第二十一章 麒麟の迎え (贰)

 豪華絢爛な建物から離れ、白い石畳を進んだ一行は蓮の花の咲き誇る池の側までくると白い石で出来た卓と椅子のある庵に落ち着いた。


「ふふ、こんなにすんなり帰ってくるとは思わなかったよ。」


「麒麟を使い走りにされたら嫌でも帰ってくるしか無かろう。」


「わぁ、姉上本気だねぇ。」


 卓の上には鳳河が出したぎょくで出来た茶器があり、兄であるにも関わらず甲斐甲斐しくお茶を弟の為に注いでいた。淹れられたお茶を啜りながら藥忱は眉間に溝を作る。


 ふと、二人のやり取りを静かに静観していた草加が口を開いた。


「ねえ、藥忱やくじんちゃま。藥忱やくじんちゃまのお弟子さんて二人いるの?」


「何故だ?」


「だってね、藥忱やくじんちゃまから匂う仙人の匂いは男の子の匂いしかしないの。でも前に鳳河ほうかから藥忱やくじんちゃまの弟子の女の子の匂いしかしなかったから。」


 草加の言葉にしばし藥忱は押し黙る。


 この兄は…また従者を騙しているのか…。いつもの事ながら呆れてしまう。二千年も経ったというのに未だに遊び心が治っていない。

 鳳河といえば慌てる様子もなく不思議と笑みまで浮かべていた。


藥忱やくじんちゃま?」


「さあな。」


 藥忱は面倒そうに口を開いた。


 鳳河にはわかっているのだ。藥忱は極度の面倒くさがりであり、面倒事が嫌い。故にここで暴露し草加の激高に巻き込まれる事はするまい、と。


 藥忱の返答に草加はむくれている。

 

「えーーなんで教えてくれないのー。」


「煩い、羽虫。」


「な!羽虫じゃないもん‼ 藥忱やくじんちゃまの馬鹿ー!」


ガブッ


 草加は怒って藥忱の手の甲にしがみ付くと思い切り噛みついた。いつもの事ながらこの羽虫…もとい草加は怒ると噛み付く癖がある。この前は首筋に、今回は手の甲だ。


「痛っ、離せっ。」


「こらこら、草加さいか、そんな羨ましい事はやめなさい。」


「だって藥忱やくじんちゃまがー」


「はいはい。」


 噛み付く草加を鳳河がゆっくりと引き離す。藥忱は小さく赤くなったところを摩りつつため息をついた。


「弟子が気になるなら見せてもらえばいいだろう。」


「そっかぁ、鳳河鳳河ほうかほうか!お願い。」


 藥忱の提案に草加が眼を輝かせるが鳳河は逆に顔が引き攣る。


「えーと…」


「はい、どうぞ。」


 それでも見つめてくる最愛の子には勝てず手を回して小さな空間を作るとそこに下界の様子を映し出した。


「これが藥忱やくじんちゃまの弟子かあ~、可愛いんだね。」


 草加が覗き込む空間へ藥忱も何気なく視線を移すがそこに移し出されていた光景に眼を見開く。


「‼」


 そこには書房の床を埋めるように散乱する幾つもの書物としゃがみ込む弟子の姿があった。藥忱の態度に鳳河も覗き込んで苦笑する。


「あらら。」


「弟子ーーーーー!」


 憤怒した藥忱の声が天界の一角に響き渡った…。




 –––屋敷


「ん、師匠? 呼びました⁇」


 散乱した本を手に取りつつ師匠の声が微かに聞こえたような気がした弟子はキョロキョロと部屋の外を見回した。だが、声の主の気配は無い。弟子は再び部屋の中へ戻り床を見て落胆の表情を浮かべた。


「気のせいか。それにしてもこれ…どうしよ…」


「もう、大体、師匠が一番上の棚に本を置くから崩れるんですよ。私のせいじゃないです、師匠のせいです。うん。」


「はあ、師匠、こういうの煩いからなぁ。」


 弟子は大きくため息を吐くと本を手に取っては次々と本棚にしまっていった。



 天界–––


「違う!その書はそこではない!ああもぅっ。」


 鳳河の出した鏡の渦に食いつくかのように藥忱は苛ついた様子で聞こえるはずもない弟子を怒鳴りつけている。溜まりかねたのか藥忱が急ぎ足で立ち去ろうとしたが、鳳河の腕に行手を遮られた。


「や・く・じ・ん、どこ行くの?」


「…っ」


藥忱やくじんちゃま、謹慎中だよ?お外でちゃメだよ?」


 草加にも嗜められ藥忱は吐息を吐く。


藥忱やくじん、もう下界に戻りたいの?」


「帰ってきたばかりだし、もう少しここに居たら?」


 鳳河は慰めるように藥忱の肩を抱き、顔を覗き込む。藥忱の好きにさせてあげたいが姉上との約束もある。それに……


「じゃないと姉上の怒り爆発で地上に天変地異が起きちゃうかもしれないよ。」


「それにもしかしたらここに居る間に弟子くんが猛特訓して天仙になって上がって来るかもしれないし!」


「誰があやつに教えるんだ。」


 楽天的な鳳河を藥忱は至って冷静に問いかける。鳳河は顎に指を置いて考えこんだ。


「んー、地仙の静杏せいあん仙人とか?」


「あやつは駄目だ。」


「じゃあ、他の地仙?」


「地仙の教えで天仙になれるのか?」


「んー、無理。」


 手を開いてお手上げの仕草をする鳳河。天仙になるにはせめて仙境に住む仙人以上の修行が必要となる。下界では到底無理な話だ。


「というか、あの子地仙通り越して天仙にするつもり?」


「そうだ。」


「ただのなんの取り柄もない人間だったのに?入れこんでるねぇ。」


「あやつには才能がある。」


 藥忱の肩に肘を預けて興味深々の様子の鳳河。


「ふーん。何気に藥忱やくじん、あの子の事好きなんだね。」


「ふん、そうでなければ弟子にはしないわ。」


「そう、妬けるなぁ。」


 "好き"という言葉をあえて使った鳳河だが藥忱は特に否定するわけでもなく平静である。鳳河の胸がちくりと痛んだ。


「和んでるけどさ、藥忱やくじんちゃま、お家から出ちゃメだよ?どうするの?」


 飛び交う会話を目で追いつつ鳳河の肩で寛いでいた草加が話を戻すと二人はピタリと口を閉じて草加に視線を移した。


「う"、何。」


「ちょっと、鳳河ほうかまで見ないでよ!嫌だよ‼」


 意味深な二人の熱い視線に草加がたじろぐ。


草加さいかちゃーん、藥忱やくじんを助けると思ってさ、ね?」


「前もそれですんごく怒られたんだからあ!絶対嫌!」


 草加は事あるごとに藥忱に変化しては居留守の手助けをしていた。姉の艶鏻は草加に甘いため露見してもせいぜい叱責を受けるだけだ。


 プイッと顔を横に向ける草加に藥忱は切なそうに呟く。


草加さいか。」


 いつもいつも泣き落としされる草加がじりじりと二人から離れていった。今度という今度は絶対に泣き落とされないんだから!という強い信念を抱きつつ…


「な、やっ、そんな顔で見つめたって…絶対ダメーー!」


 草加は叫ぶと猛ダッシュで天へと飛び去っていく。


「あ、待って草加さいか。」


「捕まえてくる。」


 その後を追いかけるように真っ白な天へと鳳河も飛んで消えていった–––




    ◇




 鳳河を待っていられず歩みを進める藥忱を強い意志が呼び止めた。


「何方へ行かれるんですか。」


「またお前か。」


 振り向かずとも分かる心に響く声の主を振り返り藥忱は心底面倒そうに顔を顰める。


艶鏻えんれい様より藥忱やくじん様を内々的に見張れと仰せつかりまして。」


 そこには案の定、存在感の塊のような麒麟が大きい顔を近づけていた。その大きな瞳には何処となく哀愁が漂っている。


「麒麟。そなた私に構っているほど暇ではなかろう。姉上の茶番に付き合わなくても良い。」


藥忱やくじん様も大切なお人です。」


 麒麟をなんとか追い返したいがそもそも藥忱の命を聞くような存在ではない。藥忱は深い溜息をついた。


「麒麟、私は…」


「天界がお好きでない?」


「昔からそうでしたものね。」


 昔から何かと交流のあった麒麟には藥忱の気持ちが手に取るように分かった。天界では思うように身動きが取れない事も、言いたいことが言えない事も……


「分かっているなら見逃してはくれまいか。」


「そうは言われましても、今ここで見逃してもまた私を遣わされるだけだと思いますが。」


「姉上も早々お前を遣わしたりしないだろう。」


「ならば次は艶鏻えんれい様自らお迎えに参られるかもしれませんよ。」


「その時はその時だ。」


 藥忱の強い眼差しが向けられる。そこにはひとつの決意が感じられた。


「麒麟よ。姉上には逆らえぬ。もし、姉上自ら参られ、その所業の後、私が軟禁されても致し方ない。」


「だからこそ、自由な時を得られる今、教えておけるだけ教えておきたい者がいるんだ。」


 藥忱の切なる願いに麒麟が俯く。


「この前の道士ですか。」


「どのくらいの時が得られると?」


「姉上とてすぐには来られまい。下の時間はこことは全然違う。時間なら十分にある。」


 決して揺るがない意志を感じ麒麟がついに折れた。


「はあ、分かりました。私も協力致しましょう。」


「すまない。恩に着る。」


「ですが、本当にどの程度の時間を確保出来るかは分かりかねますよ。十年か百年か…。」


「分かっている。だから悔いを残さないようにする。」


 藥忱は麒麟に一礼すると背を向けて霧のように霞んで消えていった。




    ◇




「師匠もう何日も帰ってこないなあ。」


 藥忱が居なくなって数日、弟子は書房に引き篭もり只々書物を読み耽っていた。辺りには読んだ書なのか読もうとして置いたのか束に積み重なった書物の山で囲まれている。


「書物読んでて何日経ったか分からないけど。」


 書を捲りながらブツブツと一人呟く弟子。


「それにしてもこの前のあの大きい生き物。まさか麒麟だったとは。」


「まさか師匠が呼び出したんじゃないよね?師匠そんな凄い神仙なの⁉」


 神獣の書物に目を通していた弟子は未だに驚きを隠せない。師匠は本当に得体がしれないのだ。ちゃんと説明された事も無いし。


「まあいいか、この機会に書房の書物、全部読んじゃおっと。」


 読み終わった書物を片付けようと立ち上がるとふと入り口に人の気配を感じハッと振り向いた。


「誰だ……、師匠!」


「……。」


 そこには待ち焦がれていた男性の姿が。弟子は嬉しそうに駆け寄った。


「師匠、おかえりなさい。随分遅かったですね。」


「……。」


 話しかける弟子をよそに藥忱はピクリとも動かず両手を後ろで組んで立ち尽くしている。


「あ、ああ!ちゃんと言いつけ通り読んでおきましたよ、神獣の書物。」


 得意げに持っている書を差し出す。藥忱は無表情でそれを受け取ると無言で捲っている。師匠が褒めるという事は期待していないがそれにしても無頓着過ぎる、と弟子が顔を覗き込んだ。


「あのー、どうかしましたか?」


「書物の位置が全然違うわ!戯けが‼」


「あてーーっ」


 ふいに書物で頭部を殴打され、弟子は声をあげた。


「痛、なんでバレ…師匠またどこかで見てたんですかぁ、酷いなあ。」


「見なくても分かるわ。適当に入れおって。」


 眉間に皺を寄せつつ書物を手に取っては棚に戻していく師匠。


「まあまあ、どうせ全部出して読むんですから。そうだ、なんなら見やすいように種類別にしておきましょうか。」


「戯け!私が分かりやすいように置いてあるんだ。一冊たりとも別の場所に動かすんじゃない。」


「はーい。」


 弟子の提案は虚しく却下され、叩かれた場所を摩りつつ書物を元の位置へ入れていった。


「それで、数日ずっとここで書物を読んでいたのか?」


「え? あ、はい。」


 ふと書物の束を腕に抱えた師匠が弟子に問いかける。弟子が顔を向けると師匠が一番上の書に注視しているので覗き込み、目を丸くする。そこには仙人には到底無関係であろう春画しゅんがが置かれていた。


「あ、その書はですね、あ、たまたまです!たまたま出てたんですよ。」


「では仙術の書や武芸の書、仙薬の書などの中にこれがあったと?」


 弟子が苦笑して弁明する様子を師匠は眼を細めて見つめる。


「そ、そうです!いや、見てませんよ?そんなふしだらなもの!」


「ではなぜこんなにこの書だけ皺だらけで涎がついているんだ?」


「この色魔が‼」


 見れば春画には皺や涎の跡らしきものがあり、師匠が吼える。


「仕方ないじゃないですか‼思春期ですよ!大体、ここにそんな物があるのがいけないんです!」


 しかし、弟子も負けじと反論した。


「仙薬のために必要な書物だ。大体、厳重に保管していたはず。それに修行中の道士に思春期なぞあるものか。」


「ありますよ、思春期をここで過ごしたんですよ。髪が長くて腰が細くて後ろ姿はまるで女性じゃないですか。そんな人と数百年も一緒に過ごして…ふがっ」


 弟子が最後まで言い終わる前に師匠の手がそれを制止する。


「誰の事だ。」


「ふがふがふが。」


(貴方ですよ、師匠。)


 声にならない思考に藥忱の眉間が溝を作った。


「阿呆じゃないのか。私は男だぞ。」


「別に前からって訳じゃなくて丹田に仙力が溜まり始めてからなんか身体がおかしいんですよ。勿論男性だとは熟知していますよ?でも後ろ姿を見るとどうにも感情が。」


 弟子もここ数年の感情の昂りに戸惑っていた。師匠の事は尊敬していたがそれ以上の感情が沸き起こるなんて……


(止まっていた成長が急に発達したからその衝動か、面倒な。)


 藥忱は弟子から視線を逸らして考え込む。本来なら緩やかに仙力を体内に蓄積する為、感情の暴走は起こらないのだが弟子は荒療治により一気に丹田強化した為の反動だろう。藥忱も初めてのことであり予想だにしていなかった。


「師匠、やっぱり私はおかしいんでしょうか。」


「そうだな。」


 弟子が心配そうに師匠に問う。


「えー、どうしたらいいんですか。」


「早く天仙になる事だな。そうすれば力も感情も制御出来るようになるだろう。」


(そうか、天仙に…)


「頑張ります!」


「うむ。」


 一件落着し、再び書物を片付け出すと弟子がまた口を開いた。


「ところで師匠。」


「なんだ。」


「その書も師匠が書いたんですか?」


 春画など天界にあるとは思えないし、師匠が町で購入するとは思えない…という事は。弟子の興味は尽きない。


「……そんな訳なかろう。」


「なんですか今の間。本当は書いたんじゃないんですか?わあ、師匠もすみにおけませんね。恋愛はご法度なのにこんな、こんなっ。」


 茶化すように春画を指差す弟子を横目で睨むと師匠の長い腕が弟子に向かって伸びる。弟子の耳が餅のように伸ばされた。


「いててててて。」


「無駄口を叩いていないで書物を元通りに片付けよ。そして茶だ!」


 耳元で怒鳴った藥忱は持っていた書物の束を弟子に押し付ける。怒られたはずの弟子だが口元は綻んで嬉しそうだった。


「はいはい。やっぱり師匠はこうでなくっちゃ。」


「何を笑っている。」


「へへへ。」


 腕組みをして呆れたように鼻を鳴らす師匠に弟子は活気を取り戻し、書物を片付けにかかった。




ー終わりー

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