◇7
第二十章 麒麟の迎え (壹)
それから七十余年の歳月が経ち…
辺りは変わる事なく濃紺の屋根と白い清涼とした壁に大理石で出来た石畳に包まれている。
不死と謳われる仙人が棲まう居のせいかまるでそこは時間が止まっているかのようだ。
そんな
「おい、弟子。」
人影は"書房"と書かれた部屋の前に辿り着くと全開されている部屋の中を覗き込む。
「おーーい。」
「聞いてるのか!弟子。」
苛立った声が書房の中で背を向けて座る少年の背中を叩く。が、少年は何かに夢中になっているのかピクッと肩を振わせただけで見向きもしない。
書房の戸に背を預け、眉を寄せて見つめているのは少年の師匠、
「一体いつまでここに籠っている気だ。もうかれこれ五日になるぞ。」
「五日じゃまだここの書物の一割にも達しませんよ、師匠。」
声を掛けられた弟子は幾冊かの書物を自分の前に置き、巻物と書物を交互に見ては呟くように返事をする。仙人の書物は難しく解読書と交互に見なくては読む事すら出来ないのだ。
「何も一度に全部読まなくても良かろうが。」
「誰が茶を淹れるんだ、誰が!」
「ご自分でどうぞ。」
師匠の言い分にも素っ気ない態度で見向きもせず書物を読むのに没頭している弟子に藥忱は憤りを覚え、拳を振り上げそうになる。
「な、お前!」
「勝手にしろ。干からびても私は知らないからな。」
呆れ果てた師匠は不機嫌そうにわざと袖を勢いよく振ると来た道を戻っていった––––
久しく茶を自分で淹れていなかったせいか白湯並みに透明な茶の入った茶碗を上げると喉を潤す。
「はぁ、全くあいつは、図体も態度も益々でかくなってきている。」
腹立たしく眉間に皺を作り熱めのお湯を喉奥に流し込む。
「
ゴホッ
と、急に背後から澄んだ声が響き渡り、藥忱は思わず咳き込んでしまった。
「お、お前はっ」
閑かな内院を脅かす響きのした方へ視線を向けると眼を見開いた。
–––数時前の天界
金銀の装飾が眩しく白い大理石が曇りなく敷き詰められている広い大広間に数段高くなった座位がある。白い石で出来た大きな机には積み重なった書物や巻物で埋め尽くされ、中央だけが辛うじて開けている状態だった。
そこに眉間に深い溝を作り険悪な表情をした女性が段差の下に控えている者へ咎めるような眼差しを投げつけていた。
「一体いつになったら
「いい加減遅すぎるわ。迎えに行った者達はどうしたのよ‼」
ドンッと硬く冷たい机を叩くと控えめに俯く者の肩がビクッとする。彼は恐る恐る顔を上げた。
「
「説得⁉ 甘い彼らが説得なんてしないでしょう‼」
苦笑し弁解する彼に取って食うかの如く罵声を浴びせる女性。
「もうこうなったら、あの者を遣わすしかないわね。」
「あの者とは…、まさか!なりません、下界に遣わすなぞ。」
ため息をついて女性が深く頷くと控えめの男性が急に慌てたように否定した。顔には幾すじもの汗が垂れている。
「じゃあ、其方が連れて帰って来てくれるの?」
「それは…はは。」
「臆病者。」
「あの者を呼んでちょうだい。」
結局、男性は止める事もできず苦笑するだけで、渋々とその場を立ち去っていった。
屋敷–––
落ち着きを取り戻した藥忱は茶碗を口に運びつつ眼前の自分の五倍はあろう大物の話に耳を傾けていた。
金色の鱗と
話し声というより脳に直接響いてくるその声はとても澄んでいて心地よい。
「というわけで、私が遣わされました。」
「私如きを迎えにくるのに忙しいお前が遣わされるのか?」
神獣の中でも天界の四方を守る朱雀、白虎、玄武、青龍とその主、麒麟は自分の主人を持たず神の命により天界を守っている。その位は天帝にも匹敵する。
「もうかれこれ数千年ですので、姉上も堪忍袋の緒が切れそうです。」
四獣の主である麒麟にこんな野暮用を押しつけられるのは一人しかいない。藥忱は深く溜息をついた。
「私の面子もございますので、大人しく一緒にご帰還下さ…」
「わあああああ‼ なんだこれ!」
麒麟の言葉を遮るように背後から驚愕の大声が響き渡った。師匠が静かに眼を瞑る。
「馬鹿者が。」
麒麟は首だけ騒ぎ立てた者へと向けた。そこには口を大きく開けて立ち尽くす愚弟子がいる。大きい頭が目の前に突き出され、弟子は唾下し押し黙った。
「なんですか、これは。弟子ですか?やけに礼儀知らずですね。」
「すまぬ。私の躾が行き届いておらなんだ。多めに見て欲しい。」
藥忱はゆっくりと立ち上がると弟子の方へと静かに近づいていった。平静を装う姿とは裏腹にその拳は強く強く握られている。
「師匠?」
「書房に戻って右の棚一番上右から五十三番目の書物を読んで出直して来い!」
弟子の前まできた藥忱は鋭い眼差しと共に固くした拳を弟子の頭上へと振り下ろす。これまで数々の叱責を受けてきた弟子だがまともな
「痛ーっ、何なんですか、もぅ。」
ビリビリと広がる痛みに弟子は涙目でさすりながら師匠を見上げた。
「あ、お茶は?お茶が飲みたいんじゃないんですか?」
「後で良いわ!」
ビクビクと
藥忱がそっと胸を撫で下ろしていると麒麟の声が浸透してくる。麒麟にとっては弟子など空気のようなものであり、自分の役目だけを重視していた。
「では、参りましょうか。」
「……。」
藥忱は無言で大きな溜息をついた。
師匠の声に尻を叩かれた弟子は書房で書物を漁っていた。隙間なくみっちりと敷き詰められた書物は題名も見えず分かりづらい。
弟子は額に玉汗を作り、背伸びをしながら背の揃わない本の列を一冊一冊確かめる。
「ええっと、右の棚、右の棚の…上?」
「んー、どっちから五十三番目だっけ。」
「師匠!ねぇ、師匠ってばー!」
弟子は首だけ外へ向けると大声を張り上げる。いつも冷淡な師匠ではあるが呼べば面倒そうに来てくれるし質問にも答えてくれる。
だが、今回は呼べども師匠の気配は近づいて来なかった。
「あれ、師匠?どこ行ったんだろ。気配も無いや。」
「まあいっか、全部読めば。」
弟子は首を傾げつつ一人納得して上段の書に手をかけた–––
◇
打って変わってここは天界。
四半時前に麒麟を呼びつけた者–––藥忱の姉であり、天界の神仙、天仙を管理する役目を担う者、
「
「お元気そうで。」
広々とした謁見の間に跪く藥忱を見るや罵声を浴びせる女性。幾重にも重なった金の上衣は金糸の刺繍が全面に施され、濃淡の紅い下裳に、金の冠は他の者と違って大きく豪華な作りをしていて位の高さを強調しているよう。
藥忱は半ば諦めた様子で俯いていた。
「何が元気なものか‼ 私は天界の神仙達を取り纏める役割を担っているのだぞ!一人でも好き勝手されたら私に重責が問われるのだぞ‼」
「二千年もの間、どれほど苦労して誤魔化してきたと思っておる‼」
艶鏻は怒りのあまり青筋を立てて目尻を吊り上げる。日々上に立つ者として威厳を保つ為かアイラインを際立たせているため、瞳はくっきりとして瞳孔は丸く大きく、眼孔が突き刺さってくる。
艶鏻は藥忱から離れた段差の上の卓に腰掛けているのにその声は心を揺さぶる程激しい。
藥忱はいつもの事ながら目眩を覚えた。
「申し訳ありませんが…」
「大体、己の役割を分かってい……なんだ!」
「私は物静かな神仙達の中で育ってきたので、姉上の怒号を聞いていると骨身に染みると言いますか…。」
弱々しく
「くだらない演技をするでない!今日はとことん言い聞かせてやるから覚悟しなさい‼」
こうなっては何を言っても止まる事はない。姉上が満足するまで耐えるしかないのだ。藥忱は静かに吐息を零した。
艶鏻の説教が始まったのも束の間、広い謁見の間に音もなく白い清涼とした上衣下裳を身に纏った青年が忽然と姿を現すと、
「
(鳳河か、助かった…)
内心ホッとする藥忱を鳳河は優しく立たせると嬉しそうに微笑んで見せる。
「おかえり!
「うん。」
時間が止まったようにしばしば見つめ合う二人の間を甲高い罵声が割り込んだ。
「こら!
「姉上、良いじゃありませんか。こうして素直に帰って来てくれたのですから。またいつもみたいに倒れるまで説教するおつもりですか?
鳳河は慣れたように姉を宥める。
「何を勝手な事を!」
天界に居ても
藥忱が戻ってきた事が嬉しいのか鳳河は怒る姉にも笑顔を絶やさない。すると今度は小さな影が謁見の間へと飛び込んできた。
「
身体より小さめの透明な羽根を必死にバタつかせて近づいてくるその子は鳳河の使い魔の
草加は鳳河の隣までくるときちんと艶鏻に向き直りお辞儀をする。
「あ、
「うむ。」
挨拶が済むと今度は鳳河の反対側を覗き込み、目を見開いて叫び声のような歓喜の声を上げた。
「あ、本当に
草加がくるともう緊張した雰囲気は一気に吹き飛び和やかになる。艶鏻は諦めたようにため息をついた。
「はぁ、もう良い。下がれ。」
「失礼します。」
藥忱はゆっくりと一礼すると姉に背を向けて歩き出す。鳳河は未だ力のないおぼつかない足取りの藥忱の小脇を支えて心配そうに寄り添う。
「大丈夫?もうふらふらじゃない。」
「やはりあの金切声は好かん。」
「
出て行こうとする背中を艶鏻の声が呼び止める。
「
「はい?」
「
「はーい。」
艶鏻の忠告に鳳河は片手を振り、謁見の間を後にしたのだった。
ー終わりー
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※銀藍:くすんだ水色
※茶壷:急須
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