【番外編② 胡毒】
ピチョンッ
ピチョンピチョンッ
水滴の落ちる音だけが聞こえる、じとっと肌に纏わりつくような湿っ気の高い真っ暗闇の洞窟の中で、黒い影が腰掛けている。
影は時折頭を動かしたり、手を動かし何かをしているようだが目立った動きはしない。
生き物…とは到底思えないほどその影に正気は感じられず、活気もない。
ただじっと…じっと…影は腰掛けたままだった。
数時が過ぎるとやっと影が身じろぎをする。
「
影から発せられた水音よりも小さな声が静かに漂う。
すると影の後ろにあった山が石を削るような音を立てて
丸みの帯びた楕円形の頭の様なものが影に近づいていく。影は細く生っ白い手を伸ばすと優しく頭の様なものを撫でた。
途端、静寂の中に
黒い影が立ち上がるとそれは人型をしている。
真っ暗な洞窟にいるせいか緑琉璃色と獣皮色のいたって簡素な衣服から伸びる手足は生っ白く細長い。顔も白いが伸びた黒髪が目元を覆い隠している。癖のある後ろ髪は一つに
彼はこの暗い洞窟に住んでいる仙人であり、名を
彼が微笑みかける先には楕円形の黒い物体が半分に割れ真っ赤な二つにわかれた平紐の様なものを伸ばしている。
蘇蟒と呼ばれたその黒い塊は言うまでもなく大蛇である。ゆうに一里半はある黒々しい巨体を狭い洞窟の中で壁を削りつつ進んでいる。
胡毒は毎日欠かさず時間になるとこの洞窟の見回りをしていた。
友人である
ここに数千年住み着いている胡毒にとって蛇達は家族も同然だった。全ての蛇に名前をつけて慈しんでいる。それ故毎日顔を見ないと気が済まないのだ。それに…他に特にやる事もないしね。
暗闇を器用に進んでいく胡毒……と思ったら濡れた岩に足を取られ崖の下へ滑り落ちていく。
「うわあああああ。」
暗い谷底に落ちて行く寸前で蘇蟒が巨体に見合わない素早さで下に潜り込み胡毒を受け止めた。
「あはは、ありがとう
蘇蟒は大きい頭を胡毒に向けると小さく口を開いて牙を見せる。これは蘇蟒なりの
ここに数千年住んでいるにも関わらず胡毒は毎日毎日、同じ様に足を滑らせては谷に落ちたり、岩に身体をぶつけたり。蘇蟒でなくとも呆れてしまうほどの運痴だ。
蘇蟒は降りようとする胡毒をまた助けるのは面倒だっと言わんばかりにまた背中に押し戻した。
洞窟は狭い通路もあるが蘇蟒が悠々通れる大きい洞穴もいくつもある。蘇蟒は慣れた身体つきで洞穴を進んでいった。
◇
「やあ、今日も元気そうだね。」
慈しむように撫でる先には紅い胴体に黄色と黒のまだら模様の至って普通の大きさの蛇がいた。
嬉しそうに纏わりつく毒々しい色の蛇達一匹一匹に名前を呼んでは可愛がっている。
この蛇毒は特殊で傷がなくとも皮膚に浸透して身体を侵す。入った毒はすぐさま心の臓へと到達して筋肉を麻痺させるのだ。とはいえこの蛇は毒を飛ばす事はないので噛まれなければどうということはない。
胡毒は浸透する毒に顔を顰める。握りしめた拳から腕にかけて小刻みに震わせ激痛に耐える。しばらくして掌を開くとそこは元通りの生っ白い手だった。
胡毒は変わった仙人で毒を専門にしている。解毒だけだったら医仙、薬仙の出番だが胡毒は解毒だけでなく毒の生成…つまり毒薬も作れるのだ。一歩間違えば神仙であっても命を落としかねないような毒を平気で生成するため、
それ故、胡毒の理解者は藥忱天尊だけであった。
毎日こうして体内に毒蛇の血清を精製するため毒を取り込んでいる。
「ふう。」
じんわりと滲んだ汗を拭いて胡毒が息を吐く。後ろで見守っていた蘇蟒も同じように小さく唸った。いつも側で見守ってくれて助けてくれる蘇蟒は胡毒にとって肉親よりも大切な存在だった。彼は蘇蟒を優しく撫で上げると額を固い鱗に押し当てる。
一通り見回りの済んだ二人はねぐらへと戻ってきた。入り口は狭いが中は丸くて広い洞窟になっている。そこには特に寝床があるわけでも机や椅子があるわけでもない。冷たい岩は蘇蟒の体重で平になり中央に申し訳ない程度の苔山がある。
そこへ胡毒が腰掛けた。
蘇蟒は胡毒が座るのを待っていたのかゆっくりと動き出して彼の周りを身体で一周して落ち着く。
胡毒は横に落ち着いた蘇蟒の大きな頭にもたれ掛かりつつ撫でる。その表情は暗い。
「……
胡毒は深いため息をつく。
胡毒と蘇蟒は生まれた時から一緒に育った、いわば兄弟のようなもの。生まれた時に水神の子供だと言われてお守りとして側に置かれた。
昔は掴んで振り回したものだが百年も経てば自分の身体を超える大蛇になっていた。神獣として一緒に暮らしてもう一万と五千年が経っている。
天界で修行する神獣は早くて一千年で喋ることができる様になり、一万年で人型になれる。なのに…蘇蟒は人型どころか喋る事さえ出来ない……
「ボクのせいだ……。」
胸にズキンッと針が刺さったような痛みが走る。
蘇蟒にも痛みが伝わったのか低い声をあげる。
胡毒は生まれつき身体が弱く、どんなに頑張って修行しても中々神通力が身に付かなかった。最初は優しかった両親も次第に距離を置く様になり、同じぐらいの兄弟弟子からは蔑まれ、胡毒はいつの間にか蘇蟒と二人きりの日々が普通になっていった。
自分が普通の者達と同じように修行しても無意味だと気づいたのは一千歳の頃。胡毒は思い切って大好きな蛇を収集する事にした。
仙峡や幻郷、人間界、果ては妖界にまでこっそり足を運んではひたすら蛇収集に没頭した。寂しさを蛇で癒していたのかもしれない…
そんなある日、特に名前も知らない黄色い細長い蛇を人間界で捕まえた。胡毒は仙人である事を少なからず自負していたし、人間界の蛇という事で油断していて、その黄色い蛇が急に体液を出し手から滑り抜けると反撃を食らったのだった。
蛇に噛まれる事は少なくは無かったがこの蛇に噛まれた腕は電流が走るように激痛が広がり胡毒は声にならない悲鳴を上げて
「おい、大丈夫か。」
そんな折、誰かに声を掛けられて身体を起こすと彼がいたのだ。医術の心得があるのだろうか脈や熱、腕の傷も診てくれた。それから彼は黄色い蛇を持ち自分の目の前に突き出してきた。
「お前、この蛇の事知っているのか?いや…知っていたら噛まれないよな。この蛇は仙界から逃げ出した毒蛇だ。噛まれたら全身の血が沸き立って頓死するらしいが…お前は平気そうだな?」
言われてみれば胡毒の身体を巡っていた激痛は薄れつつある。彼も不思議そうに自分を看た。
「もう毒が消えかかっているな。この短時間で解毒出来るなんて凄いな!」
(凄い?ボクが?)
胡毒はこの時初めて人に褒められたのだ。感動に身体が打ち震えたのを今でも覚えている。彼に大した才能だと言われて涙したっけ。それから胡毒は毒を極めるようになったのだ。
その彼こそ藥忱。この時はまだ天仙で修行中に薬草を採りに来た彼と初めて出会った。
思い返すと昨日の事のように鮮明に思い出せる。彼と出会わなければ自分はどうなっていただろう。彼のおかげで今の自分がある。
胡毒は苦笑した。
毒専門の仙人にはなれたが神通力が増したわけではない。胡毒の仙力は天仙にも満たない。だから側にいる蘇蟒に満足に仙力を分け与えてあげられないんだ。天界にいない今となっては自然と仙力を貯める事もできない…
蘇蟒が胡毒の心痛を察してか長い舌で顔を舐めあげる。胡毒は優しく微笑んだ。
何年、何百年、何万年かかってもいい…蘇蟒とずっと一緒にいられるなら……
いつか…いつか人型にしてあげるからね。
ー終わりー
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