第十八章 管鮑の交わり (壹)
清涼とした白い壁に囲まれた
そこへ先程、慌てた様子で弟子の場所から姿を消した
「やっと来たね。」
気配を感じさせない藥忱に気づいた彼がゆっくりと振り向く。藥忱より大分華奢な彼は口元に笑みを浮かべていた。銀糸で飾られた蓮の刺繍が奥ゆかしい。
「待たせたな。」
藥忱はゆっくりと歩み寄る。背が頭一つ分小さい彼を見下ろす形となった。
今まで静かに立ち尽くしていた彼だが、不意に藥忱の腰に腕を回して抱きついてくる。
「待ったよー、待ちくたびれたよー。」
「お忍びで来てるのに、バレたら私まで
和やかな雰囲気とは一変、打って変わったように明るく軽い口調で口を尖らせ半ば拗ねているように彼が文句を言う。
「じゃあ、何故来た。」
「あー、そういう事言うー?」
藥忱のすげない態度に彼は頭上の藥忱を見上げて眉間に皺を寄せる。
藥忱は抱きつかれても動じる事なく彼の背中に手を回していた。
「君が上から居なくなって八千五百八十二年と
「細かいな。」
藥忱の口角が僅かに上がる。
「…私にさえ、何も言わずに消えるんだもの。」
「すまない。」
顔を藥忱の胸に埋め彼がぼやく。藥忱は宥めるように彼の背中を優しく撫でた。
「
「
神楽と呼ばれた彼は喜怒哀楽が激しいようだ。ころころとその顔色を変えている。
「今日は溜まりに溜まった数千年分の愚痴を聞いて貰うからね!」
「すぐに帰らなくて良いのか?罰を受けるぞ?」
「いい!」
怒ったように神楽が部屋の方へと振り向き歩き出す。置いて行かれた藥忱がすぐに後を追った。
「どこへ行く。」
「卧榻(寝台)!」
何故、まだ日も高いのに寝台なのか…そんな疑問も覚えず藥忱は小さく溜息をつく。
すぐに追いついた藥忱が隣に並ぶと神楽が嬉しそうに見上げた。
「こうやって二人で歩いてると昔みたいだね。」
「そうだな。」
「君と出逢ったのは…いつの頃だったかなぁ。」
「さあな。」
何だかんだ嬉しそうに横を歩く神楽に藥忱は優しい視線を送った。
◇
一万年前。
「美味いか?」
彼の差し出す手にはひまわりの種。こんな場所に何故ひまわりの種?と思える程辺りは神々しく輝き、彼の行為がとても滑稽に見える。
それをもっしゃもっしゃと頬張る一匹の鼠。
一尺はある大きな鼠は身体が丸々としていて毛艶も良い。天界に鼠?と思ったがこうして見ると納得がいく。
不意にくすくすという笑い声が藥忱の背後から沸いた。気配もさせずに近づけるとは…、藥忱はゆっくりと振り向く。そこには純白の上衣下裳に身を包んだ華奢な男とは思えぬ程の秀麗な美男子がいた。
鼠は食べるのを止めると急いで笑い声の主の後ろへと回り込み、人型へと変貌する。やはり仙人であったか。
「笑ってごめんなさい。
「
鼠の名前を聞き押し黙る青年。
「あの仙人、私を本当の鼠だと思ってひまわりの種をくれたんですよ。馬っ鹿みたい。」
人型になった獐鼠は主人と思われる可憐な仙人の腕に縋り付くように腕を回し言い放つ。それを聞いた彼は持っていた金の扇子で獐鼠の頭を軽く小突いた。
「これこれ。優しくして貰ったのに、そんな事言うもんじゃないよ。」
「たまたま持っていただけだ。」
「なんでたまたまひまわりの種なんか持ってるのさ!」
「仙薬の材料に使うためだ。」
獐鼠のぶっきらぼうな問いに青年は冷静に口を開く。仙薬と聞いて華奢な彼が考えるように指を顎に押し当てた。
「仙薬?ひまわりの種を?」
「悪いか。」
「いえいえ。」
彼は静かに微笑み俯くとゆっくりと腕で弧を描いて両手を重ねお辞儀をする。
「申し遅れました、私くし、
「どうも。」
先程、獐鼠にひまわりの種をあげていた時とは打って変わって無関心な表情の彼が面倒そうに唇を開く。
「私は
「!
青年の名前を聞いて改めて
「堅苦しい挨拶はよい。」
藥忱は半ば不機嫌そうに言って顔を背けると顔だけ上げた神楽が口元に笑みを浮かべた。
(噂どおりの人ですね。)
「では。」
「あ、ちょっと待って。良ければ私の院が近いのでお茶でも……」
藥忱が踵を返して立ち去ろうとすると神楽の声が引き留める。
「結構だ。」
だが、藥忱にその気は毛頭ない。早くこの場を立ち去りたい一心だった。冷たくあしらうと足早に去ろうとする。
神楽は獐鼠に目配せをした。
「行け、
「なっ、離せ!」
頷いたが早いか獐鼠は鼠の姿に戻り、藥忱の下裳に飛びつく。重みで下裳が伸びるのを見て藥忱は眉間に深い溝を作った。
「あー、
「というわけで、お茶でも飲んでいってください。」
急に礼儀正しい態度から軽い馴れ馴れしい口調へと変わり、神楽は小首を傾げにっこりと微笑んだ。
藥忱が深く深く溜息をついた。
◇
(私は裏表のある人間が大嫌いだ。自分が神仙だと、神に近しい存在だと、気位ばかり高く、表面ばかり装い、内面は情の欠片もない。もううんざりだ。)
(神仙はそんな奴らばかりだと思っていたが…こいつらは一体何だ?)
藥忱は神楽の院に半ば強引に引きずられるように連れてこられた。
神楽の院は本人を表すかのように白を基調とし金の縁が適度に施され、優美さを醸し出している。
ただ一つ、おかしな事といえば召使いが一人もいない事だ。この鼠…が全てこなしているのだろうか。
「お茶、美味しい?」
藥忱の前に腰掛け両肘をついて顔を支えつつ見つめてくる神楽が切長の眼を細めて聞く。
藥忱には他人の思想を読み取る能力がある。とは言っても制御出来る訳ではなく近くに人がいると自然と脳裏に流れ込んでくるのだ。大抵自分に近づいてくる者は取り入りたい者や蔑む者、利用しようとする者ばかりだが……此奴らの頭の中は遊戯しかないのか?
藥忱は眼を瞑って茶を嗜むようにゆっくりと啜った。調子のいい身勝手な者も私は苦手だ。
「……。」
(美味しい、美味しい、お茶美味しい。お菓子美味しい。この人綺麗。)
ゴホッ
途端、口元を綻ばせつつ無言な目の前の彼の思考が流れ込んでくる。その内容は常軌を逸していて藥忱はたまらず茶を吹き出してしまった。
「大丈夫ですか?」
神楽は袖から手巾を取り出して手渡す。藥忱はそれで口元を拭いつつ神楽に不審な眼差しを送った。
(変な奴。私が綺麗だと?)
(綺麗、綺麗、美しい! 美人とお友達になりたいなぁ。)
またも正気の沙汰とは思えない思考が滑り込み藥忱は眉間に皺を寄せて眼を見開いた。
熱でもあるのか?と手を出しそうになってしまう。
そんな藥忱の態度に確信を得たのか神楽が意味深に微笑んだ。
「ふふ、あの噂は本当なんですね。」
「何のことだ。」
「天帝の甥の
「……。」
(それでわざとか。)
理由が分かりかえって冷静になった藥忱は不機嫌そうにすくッと立ち上がる。
「帰る。」
藥忱が身体を捻ろうとするが早いか神楽の声が歩を遮った。
「わざとじゃないですよ。」
「私は自分の思考を弄れるほど頭良くありませんし、想ってる事はすぐ口に出しちゃうタイプなんです。」
チラリと神楽に細い視線を向けると身を乗り出した彼が真剣な面持ちでいう。
「だから貴方は本当に美じ……」
不意に次の言葉を理解した藥忱は眉をピクリと動かし素早く神楽の口元を上衣の袖で覆った。
口を塞がれた神楽は大きな眼だけを藥忱に向けモゴモゴと唇を動かす。
「ふがふが。」
「何を言っているか分からん。」
不愉快そうに顔を背けるが神楽の思考は遠慮なく藥忱の脳裏へと入ってくる。
(袖じゃなくて素手で口を塞いで欲しかったです。)
「は、馬鹿じゃないのか。」
本当にこの外見が女のように華奢で厚かましい此奴は中身も女々しいのかっ
藥忱は不快度が頂点に達し、塞いでいた袖を大きく払うと身を翻して出て行こうとする。それにいち早く気づいてまた行手を阻む鼠…もとい獐鼠が足にしがみついた。
「離せ、鼠。」
藥忱が鋭い視線を落とすが獐鼠は怯まない。神楽は扇子で掌を叩きながら、ゆっくりと藥忱の隣まできて苦笑した。
「鼠って呼んじゃ可哀想でしょう。ちゃんと名前があるのですから。
「誰がそんな恥ずかしい名を呼べるか!」
「えーじゃあ、違う呼び方でもいいですよ~鼠以外で。」
怒る藥忱に神楽は口を尖らせてみせた。
「…
「お偉い神仙は態度までデカイな、ふん。」
藥忱の冷たい態度に脚にぶら下がる獐鼠が悪態をつく。
「
「他人にどう捉えられようと問題ない。」
神楽は獐鼠も藥忱も嗜めるが隣の頭一つ分大きい彼は俄然として冷淡な態度だ。だが、神楽も引き下がらない。
「問題ありますーー。じゃあ、私は貴方を"
「貴様っ…」
「お嫌なら
途端、真面目な口調で諭され、藥忱は深く息を吐くと獐鼠を見つめ僅かに思考し口を開く。
「‥‥
落ち着いた口調と呼び名にやっと満足したのか獐鼠がぴょんっと跳ねて机の上に移った。
藥忱はやっと解放されたのに表情は狼狽している。普段から一人が多い藥忱にとってはもう数年分は交流したのではないかと思えるほどの心労だ。
藥忱は二人に背を向けると音もなく消えていった。
神楽は口元に笑みを浮かべて呟く。
「また一緒にお茶しましょうね、
ー続くー
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※管鮑の交わり:深い友情
※月季紅:赤
※牡丹紅:明るい赤
※中国の“1尺”は約33センチメートル。
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