第八話 星辰の名を持つ男
居間のソファに腰掛けたコブリーツ氏は、コーヒーを受け取ると、つい先日打ち明ける決心がついた秘密を話し始めた。
「実はズヴェスダに関して、二点ほどペレウス君の耳に入れたいことがある。一つ目に、儂と彼とは確かに親交があった。隠したのには理由があるが、まずは謝らせてくれ。……儂は一九八六年に、「アルコル博士の思い出」の原稿を、確かに彼から直接受け取ったよ。内容の信憑性は確かめようも無かったから、儂があの記事の掲載を決めたのは、偏に彼への個人的信頼に基づく」
ペレウスは黙って彼の話に耳を傾けた。
「ズヴェスダは恒星を意味するペンネームだ。本名……、仕事ではオルフェ・ブラーエと名乗っていた。風変わりで大人しい奴だったよ。一九七二年の冬、彼は本屋にドイツ語の辞書を買いに来た。見慣れない奴だったので、試しに色々話してみると、とても理知的で思索的な人間だと分かった。当初は彼を連邦政府のスパイと疑う者もいたが、すぐにベオグラードとは何の利害関係も無い人物だと分かったよ」
ズヴェスダはドイツ語以外にも、ハンガリー語・チェコ語・英語・ギリシャ語・フランス語が堪能に加えて、イタリア語とスペイン語の読み書きも出来たという。
「ギリシャ語も?」
マリアンが説明した。
「すごいよね。でもどこで習得したかは教えてくれなかった。英語とドイツ語ができても、僕らからすれば別に珍しくない。でも彼は系統の異なる複数の言語を難無く使いこなした。当然スロベニア語もすぐ習得したよ」
ある時ズヴェスダから、ドイツ語の読み書きができる助手を探していると聞いたコブリーツ氏は、本屋で働いていたエレナ・デームスという女性を紹介した。彼は一九八七年に死去するまで、少なくとも十五年は「竜の橋」近くの自宅アパートで翻訳業を営んでいて、足と目が不自由になってからは、デームスが生活面の世話もしていたらしい。
「彼女を紹介したのは一九八二年だ。その後儂は妻を喪ってから、暫く自分の世話も碌にできなかった。それを見かねた二人は、よく倅の面倒を見てくれたのだ」
ペレウスは壁際の古い家族写真へちらりと目を遣った。コブリーツ氏が妻に言及したのはこれが初めてだ。だがこの色彩に欠ける部屋において、埃一つない銅色の額に収まった優美な微笑を見れば、彼女が如何なる存在だったか自然理解できる。マリアンは母親譲りの美貌をタバコの煙で覆い隠して言った。
「まあ僕らから話せるのは、一先ずこれ位かな」
ペレウスは許可を得て元秘書の名前をメモした。
「デームスさんはリュブリャナにお住まいなのですか?」
「今は故郷でスキー客向けにロッジを営んでおる。リュブリャナのほぼ真北にある山麓の町だ。……故意にズヴェスダの情報を隠したのは、彼女が今でも彼を悼み続けているからだ。儂は君に好感を抱いているからこそ、君が不用意に彼女を圧倒する状況は避けたかった。隠し立てしたのは申し訳ない」
「とんでもありません。彼女と不用意に接触しないよう約束します。ですがなぜ今日この話を教えて下さったのです?」
「ああ、それがもう一点だ。二日前、ズヴェスダについて知りたいと、若い中国人が私に会いに来たのだ。君は何か知っているかね?」
「いいえ、初耳です」
コブリーツ氏は神妙な顔で続けた。
「彼は留学生で、名前はフェイトン・イエという。このメールが市役所経由で届いたのさ」
コブリーツ氏は印刷したメールの文面と名刺を差し出した。名刺にはオクスフォードのロゴと氏名、連絡先と滞在先が記されている。ペレウスは首を傾げた。
「知らない名前です。彼はどうやって記事の存在を知ったのでしょう」
「委員会の職員に聞いたらしい。だから最初は君かと思ったが、そうなら市役所ではなく君が仲介しそうなものだ」
「確かに。それに私ではありません」
「彼は二七日までこの街に滞在するらしい。ホテルはすぐ近くだから、気になるなら確かめてみるといい」
「僕は姿を少し見ただけだが、レスリー・チャンに似ていた気がする。髪型とかね。香港の映画俳優だよ。まあ特別アジア系の顔の区別がつくわけでは無いけど」マリアンが付け加えた。
「レスリー・チャンなら知っているよ。弟がファンだったから」
「そうなの? 弟さんとは面識も無いが、かなり意外だな」
「まあ趣味があるのは結構さ」ペレウスは肩を竦めた。
ペレウスはその留学生と連絡を取ってみる事にした。帰り際、彼は父子に丁重にお礼を述べ、日を改めて二人をアテネへ招待したいと言い添えた。
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