第十三章 仙人の鏡 (贰)

「おはようございます!静杏せいあん仙に…師匠。」


「おはようございます。」


 静杏仙人の屋敷にきて最初の朝。


 実はやっと修行をさせてもらえると思い胸が躍って全然寝られなかった弟子は朝日が昇るとすぐさま部屋を飛び出して静杏仙人のところへ向かったのだ。


 流石、静杏仙人。すでに身支度を整えて部屋で書物の整理をしていた。


「あ、お茶ですか。淹れてきましょうか。これでもお茶を淹れるのは得意なん…」


「自分で淹れられるから大丈夫ですよ。」


(流石!)


 空の茶碗を見つけ声をかける弟子に静杏仙人は静かに言った。雑用が身についている弟子にはそれだけでも感動に値する。


 そういえばこの屋敷には静杏仙人以外の人を見かけない。屋敷の広さは藥忱師匠の屋敷の半分もないが、それでも十分広い。ここで全て自分でやっているのかと思うと弟子は感動に打ち震える。師匠に爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ。


「あの!」


「はい?」


 静杏仙人が一向に手を休めず動いているので弟子は待てずに声をかけてしまう。


「師匠。その…修行は。」


「ん、そうですね。じゃあ…」


 静杏仙人は部屋の外に出て大きな岩を指差した。


「あそこの岩で座禅して…」


「はい!」


 弟子は嬉しそうに岩に登ると脚を組んだ。


「目を閉じて瞑想しててください。」


 静杏仙人はそう言いまた部屋の中へと戻っていった。




「し、師匠。」


「はい?」


 座禅を始めてから半日。

 真面目に座っていた弟子だが一向に静杏仙人から声が掛からず、やむなく丁度通りすがる仙人を呼び止めた。


「あの、いつまで続ければ良いでしょうか?」


「ん、好きなだけどうぞ。」


 弟子の問いに静杏仙人は静かに言う。


「は、え?好きなだけって…」


「あなたは雑念が多いので、まずはその雑念を消し去り、無の境地を学んだほうがよろしいでしょう。」


 静杏仙人が口元を綻ばせて説明してくれたが弟子にはよく分からない。


「はあ…」


「何日かかっても構いませんよ。雑念を捨てる事は仙人への第一歩ですよ。頑張ってください。」


「仙人…はい!」


 仙人という言葉に乗せられ弟子のやる気がみなぎる。そのまま弟子は昼夜岩の上で座禅を組んでいた。



 三日後。


「…師匠、もう良いでしょうか?」


「ん、まだ三日しか経っていませんよ?」


 足の感覚が無くなった弟子が苦笑いをしつつそれでも静杏仙人に従って座禅し続ける。



 一週間後。


「…師匠、まだですか?」


 耐えきれずまた弟子が声をかける。


「ん、まだ一週間ですよ。まだまだ雑念が消し去れていないようです。少なくとも十年は座っておりませんと。」


「十年‼?」


 驚いた弟子が口を開け呆けた。


「何かおかしいですか?あなたはあの方から何を学んでいたのでしょうか。」


 静杏仙人が不思議に思ったのか首を傾げる。弟子は悲しくなった。


「何も…」


「何も教えてもらっていません!」


 百二十五年も修行しているはずなのに、自分は座禅すらした事がなかった。悔しい気持ちが弟子の唇を噛み締める。


「…そうですか。」


「…見込みがなかったのでしょうか。」


 ポソリと聞こえるか聞こえないかの如く小さな声で静杏仙人が呟くのが聞こえ、弟子の胸にちくりと突き刺さる。


 弟子の眼が見開いた。


「師匠、仙術を、仙術を教えてください!私はもう道士になって百二十五年も経ったんです。なのに何一つ教えてもらっていないんです。」


 弟子は悲痛の面持ちで静杏仙人に訴えかけた。意地悪な藥忱師匠が教えてくれないなら静杏仙人に教えてもらえば良いっと。

 静杏仙人は静かに頭を左右に振るう。


「仙術を学ぶにはまず仙力がないと出来ません。仙力は身体の中心にある丹田へと貯める必要があるのです。」


「見たところあなたには微々たる仙力しかありません。まずは仙力を貯めましょう。」


 説明され落ち着いた弟子は真剣な眼差しを静杏仙人に向ける。


「はい、何をすればいいですか。」


「ですからまずは座禅を。」


「座禅…」


 やはりまずは座禅だと言われ弟子は落胆した。静かに去っていく静杏仙人の背中を見送り、弟子は藥忱師匠を思い出していた。


 師匠なら自分を放っておいたりしないし、毎日のように口喧嘩していた。今となってはそれが懐かしい…。


(師匠…いつ迎えに来てくれるんですか…)


(こんな事なら師匠のところで茶を淹れてたほうがまだマシだ。)


 修行は出来ないが少なくとも相手はしてくれる。修行は楽しいものだと思っていたのに…。


(師匠にあんな事言ったから…もう迎えに来てくれないんじゃ…)


 師匠がもう自分を捨ててしまったのではないかと思うと胸がキリキリ痛んで涙が滲んできた。



「もし。」


「え、あっ、はい。」


 岩を見つめて回想していた弟子の頭上から声がかけられ慌てて顔を上げた。目の前には静杏仙人の姿。


「あ!まさか座禅修行は終わりですか⁉」


「いいえ?」


 静杏仙人に否定されてがっくしと肩を落とす弟子は仙人の脇に立っている二人の子供に目が行った。


「あの、その子供たちは。」


「今日から一緒に修行する事になった道士たちです。あなたより歳若いですが、兄弟子として仲良くしてあげてくださいね。」


(兄弟子!)


 兄弟子という響きに何だか一気に偉くなったように思えて弟子はやる気を取り戻した。


「はい!」


「さあ、あなた達も座禅なさい。」


「はい、師匠。」


 二人の子供たちは揃って静杏仙人にお辞儀をする。




    ◇




 (嘘だろう。こんな子供たちが微動だにしないなんて…一体いつから道士になったんだろう?)


 二人の子供たちは十歳前後といったところだろうか、座禅をしても微動だにせず瞑想している。

 弟子はこの歳若い子供たちに興味津々になった。


「ねえ、君たち。」


「君たちっていつから修行してるの?生きているうちに声かけられた?それとも死んでから?」


 静杏仙人がいないのを見計らって声をかける。

 人間からの仙人にはふた通りあって生きているうちに声をかけられるパターンと死に際にお迎えが来るパターンだ。


「生きているうちです。」


「兄弟子。座禅中の会話は禁止です。」


「あ、はい…」


 瞑想をしつつ答えてくれたがすぐに叱責される。


 それでもいつも子煩いほどお喋りな弟子なのだ。喋り相手が二人もいるのに黙っていられるわけがなかった。ついつい口が開いてしまう。


「君たちって何歳なの?」


「…。」


「お母さんたちが恋しくなったりしない?」


「もう!師匠。」


 弟子のひっきりなしの問いに子供がたまらず師匠を呼ぶ。部屋の中から静杏仙人がゆっくりと近づいてくる。


「兄弟子が煩すぎて集中出来ません。」


「そんな煩すぎるだなんて。」


 ちょっと喋りたかっただけなのに…と弟子が拗ねる。全く子供より子供である。


「おやおや、困りましたね。」


「ではあなたは滝行にうつって頂きましょうか。」


 微笑みながら考える静杏仙人は弟子に新たな修行を提案した。


「滝行!」


「ついてらっしゃい。」


 弟子は座りすぎて硬くなった脚をぎこちなく動かしながら静杏仙人の後をついていった。




「この滝に打たれながら座禅をすれば雑念など微塵も残りませんよ。」


 連れてこられたのは上が霞んで見えない程細長い滝だった。下に飛び散る水飛沫が滝の勢いを物語っているようだ。


「うわー……」


 弟子は静杏仙人に促され滝の下へと向かう。滝に打たれる前からすでにびっしょりと水飛沫で濡れてしまう。


「冷たっ」


「さあ、好きなだけどうぞ。」


「好きなだけっ」


「…はい。」


 氷のように冷たい濡れた岩に臆するも弟子は渋々滝の下に入った。


 滝の勢いは思った以上に凄まじく頭から肩からまるで棒にでも叩かれているように激痛が走る。


(こんな滝に何日間も打たれるなんて、修行というより罰じゃないですか!)


 弟子は息をするのもやっとの思いで冷たさに身体は凍りつくようだった。


(ひー死ぬ死ぬっ死なないけど、死んじゃうーーっ)


 曲がりなりにも仙人の弟子であるせいか、病気は全くしなかったし、怪我を負ってもすぐに治る身体だ。


(師匠っ師匠~~早く迎えに来てくださいよーっこんなの雑念とれるどころか逆に思想が渦巻いちゃいますよ。)


 激しい滝行でも弟子の口煩さは止まらなかった。口からは水しか出ないが代わりに脳内で罵倒する。


(大体師匠がこんなとこに置き去りにするからいけないんだ!いや、私も修行出来ると思って喜んじゃいましたけどさっ 座禅ばっかだし、静杏仙人はずっとにこにこしてるけどなんか、本心が分からない人形を相手してるみたいだし、これなら師匠のがよっぽど人間味があるよ。)


(はぁ~、師匠の「茶。」ていう声が懐かしいなあ…師匠、ちゃんと自分でお茶淹れれてるかなあ。)


 回想はいつもしているお茶淹れへと移る。師匠は何故か弟子がお茶を淹れるまで頑なに自分で淹れようとしない。極度の面倒くさがりか。そんな師匠にずっとお茶を淹れてきたので逆に心配になってしまう。


「弟子、茶。」


 ぼうっとした意識の中、師匠の声が聞こえたような気がして驚く。


「え!師匠⁉」


 動かせる眼だけで周りを見渡すがいるはずもない。


「…気のせいか。」


「師匠…」


 冷たさや身体を打ち付ける衝撃に慣れてきたのか瞼が重くなってきた弟子はゆっくりと眼を閉じた。




ー続くー

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