第八章 過去の出逢い (叁)

 昼間でも太陽の光の差し込みが少ない森は、朝露がまだ所々残っていて湿り、とても青々としている。


 夜の森とは違って生命に満ち溢れている木々や小川が煌めいて、決して多くない小鳥の囀りが響き渡っていた。そんな中を長身の影がゆっくりと移動していく。


「ま、待って。」


 静かな森に子供の必死な声が響いた。


「…まだ何か用か。」


 男が静かに振り向くと、後ろには息を切らして苦しそうに呼吸をする子供の姿があった。

 子供はしばらくして息を整えるとまっすぐと男を見つめる。


「あの…」


「師匠!ボク、あんたの弟子になるよ!」


 突然の言葉に今まで何事にも動じなかった男の唇が僅かに開いた。


「何故だ?村へ戻れただろう。」


 ほんの僅かに動揺の色を見せた彼だが、すぐにそれはいままでの平然とした無表情へと変わる。


「そうだけど…」


「うちは貧しい村なんだ。だから貯蔵庫の食料が戻ってきたとしても、皆自分が生き残るので精一杯なんだよ。」


「そ、それに、母さんが小さい頃に病気で亡くなって、父さんと二人で生活してきたのに、最近父さんは若い女に首ったけで、…ボクの事が邪魔みたいなんだ。」


「だ、だから!」


 子供は必死に男の良心に訴えかけようとしたが、じっと見つめ返してくる仙人は瞬き一つせず、感情が掴めず、まるで自然と話しているかのような錯覚さえ覚える。


 しばし静かな時が流れ、ようやく男の口が僅かに開いた。


「私は二択を言ったはずだが?」


 低い静かな声が耳に入ってくる。


 ここで引き下がったら自分は元の道を戻るしかない、また苦しい日々を永遠と過ごさないといけない…そう思った子供は必死に頭を回転させた。


「っ、…でもボクはまだ選んでなかったよ…ね?」


 ふと、自分ははっきりと村へ戻りたいとは言っていない事が脳裏に浮かびあがった。


「っ、…勝手にしろ。」


 子供の予期せぬ返しに男は初めてまともに表情を変え、呆れたように小さく溜息をつくとようやく承諾してくれた。その言葉に子供は嬉しさがこみ上げて思わず行動に出てしまう。


「やったー!ありがとうございます!」


「! 勝手に抱き着くな!」


 今までこんなに嬉しいと思った事があっただろうか、人間嬉しいと人に抱き着くんだと自分で自分を不思議に思ったが衝動は止められない。細い腰に飛びついてきた子供に仙人は驚愕して大声を張り上げた。


 そして、袖を大きく振るって子供を振るい落とすと身をひるがえして深い森へと進んでいった。


「あ、師匠ー、待ってーー!」


 草の中に転がった子供は晴れやかな笑顔で立ち上がり、置いていかれないように仙人の後を駆けていった。




    ◇




 –––––百二十余年後。


 村は昔と違って大きくなり、人の往来も活気に満ちていた。


 所々、露店まで出ていて、昔村で見かけた子供の玩具や、村で見かけた事のない食料など様々な物が出品されている。


 家々も瓦屋根が増えて、まるで昔の隣村のよう。  だが、漂う古臭い土の香りは昔の村のままで、丘の上には未だに一本の松と大きな岩があった。


「はぁ、懐かしい香りです。」


 弟子は匂いを愉しむかのように深呼吸し嬉しそうに微笑む。

 村から離れてしまった身、もう戻れないと覚悟していた手前、たとえ知る人がいなくとも故郷に帰れて嬉しくない訳がない。

 何よりあの寂れた村が大きく発展していたとは驚きを通り越して不思議でしかなかった。


「それにしてもこの村、よく無事でしたね?私が住んでいた頃、もうこの村はおしまいだと思っていましたよ。たとえ貯蔵庫の食料が戻ったとしても村一年分にはほど遠いですもん。あのまま干ばつが続いてたら…」


 様変わりした村を興味津々で左右に頭をキョロキョロさせながら歩く弟子が弾む声で問いかける。


「師匠。師匠なら何か知ってるんじゃないんですか?私は弟子になってから村の事は全然知る由もありませんでしたが。」


「知らんな。なぜ私が人間ごときの事を知っていなくてはいかん。」


「はぁ、恋する仙人らしい~。」


 素っ気ない言葉が前方から飛んでくると弟子は敢えて揶揄した言葉を使い、嫌味を込めて落胆した態度を示した。


「何だと。」


 すると弟子の態度に師匠は歩を止めて振り返る。  上から鋭い視線が突き刺さり、弟子の眼は逃げ惑う魚のように泳ぎ、一つのお店に視線が止まった。


「あ、見てください、師匠。ひまわりの種ですよ。」


「? 何だって?」


 弟子の突拍子のない言葉に釣られ、指の刺す方を振り向く藥忱。

 矛先が自分から変わったのを良い事に弟子はお店へと駆け寄った。


「ひまわりの種。美味しいんですよ。買っていきましょうよ。」


 弟子はというと昔の夏頃、食べ物がほとんど無い中、子供たちの間で取り合いになるほどの嗜好物であったひまわりの種を見つけて心が弾んだ。


「好きにしろ。私は食べないからな。そんな鼠の食べ物。」


 師匠はというと軽蔑するような眼差しを弟子に向けて顔を背ける。

 何でも知っている師匠だが、ひまわりの種を食べた事は無いのだろうか。人間の世界ではひまわりの種は大切な食料であり、鼠なんかにあげたりしないのだが。


「はいはい。じゃあ…お金。」


「私にたかるのか!」


 笑顔で手を出す弟子に師匠が太い眉を寄せて怒鳴る。


「だって私、お金持ってませんもん。」


 しれっとした顔で見上げる弟子の小狡さに師匠は軽く眩暈を覚えた。一体、どうやって育ってきたのやら。弟子にしてから最低限の礼儀作法や丁寧語は教えたが、性格までは治らないどころか益々口達者になっていくような気がする。


 弟子は師匠から銭を貰うとひまわりの種一袋を購入して意気揚々と歩いていった。


 ふと、往来する女を見て、先日の彼女を思い出す。


(そういえば彼女は…)


 師匠の兄上の鳳河が見せてくれた映像によると、彼女は元気に生きていた。この村の人なのだろうか、もしそうなら見つけて話を聞きたい。師匠は絶対話してはくれなそうだから。そう思い再びあちこち見回していると女の姿はないが、代わりに遥昔、どこかで見た事のあるような一つの白い扇子が眼に入った。


「あれ、あの扇子どこかで…」


 立ち止まる弟子は振り返りゆっくりと歩いてくる師匠を見上げる。


「ねえ、師匠。あの扇子、見覚えありませんか?」


「なんだ、ただの道士のくせに、扇子なんか欲しいのか。」


 追いついた師匠は嫌味ぽく口角を上げて笑う。


「違いますよ!ほらあれ、師匠前あんなの持ってませんでしたか?」


「…知らんな。」


(えー?)


 弟子が指さす先には翡翠色の龍の描かれた白い扇子を持った身なりの良い白い髭の生やした老人が露店の人と和気藹々に話している姿があった。


 あまりに昔の事過ぎて、弟子も記憶が曖昧だが、師匠に初めて会った時、師匠は玉緑色の長衣を纏い、翡翠色の龍の描かれた白い扇子を持って、今とは程遠い優雅な雰囲気を漂わせて、自分を見降ろしていた–––あの時の事だけは鮮明に覚えていて、扇子の柄さえも覚えている。


 仙人が所持していた扇子が二つとあるとは思えないし、まして人の世界にあるとは思えない。

 それに、考えてみると、自分が弟子として師匠についてからあの扇子を一度も見た事がない。


 露店から明るい話し声が聞こえてきた。


「村長、今日もご機嫌ですなあ。その家宝の扇子、いつもお持ちですがもしやかなりの値打ちものですかな?」


「ハッハッハ、この扇子は値打ちものどころではない。昔、爺様が誰かから譲り受けてな、その途端、干ばつが無くなり土地が豊かになったんだとさ。きっと神様からの授かり物だぞい。」


 白い髭を生やした老人は自慢げに扇子を見せびらかしている。


(師匠はあの扇子を…村長にあげてた? それなら色々と辻褄が…)


 仙人の持つ扇子や笛など、それは人間の世界の物とは異なり仙器と呼ばれ、仙力が込められており様々な効果がある。一振りで暴風を吹かせたり、持つだけで幸運を呼び寄せたり…。

 弟子が考え込んで白い扇子から目を離さないのを見かねて師匠が呆れたように口を開いた。


「これ以上あれこれ買わされる前に戻るぞ。」


「あ…、あれ、もう(仙力が)戻ったんですか?」


 弟子はまだ問いただしたい思いがあったが、頑固な師匠が素直に喋るとは思えないのでこの事は後々、師匠の兄上にでも聞こうと胸の中にそっと仕舞いこんだ。


「戻ってなくとも戻る。やはり村は好かん。」


「さっさと帰って茶を飲むぞ。」


 師匠は袖を振り、身を翻して元来た道を戻っていく。


「あ、師匠ー。待ってくださいよー。」


 足早に立ち去る師匠を弟子はひまわりの種の袋をしっかりと抱えて追いかけていった。

 故郷が活気に満ち溢れていたのを嬉しく思いながら。




ー終わりー

**************

※叁:数字の『三』

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