◇5
第十二章 仙人の鏡 (壹)
白い壁と濃い藍色の屋根で囲まれた清涼とした
今日はいつもの子煩い者に屋敷の最北端に位置する蔵の掃除を言い付けているためとても静かで良い。毎日、このように心穏やかに過ごせたら良いものを…。
だが、そんな願いとは裏腹に遠くから小走りでかけてくる音が近づいてきた。
きたきた、煩わしい奴が…と内心溜息を吐きつつ、仙人は寝たふりを決め込んだ。
小走りでかけてきた者の足が仙人の隣に止まる。
「師匠!」
「師匠~‼」
「師匠ってば‼」
「…騒々しい。」
弟子は必死に師匠を呼ぶ。
蔵で一体何があったのか、また貴重な物でも壊したのか、こいつはいつになったら大人しくなるのだろうか…藥忱は渋々眼を開けて不機嫌そうに弟子に振り向いた。
「何事だ。くだらない事だったらただではおか…」
「ばぁ!」
藥忱の眼が弟子を捉えると同時に眼前に青と赤の鬼の面が飛び出し、一瞬僅かに眼が開く。
その後直ぐに藥忱は深い深い落胆の溜息をついた。
「……。」
馬鹿だ馬鹿だと思っていたが…いやもう考えるのも面倒だ。
師匠は顔を逸らして冬緑の長い袖を揺らすと机に置いてあるお茶を啜った。
「びっくりしました⁉蔵の掃除をしていたら上から落っこちてきたんですよ。これ、何のお面ですか?」
弟子は面白そうにお面を見ては師匠に問いかけた。蔵は相当汚れていたようで服のあちこちに埃がついているが弟子が気にする様子はない。
「師匠~。無視しないでくださいよ~。」
「仙術の道具ですか?それとも祭事の?もしかして…天界の代物とか!」
珍しい物を見つけて心踊る弟子が忙しなく話しかける。
「師匠ってば~、何か言ってくださいよ。」
「くだらないの極みだ。」
「んもう!」
茶碗を置いて珍しく置いてある筆を手に取る師匠は毛先に墨をつけて書きかけだったであろう文字の途中で途切れている書に向き直る。
「お前…私が今何をしているか分からないのか?」
「何って…写経ですか?」
弟子が不思議そうに書を覗き込む。
師匠が何かを書く事は稀でそういえば師匠の字もあまり見たことがなかった。外見とは裏腹に達筆でいて細く流麗な字にしばしば見入ってしまう。
とはいえ、弟子がこれまで読んだ書は数える限りであり、殆どの難しい漢字は読めず意味も分からない。
「あいててててっ、痛いですって!」
怒りを露わにした師匠が弟子の耳を引っ張る。
「お前が駄目にした書物の復元だ、馬鹿者が!」
「ああ!」
弟子がポンッと拳で手を叩いて納得した。
先日、弟子が水を零して駄目にした書物は全部で十五冊。ご苦労様です。
(というか寝てましたよね?)
見ると書きかけの書物はまだ白い部分が大部分残っている。いつも茶を飲んで読むだけの便便たる生活をしてる師匠が書を書き始めたが飽きたんだなっと弟子は察した。
「師匠、復元出来るって事は内容全部把握してるんですか⁉」
「無論だ。これは私の書いた書物だからな。」
弟子を見ず筆を進めながら師匠が呟く。弟子は眼を丸くして驚いた。
「え!あの書房の書って全部師匠が書いたんですか⁉」
「そんなわけなかろうが、馬鹿者。」
「あははは、ですよね。」
「半分ほどだ。」
(半分って…)
師匠、実は昔はちゃんとした真面目な仙人だったんですね、と知られざる過去が少し見えて弟子は嬉しく思った。書房の上から下までぎっしりと詰められた書物の半分を師匠が書いたとなると相当の時を要しただろうから。今の随便的な性格では思いもよらない。
「へえ~、やっぱり凄いんですね、師匠って。」
「天界から書物は持ち出せないからな。今まで読んだ書物の内容を自ら書くしかなかろう。」
流れるように字を連ねる師匠の手を見つめながら弟子は疑問に思う。
「…じゃあ後の半分は?」
「師匠?」
師匠は自分に都合の悪い事や言いたくない事があるとすぐ押し黙る。
「…まさか盗んだんじゃ……」
「その減らず口を今すぐ塞いでやろうか?ん?」
(ひぃぃいい。)
師匠は眉根に皺を寄せて眼を見開き、持っている筆が弟子の口につくほど近づけて脅してくる。師匠なら簡単に実行出来てしまうので弟子は気が気でない。
「いえいえいえ、結構です。遠慮します!」
弟子は首と手を精一杯横に振って否定した。それからピンッと何かを閃く。
「じゃあ、師匠の書いた書物を読んで修行すればいいんじゃないですか⁉」
「書き終わったら読ませてくださいよ~、ね?ね?」
「お前は…ちっとも反省していないな!」
媚を売るような口調の弟子をゆっくりと睨みつけてまた師匠の見た目より力強い腕が伸びる。
「いたたたたっ、だから耳を引っ張らないでくださいよー。」
「お前ときたら、口ばかり達者で困りものだな。」
「修行させてくれたら、仙術も出来る口達者で有能な弟子になりますよ。」
「はっ。」
こいつの相手をしていたら一向に書物の復元が終わらない…そう思いつつもついつい弟子に手と口を出してしまう。こいつの口八丁手八丁には師匠でさえ抗えないのか。
藥忱は弟子に向き直ると諭すように話し出した。
「そもそも仙人とはもっと慎ましやかで
「つ、つまり?」
難しい言葉を並べられて苦笑する弟子が首を捻る。
「騒がず、真面目で、急かさない、急がない、だ。」
「へーー。」
意味を聞いた弟子だが納得するどころか眼を細めて師匠を見返す。
「なんだその目は。」
「師匠が言っても説得力にかけるな…て。」
「何っ!」
小癪な態度の弟子に師匠は拳を振り上げそうになるのを堪える。弟子は頭を抱えてさらに言い続けた。
「だっていつも怒るし、騙すし、お茶の催促するし!」
「ほう、そうか。わかった。」
急に冷静になった師匠は筆を置くとゆっくりと立ち上がる。
「ならば仙人のお手本とでも言える男に会わせてやろう。」
「え?」
「ついてこい。」
ゆっくりとだが確実に不機嫌な気を発して歩いていく背中を弟子は今度はなんだろうっとおずおずしながらついていった。
◇
「師匠~。いつになったら着くんですか。」
屋敷で師匠とのいつもの一悶着後、何故か外に連れ出された弟子はいつまでも歩かされもうクタクタだった。
「そもそも、なんで歩いていくんですか~。前みたいに一瞬でその場所までバビューンて飛んでくださいよ~。」
「それでは修行にならんだろう。修行がしたかったのではないのか?」
ふらふらとやる気なく弱音を吐く弟子に師匠は瞑想をしながら答える。修行と言われれば修行ではあるが……
「修行。確かにしたいですが…もっとこう仙術的なものを。」
「大体、師匠だけ宙に浮いててずるいです!」
師匠は屋敷を出てすぐ霧を集めて雲を作りそこにふわっと腰を落ち着けて以来ずっと弟子の前をふよふよと浮いて進んでいた。
最初はその光景がまさに仙人そのものであり弟子も感心していたが、疲れてくるにつれ不満が募っていったのだ。
「馬鹿者。なぜ私も一緒に修行せねばならん。修行するのは口ばかり達者で何も出来ない弟子だけで充分だ。」
(むうう。)
弟子は言い返せずに口を窄ませて押し黙る。自分が言ったことをまだ根に持っているのか。
屋敷を出て随分経つ。
師匠は無駄に口を開くことなく浮いていた。弟子はただただひたすらに後をついていくだけで時にはゴツゴツした岩山を、時には獣道を突き進んでいく。一向に終わりが見えず次第に鬱憤が募っていくのを止められない。
「師匠。もう屋敷を出て十日も経ちましたよ⁉もしかして遠回りしてませんか!まさかぐるっと回って屋敷に戻ったりしませんよね⁉」
「‥‥。」
「師匠!」
「師匠ってばー!」
ただ歩いているだけで飽きてきていた弟子が喚き散らすが師匠は微塵も相手をせず、進む速度も変えずに進んでいった。
その夜。
周囲が真っ暗になっても休む事なく進んでいく師匠に弟子は声も枯れ枯れ縋り付くように声をかけた。
「師匠。せめてあとどのくらいで着くかだけでも教えてくれませんか?」
「‥‥。」
師匠は変わらず正面だけ見て沈黙を貫いている。
「もう、師匠ってば!」
「ちぇ、師匠のドケチ。」
身体中の水分が抜けたのではないかと思うほど汗もかき、唾すら出てこない乾いた口から吐息を漏らすと急に視界に白いモクモクしたものがくっついた。師匠がやっと止まったのだ。
「…見えたぞ。」
(……‼)
師匠の言葉に顔を上げると遠くの山の麓に建物が見えた。弟子は疲れも忘れて嬉しそうに叫んでいた。
「やっと、やっと着いたー。」
「まだ着いてはおらん。一度畝を下りてからまたあそこまで登る。」
喜んだのも束の間、師匠の言葉にげっそりする。
「うげーー。」
「つべこべ言わずに歩け。」
ゆっくりとまた師匠の雲が進んでいく。終わりの見えた道はいままでと違って軽快に思えた弟子はまたいつも通り調子づいてくる。
「仙人ってなんでこんな山奥の山奥に住んでるんですか。もうかれこれ二十日は歩いてるのに、村どころか集落も、人間さえも見かけませんでしたよ?」
「本来、仙人は人里近くに住んだりはしない。」
師匠もやっと返答してくれる。一緒に移動していても沈黙されているとかえって淋しいものなのだ。
「人間がたどり着けないほど山奥に、しかも結界を張っているから仙人の許可なく人間が入山することはできない。」
「なんで師匠は人里近くに住んでるんですか?」
「師匠?」
いつもの言いたくない事柄なのか師匠はそれっきり口をつぐんだ。森の中を降り上がりしていると次第に遠かった屋敷が近づいてくる。
そして、
「着いたぞ。結界だ。」
「ほぁ~。」
森から出た先には木で出来た大きい門がありその前に青白くよく読めないが文字が幾つも書かれた結界が施されていた。
弟子は初めて見る師匠の屋敷以外の仙人の建物に関心の意を表している。
「よし、弟子。入ってみろ。」
いつの間にか雲から降りた師匠が結界を指差す。
「え、入れるんですか?勝手に⁇ さっき許可なく入れないって言いませんでしたか?」
驚いた弟子が聞き返す。
「人間ならばな。お前は一応私の弟子だろう。」
「はあ、なるほど。」
ごくりっと唾を飲み込んで弟子が結界を通ってみる。半分身体が通り弟子が喜んで振り向いた瞬間、弟子は師匠を超えて吹き飛ばされた。
「師匠!入れました。やっ…うわーーーーっ」
口角を上げて声にならない声で笑う師匠に弟子は怒鳴った。
「し、師匠!また騙しましたね‼」
「酷い!この悪徳仙人‼」
「ふん、人聞きの悪い。」
しれっとして師匠が門に向き直る。そして顎に手を置きボソッと呟いた。
「少しは効果があると思ったんだがな…」
「え?なんて?」
弟子の声をよそに師匠は門の結界をいとも容易く解くと門をくぐり抜けて屋敷の扉へと進む。
「ほら、行くぞ。」
遅れて弟子が駆けてくる中、師匠は丸い銅輪を鳴らした。
ゴンゴンッと鈍い音が響き渡る。
◇
しばらくして大きい扉がゆっくりと音を立てて開けられた。
「おやおや、珍しいお客様ですね。」
扉を開けた主は白い長衣を纏っていて裾や袖も地面を擦るほど長い。それなのにまったく汚れておらず弟子はその容貌だけでも不思議に思った。髪の色素は抜けてきており灰色と白が入り混じっているが顔貌は師匠よりも若く二十五〜六といったところだろうか。仙人を象ったような白い顔に細長い眉、通った鼻に薄い唇と言うまでもなく秀麗である。
仙人ってのはどうしてこう見目麗しい者ばかりなのだろうか。巻物では大抵白髭の爺さんなのに…と弟子は頭を捻る。
「邪魔するぞ。」
師匠は慣れたように門を入っていく。この仙人も師匠の知り合いなのだろうか。弟子も締め出されないよう後についていった。
「今日はどういったご用件でしょうか。」
「重要な用件というわけではないのだが。」
丁寧に礼をする仙人に対し、師匠はなんだかいつもと違って違和感を覚える。
「弟子。こちらは
「初めまして。」
「初めまして、よくいらっしゃいましたね。」
ニッコリと優雅に節目がちに微笑むのをみて弟子はしばしば見惚れてしまう。仙人でもこうも違うものなのか…と。
そんな惚けた弟子に師匠が冷ややかな視線を送る。
「な、なんですかその目はっ」
「お前の考えていることは読まずともわかる。」
焦る弟子に呆れつつ話を進める師匠。
「
「たった百年で⁉ 凄いんですね!」
仙人には階級があり、人間から修行すると地仙になり、もっと修行すると小仙となる。小仙になると仙界で修行出来る様になり、それからもっと修行し天仙となれる。そうすると天界へ行けるというわけだ。天仙として天界へ行っても修行次第で上仙、神仙、天尊など偉くなれるがまず人間からなれた者は少ない。上仙、神仙クラスの仙人の子供はすでに小仙として生まれ陽の気の満ちた天界で修行するため上達が早い。故に人間からの仙人とは格が違うのだ。
普通、人間から地仙になるのにゆうに三百年はかかると言われている。
「いえいえ。」
「私なぞ、皆々様の足元にも及びませぬ。」
部をわきまえている静杏仙人が深々とお辞儀をする。
「良いか、よく見ろ。これが
師匠が弟子を諭すと弟子は元気よく答えた。
「はい、よくわかります、師匠とはまったく違いますね!」
ゴチンッ
「あいてっ」
本当にこいつは口の減らない…、師匠は怒って弟子の頭上に拳を落とした。
「そうだ、
「え‼」
「お弟子さんをですか?」
閃いたように師匠が静杏仙人に願い出る。静杏仙人のところにいれば少しは…ほんの少しでもこのお調子者が治れば、と。
「なんならそなたにくれてやっても…」
「師匠!」
師匠のすげない態度に焦るも、口煩くなさそうで優しそうな静杏仙人を見て弟子は態度を変える。
「…まあ、師匠より優しそうだし、私もその方がいいのかも…」
「なんか言ったか?」
「いいえー、なんにもー。」
弟子はそっぽを向いて口を尖らせた。
「私は一向に構いませんよ。」
「大切なお弟子さんをしっかりとお預かりいたします。」
静杏仙人は静かに優しく承諾してくれた。
「弟子、今日から
「え!修行‼ はい!よろしくお願いします!
「どうぞよろしくお願いします。」
こうして静杏仙人のところで修行する事になった弟子を置いて師匠は屋敷を後にする。
門を抜けたところで背後から弟子の声が追いかけてきた。
「お達者で、師匠。お迎えは遅くていいですからね~。」
「ふん、調子のいい事だな。」
不服そうに呟く師匠だがその口元は僅かに上がっていた。
ー続くー
*********
※冬緑:くすんだ緑
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