第十九章 管鮑の交わり (贰)


 藥忱の屋敷は門を二つ抜けると大きな内院にわがあり、内院から北側の大きい建物に広い部屋と大きな卓が置いてある。使用した事は殆どといって良い程無いが、食事や接客をする場所だろう。そこから西の部屋がこれまた余り使った事は無い名ばかりの書斎であり、逆の東の部屋が藥忱の寝所だった。


「あぁっ、そこっ!」


「気持ちいいっ、もっと……」


 さほど広くも無い普段、閑散とした寝所は今日に限って艶めかしい声色が響く。


「変な声を出すな。」


 獐鼠によって破かれた長衣を新しい蓮灰色の長衣に着替えた藥忱が寝台でうつ伏せになっている神楽の背中を白く長い指で衣に隠れるほど強く押している。

 神楽は蕩けるように枕に突っ伏しては顔を綻ばせていた。


「だって、藥忱やくじんの指圧が一番気持ちいいんだもの。」


「数千年分の凝りだよ。もうガッチゴチ。」


 頭を振って肩の凝りを訴える素振りを見せる神楽。藥忱の指はまるで琴を弾くかのように滑らかに背中を滑る。


「知るか。獐獐しょうしょうにやってもらえば良いだろう。」


「あの子、下手くそなんだもの。爪が刺さるんだよーう。」


「んー、やっぱり藥忱やくじんの指が一番気持ちいいなぁ。」


「それは良かったな。」


 藥忱の指圧が終わり指が離れると神楽は伸びをしてから身体を捻り、横向きの姿勢になった。


「それにしてもさ、何で私に何の、何の相談もなく居なくなっちゃうわけ?」


「私はとーーても傷ついたんだよ。」


「……。」


 藥忱は寝台の脇に置いてある小机の上の茶碗を手に取ると空の器を見つめて押し黙る。

 藥忱の性格をよく知る神楽は気にせず口調を強めていった。


「どうせ藥忱やくじんの事だから、いらぬ心配をかけたくないとか、干渉されたくないとか、そんなだろうけど。」


「何も私が遠征中に居なくなる事ないでしょ。帰ってきて後から聞かされる身にもなってよね!何日間寝込んだと思ってるの‼」


「軟弱な。」


 藥忱は茶碗の縁を指でなぞり小さく息を吐くがその口元は綻んでいた。神楽の癇癪は姉に比べたら可愛いものだ。


「君が好きなのー!知ってるでしょ‼」


「はいはい。」


「またそうやって適当に…ってあれ。」


「その茶器割れてない?」


 捲し立てるように叫んでいた神楽だがふと藥忱が大事そうに持っている茶碗に目がいく。


 それは見まごう事なく自分が初めて藥忱に贈った品物だった。神楽に不穏な気配が漂う。


「……私の不注意で落としてしまってな。だが大切な代物ゆえ未だに使っている。」


「ふうーーーん。」


「…このヒビも見ようによっては模様のようで風流で良いだろう?」


 よく見ると茶碗には薄いひび割れがいくつもついていた。藥忱ほどの者なら新品同様に修復出来るだろうに……


藥忱やくじん…」


「何だ。」


 暗く沈んだ声色に藥忱はゆっくりと視線を茶碗から神楽へと移す。


 怪訝そうな面持ちが一変パッと綻んだ顔で腕にしがみついてくる。


「割れても使ってくれるなんてえーー!」


「お前の事は大事な友だと思っている。友からの贈り物を無碍むげには出来まい。」


 すりすりと猫のように顔を擦り付けてくる神楽を嫌がりもせず背中を軽く弾く。

 神楽は大きい瞳を揺らして物言いたそうに見つめてきた。


「なんだ、その顔は。」


「う、ううう、嬉しくてっ、だって今の今までそんな事一度も言ってくれなかったじゃない。どうしたの?下界に来て性格丸くなった?」


「やはり友をやめるか。」


 下から物珍しい物でも見るかのように見上げてくる神楽に藥忱は眼を細める。


「嘘嘘。友です!知己です‼」


 と、腕にしがみついていた神楽が慌てて手を振り否定する。

 全く数千年経っても昔と変わらずお調子者だ。


 神楽は身体を起こして座り直すと藥忱に向かって笑みを浮かべる。


「ねえじゃあ、知己の印に口づけさせて?」


「何故そうなる。酔ってるのか?駄目に決まってるだろう。」


 茶碗を置いた藥忱が露骨に険しい顔で牽制する。


「いいじゃない。ん-ー。」


「悪ふざけもほどほどにしろ。」


 唇を尖らせて近づいてくる神楽の額を指で押し戻す。華奢な外見とは裏腹に意外と力が強い。いつもいつもすんでのところを遮られていて神楽は苛立ちを覚えた。


「もぅ、あ!もしかして…あの弟子君が恋人だったり!」


「そんな訳あるか。」


「怪しい。だって藥忱やくじん今の今まで弟子の一人も取らなかったじゃない。」


 諦めた神楽の額からやっと手を下ろせた藥忱が袖を整えて素っ気なく言う。神楽の眉間が怪訝そうに歪む。


「まともな弟子が居なかっただけだ。」


「あの子はまともなの?へぇ~。」


「じゃあ、見定めてあげるよ。」


 口角を上げた神楽が自身ありげにサッと立ち上がると袖を振って寝所を出ていった。


「おい、待て。」


 藥忱は居なくなった神楽を見て呆れたように首を横に振り、ゆっくりと後を追っていった。




    ◇




 一方。修行中の弟子と獐鼠。


 ゴツゴツした岩山をものともせず軽い足取りでまるで遊んでいるかのように跳ねる獐鼠。手に持つ細剣で肩を叩きながら近くの岩にしがみつくように荒く息をしている塊に笑いかけた。


「ほらほら、足がおろそかになってるよ。」


「あいでっ」


 笑顔とは裏腹に彼は容赦なくその塊の足目掛けて剣を振るう。不思議な事に当たった剣は斬れる事なく赤い筋をつくる。そこはみるみるうちにミミズ腫れへと変化した。


「はい、休まない。休んだら死ぬよ。」


「ひーーーっ」


 容赦ない修行…もとい攻撃に弟子は汗だくになりながらなんとか獐鼠の動きを追おうと頑張るが眼で捉えられても身体がついていかない。もう身体中傷だらけだ。


「あのっ、ちょっと、待って!」


「なーにー。」


 弟子はたまらず両手を突き出してストップをかける。


「私はまだ剣術の基礎も学んでないんです!いきなり実践なんて無理ですって!」


「え?そうなの。でも足腰はちゃんと鍛えられてそうだけどなぁ。」


 獐鼠は思っていたよりもよく避けられてる弟子を見て首を捻る。


「だってこの岩場なのにちゃんと私の剣避けられてるじゃない。」


「そ、それはっ、ここずっとここで走る練習をしてたからで…っ」


 息を整えつつ必死に説明する。本当に仙人というのは非道だ…と弟子は思った。


「なるほど。」


「じゃあ、大丈夫。続けるよ。」


「何が大丈夫なんだーーっ」


 弟子の説得虚しく獐鼠が口角を上げて襲いかかってくる。弟子は叫びながら必死の思いで避け、否、逃げ回っていた。




 おぎゃああああ!わぎゃああああ!と断末魔のような悲鳴が響く岩山に二つの影が何処からともなく現れる。


「賑やかだねえ。」


神楽かぐら!」


 おっとりとした声に獐鼠の動きがピタリと止まり、声のする方へ駆け寄っていった。


 弟子は今までにない過酷な修行で腕も上げられないほど身体を脱力し、しばしの安息をとりつつ見知らぬ男性と現れた師匠に眼を向けた。


「し、師匠ー。」


「良い修行をさせて貰ってるようだな。良い事だ。」


「良くないですよ!素人に全然容赦ないんですよ⁉」


「おやおや。」


 満足そうに笑う師匠に納得いかない様子の弟子が口ごたえすると、隣にいた神楽が身を乗り出し意味ありげにまじまじと見つめ、眼を細めてチラリと獐鼠に目配せする。


獐鼠しょうそ。こてんぱんにしてやれ。」


「はいな!」


「わーー!」


 指示を受けた獐鼠が意気揚々と弟子に向かって飛び出していく。一気に間合いを詰めてくる得意顔に恐怖を覚えた弟子はすぐさま立ち上がりまた逃げ始めたのだった。


 それを見下すように笑う神楽とそんな神楽を見て小さく吐息を吐く藥忱。


「あまり虐めてくれるな。」


「あの弟子君の事、やけに気に入ってるんだね。」


 口元に笑みを浮かべている神楽だが声色は冷たい。


「でなければ弟子にしていない。」


「ふーーん。」


 藥忱は立ち見が飽きたのか茶器の置いてある横に腰掛けると、既に冷たくなり更に土埃の入った茶がまだ僅かに残る茶碗を手に取り、茶を捨てつつ呟く。


「茶を淹れるのも上手いしな。」


「お茶くらい私も淹れられるよ!」


 負けず嫌いなのか神楽が強い口調で湯が沸いているであろう鉄瓶に手を伸ばすが、すんでのところで藥忱の白い手が華奢な手を掴む。


「おい。」


「やめておけ。綺麗な手が火傷でもしたらどうする。」


「んー、やくじーーぃん。」


 手を握られた事への嬉しさか、はたまた心配してくれたからか、神楽が猫撫で声で藥忱に縋り付く。

 藥忱はそれを嫌がりもせず背中を撫でて慈しんでいるようだった。


(なんなんだ、あれ。)


 そんな師匠の初めての光景に弟子は目が奪われ動きが止まってしまう。


「余所見しちゃ…、メッ!」


 そこへ鋭い眼光を光らせる獐鼠の刃が振り下ろされた。避ける事が出来ないっ


 殺られる!っと弟子は眼を瞑る。思えば短い…いや長い?人生だった…、仙人にも成れずに死ぬなんて…、と走馬灯のように思い出が眼の裏に浮かび上がる。

 と、ほぼ同時に低い声がかけられた。


「そこまで。」


「もういいだろう。」


 師匠の言葉に救われ恐る恐る眼を見開くと、鼻の先に光る刃の切っ先が当たるか当たらないかの距離で止められ、弟子は思わず唾を飲み込んだ。


「…ありがとうございました。」


「やりたりない…。」


 ゆっくりと剣を引く獐鼠は物足りなそうに呟く。


「これ以上やったら黄泉の国へ送る事になる。」


「それにそろそろ戻らねばならんだろう。」


「やだ!」


 藥忱の言葉に神楽が腕にしがみついて叫ぶ。藥忱は子供のようにしがみつく神楽へ優しい眼差しを向けた。


神楽かぐら。」


「私の居場所は分かったのだから、また会えるだろう?」


「そうだけど…。」


「お前が罰を受ける方が私は辛い。」


 落ち着いた低い声で神楽を説き伏せる。神楽は渋々腕から離れて立ち上がった。


「分かった。また来るから!絶対に!」


「ああ。」


 座ったままの藥忱が微笑しうなづく。


 神楽が獐鼠を連れて立ち去ろうとすると獐鼠が「バイバイ。」と明るく手を振った。


 嵐のような二人が霞んで消えると、辺りは静けさを取り戻していた。




    ◇




 神楽たちを見送ったあと、見るに耐えない弟子の醜穢しゅうわいさに藥忱らも屋敷へと戻ってきた。

 

 弟子は屋敷の内院にわに着くやいなや地面に尻をついてへたりこんだ。


「はぁー、きつかったぁ。」


「あの程度で何を言っている。」


「あの程度って、容赦なかったですよ⁉ 見てくださいよ、この傷の数々。」


 師匠がいつもの様に愛用の椅子に座るのを眼で追いかけつつ、弟子は獐鼠によりヨレヨレのぼろへと変貌した衣を引っ張って主張する。

 汗や土に滲んだ血が混ざったなんとも言えない汚なさに師匠があからさまに顔を顰めた。


「その程度で済んで良かったな。剣仙相手に。」


「え!?あの鼠…じゃなかったしょう…ちゃんって剣仙なんですか‼︎」


師匠は眼を逸らして書物を手に持ちしれっと言うと弟子が眼を見開いて驚愕する。


獐獐しょうしょうだけではない。神楽かぐらも剣仙だ。」


「あ、あんなに美しくて華奢なのに!?」


 どう見ても師匠より身体も頭も小さくて奇麗なあの仙人が剣仙と言われ、弟子は益々驚く。あの人が踊り子と言われれば納得するが、妖魔や魔族相手に立ち向かう姿は想像出来ない。


 師匠は馬鹿っぽく驚愕する弟子を横目で見て小さく息を吐いた。


「仙人にとっての剣術は神通力の強さで決まる。勿論、身体を鍛えている仙人もいるが大抵は仙術で剣を操って戦うか仙力を剣に纏わせて戦っている。だから身体はあまり関係ない。素質と修行の成果だ。」


「へえーー。」


 納得したように呟くと弟子は何故か立ち上がりいそいそと師匠に近づいていった。


「じゃ、じゃあ私も剣仙になれちゃったりしますか!?」


「……なりたいのか?」


 怪訝そうに眉間に谷間を作り弟子を見上げる。


「え?いや、まあ…」


(剣仙になれば師匠を守れるし。)


 鋭い眼差しに思わず眼を泳がせる弟子。


「これから死ぬほど修行すればなれるかもしれんな。」


「本当!?」


「なんで薬仙の弟子が剣仙になるんだ。」


 藥忱は嬉しそうにする弟子の額を不愉快そうに書物の先で小突く。


ベシッ


「痛っ、もういいじゃないですかあー。薬仙にも剣仙にもなります!」


「ふん。欲張りな奴め。」


 ヘラヘラと笑う弟子に呆れてまた書物を読み始めた。


 ふと弟子が気づいたように師匠を覗き込む。


「それにしても思うんですが、師匠って私以外の相手に変に優しくないですか?」


「兄上にしろ、さっきの神楽かぐら神仙にしろ。」


 そう、師匠は自分には厳しいし、鬼畜だし、非情な態度ばかりなのに、今まで出会った師匠の知り合いにはとことん甘い感じがする。

 それを思い出した弟子の胸が少しモヤモヤした。何故かは分からないが。


「そうか?」


 師匠はどうでもよさそうに返事をする。


「そうですよー。全然違いますよー。なんですか、あの甘い顔は!」


「ああした方が素直に帰るだろう。」


「うわっひっどっ、さすが師匠。」


 理由を聞いてやはり師匠は師匠だったと安堵する。


「何が言いたい?」


「いいえー、別にー。」


 師匠がじろりと視線を刺してくるので弟子は逃げる様に自分の部屋へと駆けて行った。




ー終わりー


**************

※蓮灰色:くすんだ薄紫

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