第九話 中国の不思議な留学生

【二〇〇四年八月二五日/スロベニア・リュブリャナ】

 翌朝ペレウスは、件の留学生が滞在中というホステルに向かった。外観は如何にもバックパッカー向けで、一見して宿泊施設とも分からない。彼は拝借した名刺をフロントの女性に見せて、イエに取り次いで欲しいと伝えた。だが相手は自分が言付かると素っ気なく答えるだけだ。ペレウスは取り付く島もない応対に困惑したが、丁度その時彼女の目線の動きで、アジア系の青年が階段を降りてくるのに気付いた。

 コブリーツ氏によると、イエの背丈は彼とほぼ同じらしい。レスリー・チャンに似ているかはともかく、ペレウスは女性の制止を無視して、そのアジア人へ駆け寄った。

「失礼、貴方がフェイトン・イエさんですか?」

 彼は一瞬ぎくりとして、ペレウスの顔をまじまじと見た。そして後を追ってきた女性と小声で二、三言会話し、彼女が溜息をついてフロントへ戻るのを見届けると、流暢かつ丁寧な英語で訊ね返した。

「ええ、僕がイエです。すみませんが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

口調に強い警戒心を察知したペレウスは、慌てて自分の名刺を差し出した。

「私はペレウス・フィデリオと言います。コブリーツさんの知人で、国際歴史記述調査共有委員会の職員です。彼から貴方もズヴェスダの記事を調べていると聞いたので、お話を伺いたいのです。よければ少し時間を頂けないでしょうか」

フェイトンはやや拍子抜けした様子で言い返した。

「そ、そうでしたか。……差し支えなければ、僕は今からでも構いません。ここは少し賑やかなので、近くの喫茶店に行きましょう」

 川沿いを進む道すがら、フェイトンは早速相手の素性を疑う必要は無いと結論付けた。彼は二〇日の会見映像に写り込んでいた司会進行役に違いないし、何よりあの上級委員と同じ姓を名乗っている。一番奥のテーブルに着くと、フェイトンは次のように切り出した。

「もしかしてフィデリオさんは、アントニスさんのお兄様ではありませんか?」

「え、ええ。弟と知り合いですか?」

「実は昨年ロンドンで、彼とモデラ委員長にお会いしたのです。曄蔚文……、僕の祖父はモデラ委員長と懇意にしていただいていますから」

ペレウスは目を丸くした。

「じゃあ曄蔚文博士のお孫さんなのですか。失礼しました、ご令孫のお名前は存知なかったので」

「知らなくて当然です。あまり祖父を煩わせたくないので、名刺にも敢えて漢字表記を入れていません。祖父と僕はずっと二人暮らしで、昨年も僕の進学準備を手伝うためにロンドンに来てくれたのです」

「なるほど、君の事は弟から聞きましたよ」

「アントニスさんとは留学先が同じなので、色々お話を伺いました」

「弟は放っておくと永遠に話し続けるから、大変だったでしょう」

「いえいえ。その時に教えて貰ったのです。リュブリャナで「提言」に関する記事が発見されたと。それで僕も調べたいと思って」

 ペレウスは怪訝な表情を浮かべた。記事についてはアントニスと話していない。対するフェイトンは、自分の行動が相手の気に障ったらしいと動揺し、旅が順調に進まなかった事を強調した。

「ですが結局、特に収穫は得られていません。やっぱり無謀な挑戦でした」

「そんな事はありません。因みにコブリーツ邸以外にはどこに?」

「昨日は国立大学図書館に行きました。地元の独立関係雑誌なら、他にもズヴェスダに関連する記事が残されているかもしれませんから。尤も僕はスロベニア語ができませんし、二七日には出国するので、集めた資料はアテネに着いてから確認するつもりです」

「なるほど。そうだ、実は以前、私も八〇年代の独立関係記事を目録にまとめた事があります。よければ君に渡しましょうか」

「いいのですか?」

「もちろん。今は手元に無いから、明日にでも取りに来てくれたら助かります」

フェイトンは丁寧に謝意を示した。そして相手が信頼できると思った彼は、ふと自分の懸念を打ち明けてみようと思った。

「あの、記事とは無関係なのですが、少しお話を聴いて頂けますでしょうか。実はここ数日不可解な出来事があって……」

 ペレウスはフェイトンの相談に首を傾げた。彼はリュブリャナに到着するまでの間、何度も同じアジア系の集団を見かけたという。どうやら尾行されているらしい。すると一昨晩、中国外務省から、曄蔚文の死去を知らせるメールが送られて来た。仰天して北京の自宅に電話すると、祖父は何事もない様子で応じたという。不気味に感じた彼は、宿泊先のスタッフに、もし自分を訪ねる人物がいても取り合わないよう頼んだのだ。

「訃報の送り主は本当に外務省ですか?」

「はい。僕は祖父に関する間違いを抗議する返信を送りましたが、まだ何の返事もありません」

「そんな錯誤を犯しておいて、無反応とは納得いきませんね。怪しいアジア系集団と誤訃報が関係あるかは分からないけれど」

「ええ。尤も最後に駅で見かけたきりですし、尾行なんて僕の勘違いだとは思いますが……」

「勘違いなら良いが、慎重に越したことはありません。特に……」

特に今みたいな状況では、そう言いかけて、ペレウスは口を噤んだ。

 店を出ると、ペレウスは滞在先を記した紙片を相手に手渡した。

「今日は突然すみませんでした。目録は今日中に用意しておきましょう。勿論それ以外の事も、何か心配があれば遠慮なく知らせてください」

「ありがとうございます」

ペレウスはそのまま今日の目的地である市役所に向かって歩き出した。ふと道路の向かい側に目を遣ると、スーツ姿のアジア系男性が数人、立ち止まって話し込んでいる。彼は思わず足早に通り過ぎた。

 果たしてその夜、中国警察は曄蔚文の刺殺体が発見されたと公表したのだ。委員会発足を主導したスロベニアでは、提唱者の死は他国に先んじて報じられた。早朝ペレウスがフロントに呼ばれてロビーに出向くと、顔面蒼白のフェイトンが立ち尽くしていた。

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