第二四話 Wie Wasser, von Klippe zu Klippe Geworfen(湯湯たる流水のごとく、巍巍たる山崖の間を流れ落ちる) ③
【二〇〇四年八月二七日/アテネ本部・李奇代表の執務室】
李奇の提案を耳にするや、アントニスは案の定表情を険しくした。
「流石に良心が咎めます。李奇さんの仰る提案はつまり、「提言」実在の証拠を社会に隠匿しながら、組織内の派閥争いとユリアとの取引に利用するという話では?」
「確かに不誠実かもしれませんが、互いの面子と安全、そして効果を考慮すれば、かなり現実的な選択肢ではないでしょうか。それともアントニスさんには、他に何かお考えが?」
急に言われてもあるはずが無い。
「そもそも李奇さんの計画は、兄の調査が成功しなければ成立しないのでは?」
「確かに。恐らく楊委員が何もしていないのは、ペレウスさんの調査が難航すると高を括っているからでもあるのでしょう。今まで「提言」実在を証明できた人はいませんし、ペレウスさんが北京本部長へ就任した時点で、必然調査は滞るはず」
「私もそればかりは楊何業の考えが妥当だと思います」
すると李奇はアントニスに少しだけ顔を寄せ、視線を外したまま囁いた。
「だから装うしかありません。決定的な証拠を掴んだように取り繕うのです」
アントニスは耳を疑った。これは「提言」否定見解の公表などより、余程罪深い行為では? そして瞬間、彼は先程の二つの質問の真意を理解した。
李奇の提案を断るとはつまり、アントニスは研究者として「提言」の実在を察知しながら、委員会の公式見解に託けて、忘れられた歴史資料が日の目を浴びる機会を奪う行為と捉え得る。アントニスはそんな欺瞞を自ら犯したくはないし、その弱みをよりによって李奇代表に握られたくもない。
更に言えば、李奇の提案は、アントニスが断ったからと言って白紙に戻るものでもあるまい。きっと李奇は彼の与り知らぬ所でペレウスに接触し、「提言」の調査を利用するだろう。
ならば提案を承諾するべきか? ペレウスの調査状況は分からないが、今のままでは十中八九資料の実在を「取り繕う」羽目になる。これも結局は承諾しなかった場合と同じだ。
アントニスは李奇の顔をまじまじと見た。今までの話から察するに、彼は本心からこの計画を実行すべきと考えて居る。だから先程の質問は、アントニスに提案を断らせないのが目的と解釈すべきだ。これという代案も思いつかない以上、無駄な反感や警戒心を買わないために、アントニスはひとまず李奇代表の提案に従う態度をとる事にした。
「……具体的にはどうすればよいのです?」
李奇は大まかな計画を話した。この計画は準備段階と実行段階に大分され、いずれも新生委員会が軌道に乗るまでの混乱期に実行するべきだ。まず準備段階では、ペレウスの調査状況を確認し、関連資料などを入手する。この準備は実行段階の機会を見極めるためにも、出来るだけ早い段階で終わらせる必要がある。
次に実行段階では、証明ないし取り繕われた「提言」の実在証拠を、ユリアの関与を知る委員会関係者に報告し、否定見解公表の責任を楊何業に負わせる。
「ですが「提言」非実在を維持する以上、楊何業の処分理由を公表するつもりは無いのでしょう? 楊何業支持者の反発は必至では」
「理由付けなどどうにでもなります。彼は誰もが認めるトラブルメーカー、今まで運よく処分されなかっただけの人物ですから」
「そうでしょうか……」
「寧ろ問題はユリアです。彼女に「提言」調査公表の可否を委ね、万が一否定見解を撤回して良いと言えば、その通りにしましょう。それなら楊何業の責任も正直に公開できる。ですが彼女はまず間違いなく「提言」否定と諸情報の隠蔽を望みます」
「それがそのまま彼女の『借り』になると。彼女が撤回して構わないと言う可能性は?」
「あり得ません。ユリアはアルコル博士の業績の抹消に執着しているからです」
ユリアとアルコル博士の間には因縁があり、それが原因で彼女は彼の業績を消し去るべく暗躍してきたのだという。これは李奇がシノから聞いた話だ。
「つまり最終的には同類シノの情報に依拠しているのですか。彼女をどこまで信用して良いのか……」
「そう仰いますが、現状ユリアに関して、最も信頼できる出典はシノですよ」
「ですが彼女が貴方と友好関係を築いている状況自体が、ユリアや楊何業の思惑の範疇ではないと言い切れますか?」
李奇は顔にこそ出さなかったが、何となく面白くない心地がした。
「それならそれで利用するだけです。余り石橋を叩き過ぎては、渡る前に壊れてしまいます。まずはペレウスさんの調査の進展度合を確認しましょう」
「それを私に任せたいのですね」
李奇は頷いた。
「ただ不要なトラブルを避けるためにも、お兄様には詳しい事情を明かさない方が良いと思います」
「正直に話すなんて無理です。自分の調査がこんな用途で費やされるなど、兄は絶対に許さない」
「それもそうですね。関連資料を入手する方法ですが、今のところは「提言」実在否定声明の撤回検討のためと言う他ないでしょう」
アントニスは相槌を打たなかった。李奇の計画には、ペレウスが実在証明できた場合に、彼に対しどう弁明するかが抜け落ちている事に気付いたからだ。つまり彼はアントニスに兄の調査状況について推測させ、調査が成功した方が良いなどと言いながら、端からペレウスが十分な論拠を揃え得るとは想定していないのだ。
それから二人は大まかな段取りや連絡手段など、いくつかの基本的な事項を確認した。最後に李奇は、先日の北京出張の結果をアントニスにも伝えた。
「実は先日の出張の際、再来年の私の代表任期満了後に、運よくアテネ本部への出向が決まったのです。もちろんまだ内々の話ですが、アントニスさんには今後とも色々とお世話になりますから、先立ってご報告まで」
「おめでとうございます。私も嬉しいです」
「ありがとうございます。まあ身も蓋もなく言えば、楊委員に代わる橋渡し役という需要があって、それに私が合致しただけの話ですがね」
「まさか、李奇さんの実力ですよ」
「そう仰ってくれるのは、貴方くらいです。楊委員とユリアを初め、私たちには対処すべき課題が多いですが、より健全な委員会の将来のために、今後も協力していきましょう」
「ええ」
「……そうだ、楊委員といえばもう一つ。杞憂かもしれませんが、記事発見の現場がリュブリャナである以上、ズメルノスト前本部長がペレウスさんに接触していないか確認しておいた方が良いでしょう。失脚こそしましたが、長年楊委員の政敵だった男です。罷免されて以後行方不明というのも怪しい。下手に嗅ぎつけられて、こちらの計画に支障を来たすのはごめんです」
アントニスは頷いた。
「分かりました。でも兄とズメルノストに交流などありませんよ」
「それは分かりませんよ。いくら貴方とはいえ、お兄様の交友関係全てを把握しているわけではないのでは?」
実のところ、これは先程シノへの信頼性に疑義を呈された事に対する、李奇なりのしっぺ返しのつもりでもあった。しかし相手の表情に怒りとも軽蔑ともつかない何かを認めると、彼は慌てて付け加えた。
「私はただ、あらゆる危険に備えるべきと言いたいだけです。虎子を得たければ、穴の様子や親虎の位置を窺うもの、自明の理ですよ……」
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