第十四章 仙人の鏡 (叁)
滝行を始めて二日。身体が冷え切って何も感じなくなった弟子は朦朧とした意識の中、自分に影が落ちるのに気づいた。
力を振り絞って頭を上げる。
「! 師匠…」
そこには静杏仙人が立っていた。
「うん、いいでしょう。上がりなさい。」
「やったあ‥‥」
弟子はやっと解放された罰、もとい修行を終えてふらつく脚で屋敷に戻っていく。まずは着替えてくるように促され自室に戻って乾いた服に着替えた。
そういえば弟子は着替えを持ってきていなかったが皺一つなく綺麗に畳まれて置いてあった服は藥忱師匠の屋敷に初めて上がった時に支給された服によく似ていた。弟子が人間界にいた時の服は村人たちによってボロ雑巾と化していたので新しい服を貰った時には凄く喜んだっけ。そしてよくよく考えると弟子はその時貰った服を百二十五年間ずっと着ていた。
潔癖な師匠は毎日のように違う長衣を身につけているが自分にはこの一着しかくれていない事に今更ながら気づく。貧乏な人間生活を強いられていたため衣服などとてもじゃないが気にする余裕がなかったので、道士になっても特に気にもとめていなかったが改めて思うと憎らしく思う。
師匠め…っと忌々しさが込み上げるがふと、もうずっと師匠の事ばかり考えている自分に気づき弟子は溜息をついた。
びっしょりと濡れた服を干し、弟子は静杏仙人の元へと向かう。
静杏仙人の部屋へと来ると二人の弟弟子たちと共に丸い卓を囲んで座っていた。
(あれ、ご飯を食べてる…仙人は食事出来ないんじゃ?いやでも師匠は食べてたっけ。)
卓には野菜ばかりの数種類の
「さあ、あなたもどうぞ。」
弟子に気づいた静杏仙人が空いている席へ促した。だが、ずっと食物を口にしていなかった弟子は気が引けてしまう。
「あ、いえ、私は…」
「ん、これはお嫌いですか?」
静杏仙人が困ったように問いかけてくる。
「好き嫌いするなんて仙人の道理に反します。」
黙々と食べる弟弟子がきつい口調で言い放つ。もう一人の弟弟子も食べながら"うんうん"と相槌を打った。
「誰にでも苦手な物はあります。少しずつ克服していけばよいのですよ。ですが、あなたは何日も食していないので色んなものを取り入れた方が良いでしょう。」
「さ、どうぞ。」
椅子を引かれおずおずと座るも茶碗に手が出ない。
(うーん。)
弟子は茶碗に甲斐甲斐しく菜を置いてくれる優しい静杏仙人の手を見つめるがやっぱり食欲は皆無である。それどころか食物に対して何故だか嫌悪感すら湧く。
「あの、やっぱりいいです。私、ずっと食べていないので食欲もありませんし。」
弟子が申し訳無さそうに手を振って否定した。それを見て弟弟子が小馬鹿にした態度をとる。
「食べないと筋肉も仙力も養えないんだぞ、馬鹿じゃないのか。」
「これこれ。」
諫める静杏仙人は次に汁物を弟子の前に差し出してくる。
「食欲がないのでしたらこちらをどうぞ。」
優しく心配してくれる静杏仙人をありがたく思うが弟子の箸は進まない。
「食欲がない…というか、師匠もずっと何も食べなかったので私も食べるという概念が沸かなかったので、急に食べろと言われましても……」
弟子の言葉を聞いて静杏仙人の空気が揺らいだ。優しい笑みは消えて何処か焦りが見えるような…?
「あなた、もしや…食物を食さないで何年経ちますか?」
「え、百二十五年くらいですが。」
静杏仙人の問いかけに素直に答える弟子だが思いもよらず静杏仙人は眼を見開いて明らかに驚愕の表情を浮かべた。
「!」
「嘘……。」
静杏仙人が神妙な面持ちでブツブツと考え込む。
(? 仙人てのは食べない者だと思っていたんだけど?)
弟子は今の今まで仙人は食べないのが普通だと思っていた。藥忱師匠はまあ別として。それ故こんなに驚かれて逆に困惑してしまう。
静杏仙人が薄らと微笑みゆっくりと口を開いた。何故だかその微笑みに違和感を感じるが気のせいだろうか…
「…それはいけませんね。だから仙力が溜めれないんです。さあ、いっぱい召し上がってください。」
「え!そうなんですか…?」
今度は弟子が驚愕する。
(師匠が騙していた⁉ で、でも…師匠は確かに高慢だし、騙して弄ぶけど、人を陥れるような事はしない–––いやでも毒蛇に噛まれたっけ……)
師匠ならやりかねないなという思いが浮かび、弟子は悶々とした。
静杏仙人は何故か半ば強引に汁物を進めてくる。
「どうしました?冷めないうちにお食べなさい。」
「あ、はい。いただきま…」
弟子は断る事も出来ず仕方なく器を手に取ると口元に運んでいった。
だが、器に唇が付きそうになる寸前で急に現れた白い手に遮られる。
「余計な事をするな。」
弟子の頭上から低く透き通った懐かしい声が響く。
「! 師匠⁉」
ずっと聞きたかった声色に弟子は跳ね上がるように頭を上げて声の主に視線を向けた。
端正な顔は幾分不機嫌さを増し、静杏仙人を静かに睨みつけている。
「師匠~~!戻ってきてくれたんですね!」
あまりの嬉しさに外聞も気にせず師匠に抱きついた。師匠は視線を弟子に落とすと口角を少し上げてニヤつく。
「なんだ、そんなに寂しかったのか?」
「なっ、寂しいわけないじゃないですかっ」
弟子は急に恥ずかしくなりパッと師匠から離れて椅子に座り直した。嬉しさのあまり溢れた涙をこっそりと拭い去る。
「
「まさか、断食していたとは知らず…申し訳ありません。」
師匠は静かにだが明らかに怒りを込めて静杏仙人に言う。静杏仙人は立ち上がり申し訳なさそうにお辞儀をして謝罪した。
「断食?」
「食事を一切断つ事だ。」
「私は断食をしていたんですか?まさか、これも嫌がらせですか…?」
弟子は食事を与えられなかった事の意味が理解出来ずまた師匠の嫌がらせなのかと嫌悪の表情を向けてくる。藥忱は説明するのも面倒だっとぶっきらぼうに肯定した。
「ああ、そうだそうだ。嫌がらせだ。」
「師匠ー!」
怒った弟子が拳を振り上げるのを指一本で牽制していると神妙な面持ちの静杏仙人がゆっくりと口を開いた。
「…断食させているということはまさか、彼に丹薬を試すおつもりですか?」
(え?何?)
丹薬。それは弟子にとって初めての言葉だった。
「そうだ。」
「今、食事すればこの百二十五年を無駄にした事になる。」
師匠の言葉に弟子は首を傾げる。
(無駄になるってこの毎日茶を淹れ続けた平凡な百二十五年が?)
(この百二十五年、まともな修行もせず師匠に茶ばかり淹れてきたがこれも師匠の考えのうちだったと…?)
弟子の思考が益々こんがらがる。
「私は人の何倍も努力して地仙になったのです。仙人の鏡ともいわれる私を差し置いて、その素質の欠片もないただの人間に貴重な丹薬をお試しになると!」
静杏仙人は必死になって藥忱に訴えかける。だが、藥忱は冷たい視線を向けるのみ。
「私が誰に丹薬を使おうが勝手だ。」
「しかし!」
食い下がろうとする静杏仙人の言葉を遮り、藥忱はお辞儀をして懐から取り出した小瓶を渡す。
「
「まあ、天仙にはなれないがな。神通力を高めてくれる補助的なものだ。」
「…ありがとうございます。」
渡された小瓶を握りしめ、静杏仙人は口惜しそうに見つめた。
藥忱は弟子に声をかけるとすたすたと門の方へ歩いて行く。
「ほら、弟子。行くぞ。」
「え、あ、はい。
「何してる。早く来い。」
「あ…、もぅ、はいっ」
弟子は慌てて静杏仙人に向き直り礼を述べるが師匠に急かされて何度もお辞儀をしつつ師匠の背中を追った。
◇
師匠が珍しく小走りのように歩を早めたため、弟子が追いついたのは屋敷の門をくぐり抜けた後だった。
「師匠が急かすからちゃんと挨拶出来なかったじゃないですか。」
「挨拶していただろう。あれくらいで良い。」
歩を緩めずに歩く師匠の背中は何故だかピリピリしたものを感じる。
「あれ、なんか怒ってます?」
弟子は小走りに隣りに並ぶと師匠の顔を見上げた。表情はいつもと変わらず端麗だが長年より添ってきた弟子には師匠の静かな怒りが感じ取れる。
「
弟子の問いに師匠は眼を見開いて怒気のこもった言葉を投げかけてくる。
「誰が友達だ。あやつは外面だけ立派な仙人と有名なんだ。そのような者を私が信用するとでも?」
「じゃあなんで預けたりしたんですか!!」
弟子も負けじと反撃する。修行は出来たが、否、修行と呼べるような事は殆どしていない。どちらかといえば嫌がらせのようだった。
「他の仙人がどういうものか身をもって体験させてやろうと思ってな。しかし、あそこまで出しゃばるとは…。」
「お前もお前だ。ひょいひょいと相手の言葉に乗っかりおって。」
「師匠がちゃんと教えておいてくれないからでしょう!でもちゃんと最初断りましたよ。」
「そこは評価してやる。」
師匠は肝心な事も教えておいてくれない。それを自分のせいにされ弟子は心外に思い口を尖らせる。
「ところで師匠。丹薬って何ですか?」
「仙薬の一種だ。」
「天仙になれちゃう薬なんてあるんですか?」
「耳ざといな。」
話は変わって先程の静杏仙人との口論を思い出し興味津々の弟子が問いかける。飲むだけで天仙になれるなんて凄い!
「そりゃ、天仙なんて言葉聞き逃したりしませんよ。
期待に眼を輝かせる弟子を横目でチラッと見て野太い声を発する。
「ああ、にがーーい薬を飲ませてやる。」
「うえ~~それは嫌だな。って茶化さないでください!」
舌を出して嫌そうな素振りを見せる弟子。
弟子は生まれてこの方一度も薬を飲んだことがなかった。聞くところによるととても不味くて苦いらしい? とはいえ人間の頃は木の皮でも虫でも食べられる物はなんでも口にしていたのでそれに比べたら問題ないだろう。
「私、天仙になれちゃうんですか⁉薬飲んだだけで⁉」
「なれない。」
「へ?」
「だってさっき…」
期待の眼差しは途端落胆の色へと変わる。師匠はまた騙す気だろうか。
「誰が天仙になれる薬を飲ますと言った?」
「え?え?」
確かにはっきりとは言っていない。静杏仙人の勘違い? 弟子は眼を真ん丸くする。
「お前に飲ませるのは丹田を強化する薬だ。」
(丹田…確か静杏仙人が私の丹田にはまだ仙力がないとかなんとか……)
弟子は静杏仙人の言葉を反芻した。どうやら丹田とは仙人には欠かせないものらしい。
「お前の丹田は貧弱過ぎる。そもそも、お前は元々ただの農民で、武芸をしていたわけでも、勉強していたわけでもない。おかげでお前の丹田は味噌っかすだ。今のままでは仙力を溜める事すら出来ない。」
「私の傍に百二十五年もいたのに、溜まった仙力が微々たる物なのが良い証拠だ。」
「えーっと、つまり仙人に向いていないと?」
師匠の説明に弟子は頭をフル回転させなんとか理解しようとする。
「はっきり言うとその通りだ。」
「な、なんで私を弟子にしたんですか‼」
そんな素質も何もない子供を何故スカウトしたのか、仙人の弟子になりたい者など五万といるだろうに。
「お前がなりたがったのだろう。」
「最初に弟子になるか?って言いましたよね!言いましたよね!」
「記憶力だけは良いようだな。」
「勿論ですよ!師匠の言葉は一言一句覚えています。」
得意げに話す弟子に師匠はヤレヤレと首を左右に振ると話を続けた。
「たとえお前が犬でも蛇でも、私なら仙人にする事が出来るからだ。」
「んえ?」
突拍子のない事を言われまた弟子が頭を悩ます。
「人ならざる者でも、徳の高い仙人の傍で何千年もかけて仙気を溜め、人型になり、修行し仙人になることが出来る。」
「じゃあ、私も師匠の傍にいるだけで仙気がたまって仙人になれちゃうんですか⁉丹田が弱っちくても?」
「まあ、何千年もかければな。」
「何千年も…」
流石に何千年もかかると言われると気落ちする。他の者ならもっと早く仙人になれるのだろうに。
「お前の事だ。何千年もお茶を淹れるのはさすがに飽きるだろう。だから丹薬で丹田を強化し、仙力を溜めやすい身体にする。」
「なんか卑猥な響きですね。」
「何が卑猥だ。くだらん。」
師匠は眉間に溝を作り、くだらなそうに言う。
「だって身体作り変えられちゃうんでしょう。破廉恥です!破廉恥。」
幼稚な考えに師匠の目が冷たく向けられる。
「お前、酒でも飲まされたのか?頭おかしいんじゃないのか?」
「師匠!酷い!」
「その割にはソワソワと嬉しそうだな。」
「な、う、嬉しくなんかっ」
酷いっと怒る割に弟子は先程から嬉しさが込み上げて身体のうずうずが止まらない。師匠が自分のためにそこまで考えていてくれたのかと思うだけで飛びつきたい気持ちになる。
「じゃあ、丹田強化のために断食をしてきたわけですね、ずっと。」
「うむ。まずは丹田をどうにかしないと仙術を教えるにしろ、武芸を教えるにしろ、何も出来ないからな。」
「そうなのですね。なるほどなるほど。」
この百二十五年が無駄ではなかっただけでも弟子には満足だった。仙術や武芸を教えないのにも理由があったのだ。それを知らずに毎日毎日師匠に文句ばかり言っていた自分が恥ずかしい。
「じゃあ、お茶を淹れさせるのはどんな意味が?」
師匠は肝心な事は何も言わないのでお茶淹れにも何か特別な理由があるのでは、と弟子は思った。
「召使の仕事だろう?」
「召使じゃありませんし!」
しれっと言い放つ師匠が歩を強めて先に進む。喜んでいた弟子の顔がまた怒りに燃える。
やはり師匠。弟子というより召使いが欲しかったのではないのかっと弟子は悶々とした心持ちで師匠の背中を追った。
ー続くー
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