第二十九章 兄弟弟子(肆)
藥忱の屋敷は一人で住むにしては広々としているが、個々の部屋の配置に無駄が無く庭と呼べるような広さの場所は内院だけである。出不精な藥忱は屋敷外で修行をさせる事が滅多にないため大抵はここ内院にて行われていた。
内院にある小さな池の畔には大小いくつかの庭石が置いてあった。その庭石の大きめのモノに座した赤い塊がもぞもぞと動いては文句を垂れている。
「あーーこんな事やってられっかーー‼」
「煩いなあ、もう。集中出来ないだろ。」
赤い塊のすぐ隣には少し小さい岩があり、そこで微動だにせず座していた小ぶりの塊であったが、気が散ってついには隣を睨みつけた。
「お前よくこんな一日中岩に座って眼つぶってられるな?」
「瞑想っていうんだよ。心を鍛える修行だよ。黙って座ってろ。」
煩い南陽を一喝すると弟子は再び目を閉じる。
南陽の言葉は遥か昔に自分も口にした覚えがある。昔は修行という修行すらさせて貰えなかったから無理もないが、それにしても無知だったなあとしみじみ思う。今では瞑想ですら楽しいと思えてしまうのに。
「心ねぇ、俺の心は鋼だぜ? 今更鍛える必要もねーな。」
南陽は背伸びをすると大あくびをしながら言い放つ。この男、基礎知識は十分あるのに瞑想をした事がないのだろうか…。
「…お前のその飽き性な所と短気な所といい加減な所がこれによって少しはマシになるんだよ。」
「誰が短気でいい加減だって!」
「お前だよ。」
彼と知り合ってまだ日は浅いが大体の性格は把握できていた。この気性が本当に少しでもマシになってくれたら万々歳なのだが、竜族の特性のようなものでもあるので期待は出来ない。この一週間、南陽が真面目に修行をしたためしはないのだから。
「ていうかさー、お前いつになったら借り返してくれんの。」
(う"、またこの話か。)
退屈な修行に黙っていられない南陽が再び口を開いた。この話題、ここ一週間事あるごとに言われ続けていた。南陽と出逢った時に約束した事……
「付き合ってくれるって約束したじゃん?」
「したよ。でも手合わせか何かだと思ったから…」
弟子は若干身体を縮こまらせる。なんとかこの話題を避けたい一心だった。
「誰がいつ手合わせだって言ったよ。」
「暇だって言うからてっきり。普通思うだろう?」
あの時、弟子は”身体を貸す”という意味をはき違えていた。暇だから付き合って欲しいという意味を好戦的と聞いていた竜族ゆえてっきり手合わせか何かだと思って軽率に承諾してしまったのだ。まさかそれが……
「思わない。な、今晩良いだろ?」
「だ、駄目だ!
そう、南陽はここへ来て弟子になったその日の夜に小弟の部屋に忍び込んだのだ。最初は寝ぼけて部屋を間違えたのかと思ったが、ごそごそと内着をまさぐられ、ずぼんを下ろされた時点で異変に気付き、この筋肉馬鹿に精一杯抵抗してなんとか貞操を守ったのだ。
「ちぇ〜。」
(全くしつこいんだから。)
あの夜にこっぴどく叱ったので夜忍び込む事は無くなったが、事あるごとにこの話題を持ち掛けてくる。全く蛇のようにしつこい。
「お前たち、無駄口を叩いているという事は…修行は終わったのか?」
南陽と喧騒していると静かすぎて近づいてくる事にも気づかなかった師匠が目の前に立っていた。
「師匠!」
「
弟子は師匠に助けを求めて叫ぶ。
「しーしょー。」
「小弟が約束守らないんですー。」
逆に南陽は師匠に愚痴をこぼした。
「どんな約束だ。」
「それはですね〜、俺に一晩身…」
「うわぁぁあああっ」
師匠の問いに答えようとした南陽の口を弟子は慌てて塞いだ。本当にこいつは無頓着すぎる!
「ななな、何でもないです。取るに足らない約束事ですので、師匠が気にする事じゃありません!全然。」
「ふむ。」
弟子が口の端を引き攣らせて慌てて取り繕うと師匠の眉がぴくりと動く。
「ならば弟子。今すぐその約束事というのを果たし、修行に専念せよ。」
「え。」
「やった!」
師匠の想定外の命に弟子の顔が硬直する。南陽が喜びの声を漏らした。
「今すぐはちょっと…急すぎるというか心の準備がというか…」
冷や汗を垂らし言葉を繕う弟子に、師匠はいつも以上に冷ややかな笑みを浮かべている。
「取るに足らない事なのだろう?」
「特別に私も見ていてやろう。今、ちょうど暇だからな。」
「は⁉なんで!!」
「どうした。早く済ませてよいぞ。」
(いやいやいやいやいや、なんで!師匠⁉いつもは全然興味ないくせに‼)
いつもと違い乗り気な師匠に弟子は眼を丸くして大慌て。そんな、師匠の前でなんて出来るわけがない。いや、師匠の前でなくてもやりたくない!
「…師匠も物好きですね~。まあいっか、さあやろうぜ!」
「待て待て!」
乗り気の南陽はさっそく弟子の肩に腕を回して顔を近づけてきた。弟子は近づく厚い胸板を必死に押し戻す。
「なんだよー、師匠の許しも出たからいいだろう。さっさと済ませて修行しようぜ。」
(お前もお前だよっ なんだよ、その爽やかな笑顔はっ)
師匠の前でもお構いなしの様子の南陽はとびっきりの笑顔を向けてくる。もう抵抗は無理なのだろうか、ここで師匠の前で私はこんな奴に辱めを受けるのだろうか…。弟子はあまりに急展開すぎて眼に涙を浮かべた。
そんな時、一陣の突風が内院に吹いた。
この屋敷は師匠の結界により普段は風など微塵も吹かない。という事は誰か、かなり強い神通力の持ち主が来訪したという事である。
「ん、来客か。最近多いな。」
(よ…良かったーーー。)
門へと自ら向かう師匠の後ろ姿を見送り、弟子は胸を撫でおろしていた。そして、隣で飄飄としている南陽へと怒声を浴びせる。
「
「ん。」
「ん、じゃないよ!やれるわけないだろうが、師匠の前で‼」
顔を真っ赤にして怒る弟子だが南陽は逆に口角を上げて笑うと肩に腕を回してきた。
「師匠の前じゃなきゃいいのか。じゃあ部屋いこうぜ。」
「良くない!」
絡まる太い腕を引っぺがして弟子が怒る。そして恐る恐る気になる事を口にした。
「大体、その、…お前ってそっちの気があるのか。」
「いや?」
「はい?」
「俺はやれればどっちでもいい。」
(サイッテーーー。)
男が好きというわけでもなく只ヤりたいだけだったと知り、弟子の眼が冷たく細くなる。
「それにほら、女だと後々色々と面倒だろ?だからさ。」
(やっぱり最低な野郎だ。)
確かにあちこちで子供が出来たら皇子的にやばいだろうが、そもそも遊び人過ぎる。弟子はほとほと呆れ返った。
「おい、どこ行くんだよー。約束はー。」
「いつ約束を果たすという期日を設けてない。私は今修行で忙しいんだ!お前の暇つぶしに構っていられるか。」
弟子は呆れと憤りに岩から降りると南陽を無視して門の方へと歩いていった。特に用はないのだがこの馬鹿から離れたかったのだ。
「かーー、これだから仙人は。」
「まだ仙人じゃない。」
「じゃあ、いつならいいんだよ。いつ約束果たしてくれるのかちゃんと期日決めろよ。そしたら従ってやる。」
怒る弟子を追いかけて南陽が問いかけてくる。弟子は振り向かず歩も緩めない。
「そうだな。私が無事、天仙になったら、だ。」
「天仙⁉ いつだよ、それーー。」
「数百年先か、数千年先か、分からない。」
「うげーーーー。詐欺じゃんか。」
南陽の不貞腐れた声が背中に響いてくる。とりあえず天仙までまだ先は長い。その間に南陽を説き伏せよう。弟子は心の中でそう決心した。
門へと歩んでいた弟子であったが内門を抜ける前に師匠の影が入ってきた。
「師匠、来客はどちら様で…」
「うげ!」
弟子が客の顔を確かめるより早く、弟子の背後からとても嫌そうな声があがる。
「
間髪入れず師匠の背後に隠れていた影が前へと進み出て、良く通る罵声を南陽へと向けた。
「あ、はは、母上。」
「なんでいるんですか。」
「愚息を迎えに来たに決まっているでしょう。」
母上と呼ぶ南陽の声が引き攣っている。こんな南陽は見た事が無い。
南陽の前に雄々しく立っているのは金糸の刺繍で彩った赤の礼服を見に纏う女性。大き目の金の冠に負けない力強い眼、くっきりとした唇に張った胸は威厳を醸し出していて南陽でなくても生唾を飲んでしまう。
「お前ときたらまさか神仙のそれも
「親父殿が修行に行けって言ったんですよー、俺は嫌だったんです。」
南陽はいつもの軽々しい口調ではあるが、明らかに敬語になっている。
「あの人はお前と同じで後先考えないんです!」
「聞けばここへ来てもまともに修行せず遊んでばかり、しまいにはお弟子さんにちょっかいまで出して邪魔をしているとか。情けなくて顔から火が出そうですよ!」
「口からは毎回火出てるじゃないですか。」
「お黙り!」
声を荒げる母へ南陽はやはり静かに聞くわけもなく口ごたえをする。こんな怖い女性に口ごたえできるとは流石南陽だ。弟子は逃げる事も出来ず、動く事も出来ずその場で縮こまっていた。
「後々、天仙になられるお弟子さんにご迷惑をかけるわけにはいきません。さあ、帰りますよ。」
「えーー。」
「これ以上、私くしを怒らせるんじゃありません。」
「う…分かりましたよー。」
流石の南陽も腕を掴まれて観念したように言う。南陽でも敵わない人が居る事に弟子は内心ほくそ笑んだ。
「はぁ、少しは愉しかったのになあ~。またつまらない日々が待ってるのかあ。」
「つまらないとはなんですか。兄達を見習ってあなたも南海の平定の役に立ちなさい。」
「だって、母上。父上が強すぎて南海は俺が見回らなくても鼠一匹騒ぎ立てしませんよ。」
さもつまらなそうに南陽が呟くと引っ張る手を放して立ち止まる。
「ならば修行に出なさい。」
「だからー、今修行に来てるじゃないですかー。もう、母上、矛盾してますよ?」
解放された南陽は身体を大きく横に振って頭を傾げるそぶりをする。前にも父親とのやり取りを見たが、両親に気軽に接することの出来る南陽は本当に…恵まれている。
「ここではなく、父や兄達が修行しに赴いた
「えーーー、嫌ですよーー!あんな恐ろしいところ!」
途端、南陽が激しく拒否した。その声に弟子も肩をびくつかせるほど。
「お黙んなさい!あなたには丁度いい場所です。南海へは帰らなくて良いのですぐにでも向いなさい。」
「そんな、勘弁してくださいよー。南海の警護しますから、ね?」
南陽が媚びを売るように両手をすり合わせる。が、母の意志は覆らなかった。
「もう決めました。あなたは雷霊山へ行きなさい。百年は帰ってこなくていいです。」
「ひゃ…百年も⁉」
がっくしと肩を落としてあらかさまに落ち込む南陽。それを横目に弟子は思う。
(雷霊山ってどんな所なんだろう。聞いたことないな。でもあの南陽が凄く嫌がってるって事は凄まじい場所なんだろうな…)
首を振っては嫌がる南陽へ今まで静観していた師匠がゆっくりと口を開いた。
「南海竜王妃・
(え!?矛先こっち向いたーっ)
師匠の立案に今度は弟子が眼を丸くして驚く。南陽がこれほど嫌がる場所へまさか自分まで…!
「
「行く‼ そういう事なら俺行くよ!母上。」
師匠の提案に落ち込んでいた南陽はぱっと表情を明るくした。逆に弟子は怖さのあまり声を上げる。
「嫌だ!…っと。」
「嫌…とは?」
だが、師匠の怒気の籠った声にすぐ口が閉まる。
「このようにまだまだ礼儀もお粗末な弟子です。雷霊山はうってつけの場所でしょう。」
「そうねえ、
師匠の申し出に南海竜王妃もようやく朗らかになる。
「師匠‼」
だが弟子は納得いかない様子。
「お前も百年程、
「そ、そうなんですかぁ?」
神通力が溜まると聞いてちょっと乗り気になる弟子。
「うむ。ほら、さっさと行ってこい。」
「じゃあね、母上。」
「しっかりやるのですよ。」
南陽は弟子の肩に腕を回して引き連れると母や師匠に手を振った。弟子は強引に連れられて涙目で師匠へ訴えかける。やはり得体の知れない場所へ連れていかれるのだ、無理もない。
「し、師匠ーーーーっ」
「茶は自分で淹れるから気にするな。安心して行ってこい。」
師匠はしれっと二人を見送る。
「そんな事じゃないですよー!もぅ。」
「ほらほら、行くぞ。」
南陽の身体が宙に浮き、一緒に飛ばされる弟子は師匠へと思いっきり手を伸ばす。藥忱はやっかい事がいなくなって気持ちが綻んだのか軽く笑みを浮かべて手をあげた。
(阿保師匠ーーーー‼)
弟子の内心の叫びも虚しく小さくなっていく二人。これから待ち受けるのは鬼か蛇か。百年も師匠と離れ離れになってしまう不安に、そしてこれから待ち受けるモノに弟子は恐怖を隠せなかった。
ー終わりー
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