、手に持つ深緑宝石の龍の描かれた白い扇子で優雅に口元を隠して、彼が場違いであると誰が見ても思うほどだったが、不思議と村人の誰一人としてその存在に気を取られる事はなかった。


「もし。あの子は…」


 彼はこの世の全てに嫌気が刺したようにやさぐれて歩いてくる村人の男に静かに透き通った低い声をかける。

 本来なら人に声をかけられる事すら鬱陶しいと思っていた村人だったが、なぜか彼の声は耳を通さず脳に直接語りかけてくるように響き、驚いた村人は一瞬頭がおかしくなったのかとかぶりを振り、彼と地べたに転がっている子供を交互に見た。


「ああ、あのガキかぁ。あいつは隣村の連中に騙されて、いいようにこき使われたあげく、村の貯蔵庫の鍵を盗む手伝いをしやがって、おかげで村はおしまいだよ。」


 言い捨てるように村人が言うとまたダラダラとした足取りで去っていく。

 

 優雅な男はただ静かに立ち尽くし、哀れな塊から視線を外し、薄い雲の通る空を見上げた。


(やはり、人里になど降りてくるものではないな。)


 微かに頭を横に振り、目を閉じて軽くため息を漏らす男の脳裏に、途端、別に望んでもいないのに掠れる悲しそうな声が響いてくる。


”違う、違う。こうでもしないと隣村の連中が村を襲うって言ってたのを聞いたんだよ。村を救うにはこうするしか無かったんだ。うぅ、ぐっ なんでボクばかりこんな目に…” 


 この男の本性はこの村から見える遥遠い山の連なる峰に住む仙人だった。


 彼には望まずとも近くの人間の思考が脳裏に流れ込んできてしまう。普段、人のいる場所では制御するようにしていた男は、村人たちの喧騒後、なぜか制御を解いていた。それが意図するものなのか、それともうっかりなのかは仙人の彼にしか分からない。


(人間どもに人の心など読めぬ。)


(言葉で伝えねば思いも何も伝わらない……しかし言葉で訴えたとしても、現実を知らねば信じようともしない。 一人が信じれば、周りも真似て信じてしまう。たとえそれが真実であろうとなかろうと。そして真実を知れば、今までの態度を簡単に覆し、まるで何事も無かったかのように媚びを売る。受けた者の気持ちなどこれっぽっちも考える事もせずに…)


(なんと愚かな生き物よ。)


 半分瞼を閉じた焦点のあっていない目は常人とは思えぬ、とても淫猥な雰囲気を醸し出していた。普通の人間がそれを見たらたとえそれが男性であっても虜になってしまいそうだ。

 男にとってそれは無意識の産物であり、周りの人の好意的な眼など畑に転がる野菜程度にしか思っていず、特に気にする事もない。


「…た、助けて……」


 思考している男性の裾が急に何かに引っ張られる。


 彼はゆっくりと視線を落とすと、先ほどまで丸まって動かなかった塊が自身の近くまで這いずってきて、長い長衣の裾をしっかりと握りしめて弱弱しく沈痛な面持ちで見つめてきていた。


 仙人は無言で見つめ返す。


 そこへ近くの村人が足早に近づいてきた。


「おい、何旅人に絡んでんだよ、クズが!これ以上面倒かけんじゃねえよ!!」


 村人は縋る子供を蹴飛ばし、仙人から遠ざけると罵声を浴びせた。


 惨い仕打ちが眼の前で行われても、男の表情はぴくりともしない。


(旅人…)


 彼は村人に言われた言葉を反芻し、大きい袖を上げて衣服を見直した。

 確かに、こんな容貌でこんなところにいたら場違いだな、とようやく気付いた仙人は静かに振り返り、その場を後にした。




    ◇




 日はすっかり落ち、村の近くの薄暗い深い森の中、照らすは木々の合間から差し込む月明りのみ。


 土や泥で薄汚れ、もみくちゃにされてヨレヨレになった服を纏った子供が何度泣いたのであろうか乾いた涙の筋を頬にいくつも作り、まっすぐと前だけを向いて、自分と同じくらいの背の高い草の中をかき分けつつ突き進んでいた。


 子供に行く当てなどないが、村に居ても蹴られるだけで腹も心も満たされない。万に一つの食料を求めて危険と知りつつも深い森へと入ってきたのだ。



 森に入って一刻いっこく(約二時間)は経つが、食料になりそうな物は何一つ見つからない。それもそのはず、もしあれば、昼間食料を調達しにくる村人が採取しているに違いないのだから。それでも子供は必死に食べ物を探した。一縷の望みをかけて。


 途端、近くからガサッと物の動く音が聞こえた。


「誰!」


 音のする方へ振り返ると、赤みがかった黄色い胴体とふんわりと太い尻尾、細長い顔に長い耳がこちらを向いている。


「なんだ、狐か。」


(狐!捕まえて食べれば…毛皮も高く売れる!)


 空腹の子供はごくりと喉を鳴らして狐にゆっくりと近づいていった。賢い狐がこんなみすぼらしく弱弱しい子供に捕まる訳がない。子供も今まで狐を捕った事はなかったが、もう何日もろくなものを口にしていないため、空腹で居ても立ってもいられなかった。


「待て!このっ」


 必死に追いかける子供をよそに、狐はまるで揶揄うようにぴょんぴょんと跳ねて逃げ回り、疲れて子供が止まると自分も止まって振り返るを繰り返していた。


「すばしっこ…こいつ。」


 諦めきれない子供は精一杯狐を追いかけた。遊ぶ狐の尻尾にもう少しで触れそうになったその時、木の幹から急に玉緑色の障害物が現れ、咄嗟に避けられない子供はまともにぶつかって弾き飛ばされてしまった。


「痛ったぁーっ」


「…殺生とは感心せんな。」


 低い透き通った声が頭上から降り注ぐ。子供は何が起こったのかと目を真ん丸にして見上げた。


「な、あんた誰!」


 突然現れた男に敵意をむき出しにし、続けてその男に抱かれている狐に視線がいった。


「それはボクが先に見つけた獲物だ。返してよ!」


 狐を指さして叫ぶ子供に男は常に冷静沈着で表情ひとつ変えずに見つめ返してくる。


「こやつだって一生懸命生きている。」


「何故、お前のためにこやつが犠牲にならねばならぬ?」


 深く重い男の言葉が子供の心に響き渡るが、空腹で我を忘れた子供には一向に浸透しなかった。


「は、何言って…あんただって肉は食べるだろ!」


「殺生はしない。」


 子供は男の言葉に少しずつ冷静になっていった。  今まで狩りもせずに過ごしてきたという事だろうか、だとしたらこの目の前の人はかなり裕福な人だ、と子供はまじまじと男を見回す。

 月明りの少ない薄暗い場所のせいか男の容貌がすぐには理解出来なかったが、じっくりと見ると確かにここら辺の村人のような粗末な服とは雲泥の差で滑らかな生地で出来ている長い服はシミ一つない。


 子供にとってこんなにも質の良い服を着た人間は今まで見た事がなかった。猜疑心が募る子供は自然と口が開く。


「な、変なやつ…」


「そもそも人ではない。」


「え?」


 強い眼差しで見つめられ、まるで蛇に睨まれたように動けない子供はまたまた耳を疑った。人ではないとは…と普段深く考える事もしない頭を働かせて答えを導きだす。


「…まさか、山に住んでるっていう、仙人…?」


 人ではないという言葉を素直に受け取るところはさすが子供といったところだろうか、子供にとって人ではない人の形をしたものといったら仙人くらいしか思い浮かばず、幼い頃から聞かされてきた村から遥遠くにそびえる峰々に住むと謂われる仙人伝説が脳裏に浮かびあがったのだ。


 とはいえ、そんな伝説級の人物が普通に現れるだろうか。今まで仙人を見たなんて噂は一度も聞いたことがない。どこか遠くから来た貴族が揶揄からかっているのか、しかし貴族が何故こんな辺鄙な場所の森に?それこそありえない!と子供の小さな頭は混乱を極めた。


「おい、お前。」


「あ、はい?」


 男が突如、偉そうに上から目線で子供をまっすぐと見つめて呼ぶので、回想していた子供は一瞬ポカンとして間の抜けた返事を返した。


「私の弟子になるのと、村に戻るのと、どちらが良い。」


「は?」


 子供は目の前の大人の言っている意味が一瞬理解出来ず、瞬きを繰り返す。


「弟子? ボ、ボクが??」


 まさか夢物語だと思っていた仙人の弟子へのスカウトが現実に、しかも何の取り柄もない自分に向けられ、子供は驚きと興奮が沸き立ち声を上げた。


「…本当に、ボクを弟子にしてくれるのか!」


 今まで空腹で死んだ眼をしていた子供は途端、眼を輝かせて仙人に期待の面持ちを向ける。一方の仙人は先ほどから身体を微動だにせず、眼だけで表現するように時には強く、時には細めて、長い睫毛を揺らしている。そういえば、いつの間にか腕に抱かれていた狐の姿がないが、子供はすでに狐の存在などすっかり忘れていた。


「お前が望むならば。しかし二度と村にも家族の元へも帰れない。」


「……。」


(そっか…村には……) 


 仙人の言葉に子供は俯いた。緑の深く背の高い草の力強く伸びる姿が目に映る。


 子供はすでに村へはもう戻れないと覚悟を決めて森に入ってきた。だが、僅かな希望が無いわけではない。大人になれば、食料を沢山採ってくれば、村の皆は許してまた自分を歓迎してくれるのではないかと、そんな淡い期待を抱いていたのだ。だが、仙人の弟子になればその淡い期待さえも無くなってしまう。


 とはいえ、今のままでは村に帰るどころかそこらへんで野垂れ死にするのがオチだろう。


 子供は悲しそうにぼそっと呟いた。


「もう…村へは戻れない。」


「戻りたいなら手を貸してやる。」


 子供に聞こえるか聞こえないかくらいの溜息をついた男はゆっくりと口を開く。 顔を上げた子供の眼に天を一心に見上げている端正な顔立ちの男が映った。


「え!でも…」


「どうやって。」


 恐る恐る口を開く子供に男は宙を見上げたまま言い放った。


「簡単なことだ。その隣村の奴らを連れてきて白状させ、奪った貯蔵物を取り戻せばよい。」


「か、簡単って。そんな事出来るわけが…」


(でもこの人は仙人っていうし…? 仙人ていまいちよく知らないけど、何か凄い事が出来そうな?)


 言い終わる前に思いを改めて口を閉ざし、月明りに照らされる神々しさの漂い出す男を見つめた。


「本当にそんなことが出来るのか?」


 大人たちに散々酷い事をされ、疑心に捕らわれていた子供は不安そうな眼差しで端正な横顔に問いかける。


「ああ、いとも容易くな。」


「来い。」


 男はわずかに口角を上げて微笑すると、袖を大きく払って歩き始めた。子供は一瞬唖然としたが、すぐにその大きな背中を必死に追いかけていった。




ー続くー


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※壹:数の『一』

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