セビーリャの囚人②

第一〇話 アテネ本部による事件への対応

【二〇〇四年八月二五日/アテネ本部】

 李奇代表が曄蔚文の訃報を知ったのは、アテネ国際空港に到着してすぐだった。モデラ委員長から、事件対応に関する会議へ出席するよう指示された李奇は、そのままタクシーでリカヴィトスの丘へと向かった。常に堂々たる威勢を崩さないモデラも、流石に憔悴しているらしい。無理もない。彼は数日の間に、旧友リゲルのみならず、長年師事して来た曄蔚文まで喪ったのだ。

 モデラ委員長の執務室には、彼とアントニス・フィデリオ上級委員の姿があるほか、二台のノートパソコンには、楊何業上級委員とウィーン本部のモニカ・フェルカド本部長が映し出されている。このオンライン会議は、最近全ての本部に配備された機能で、普段は「総論」執筆に関する重要な打ち合わせに使われる。

「李奇代表、北京から戻って来たばかりのところ申し訳ない。早速ですが、中国警察は半日後に事件を公表すると。一先ず先方との連絡は、貴方にお願いします」モデラが手早く言った。

「承知しました」李奇は頷いた。

「では本題に戻りましょうか。この猶予の間に、現状確認と今後の展望を確認しなくては」

フェルカドが言った。この泰然自若とした老女は、創設以来ウィーン本部一筋の大御所で、同じ本部出身のリゲルやアントニスをアテネ本部に推薦した張本人でもある。

 アントニスが続けた。

「では僭越ながら、私が現状に至る経緯を説明いたします。……博士の刺殺体が発見されたのは、北京市内にある自宅の書斎です。中国側の説明では、殺害推定時刻は現地時間で二五日未明、犯人特定には至っていません。ただ彼らは改正条約に対する反対勢力の関与を疑っています。それが予め我々に訃報を通知した理由です」

「反対勢力とやらを疑う根拠があるのですか」そう訊ねたのは楊何業だ。彼は元北京本部長だった所以で、新任者着任までの間、一時的に古巣の指揮を執っている。

「それは私が説明します。書斎には改正条約の関連資料が広げられており、中には『同類』との取り決めに係わる文書も含まれていたからです」

「同類との取り決めに係わる文書……」

「資料は一先ず外務省が回収しましたが、それが誰の所持品なのか、また他に盗品があるかについては確認できていません」

「中国政府は同類についてご存じなのですか?」フェルカドが李奇に尋ねた。

「はい。中国は今回正規加盟する主要先進国と同様、改正条約締結における同類の協力を知る数少ない国の一つです。リゲル本部長の死についても、条約改正を巡る同類同士の殺し合いと理解しています。そして彼女を裏で操っていたのが、同類アルファルドである事も。だから我々が現段階で言う反対勢力とは、即ち彼であると見做して頂いて差支えありません」李奇が補足した。

「アルファルドへの疑念は尤もです。私は同類の一人として申しますが、彼の対応に関しては、同類ユリアに助言を仰ぐべきだと思いますよ」フェルカドが言った。

「ユリアとは今日の夕方に面会する予定です」モデラが言った。

「私も同行させてください」李奇が言った。

「ええ、もちろん」

「じゃあアルファルドについてはユリアの助言を得ると。他に反対勢力として思い当たるのは?」楊何業が尋ねた。

「人間であれば、ロシアとズメルノストでしょう。公式に改正条約批判を行ったのは両者だけですから。ただそれを理由に博士を殺害するとは……」アントニスは言葉を濁した。

 モデラは二〇日の会見において、敢えて八か国目の主要先進国の動向に言及しなかった。と言うのも、会見に先立つこと二カ月前、ロシアは改正条約への批准拒否と批判を表明したからだ。ロシアは委員会が旧西側寄りの有力国家に取り込まれ、彼らに有利な歴史見解が蔓延る懸念を示した。更に曄蔚文の「提唱」が所詮アルコル博士の「提言」の焼き直しに過ぎず、「提言」概要に基づき設立されたソ連の歴史地理研究委員会こそが、歴史を扱う国際機関の正統だと主張した。そして「偏重的な」調査共有委員会にとって代わる新たな機関の設立を宣言したのだ。

「私もロシアが博士を暗殺したという推測は、かなり突飛に思います。ただロシアへの対応は、この際はっきりさせておいた方が良いのではないでしょうか。アメリカは既に牽制姿勢を取っていますよ。平和と秩序の希求に対する野蛮な挑発だと」フェルカドが言った。

「中国もです」李奇も付け加えた。

 だがモデラは神妙な顔で断言した。

「今の段階で更なる対応は不要だろう。ロシアの声明には取り合わないよう、既に各国と申し合わせを済ませているから」

「では放置するのですか?」李奇が尋ねた。

「敢えて反応する必要は無いという意味だ。彼らが主張する正統性を、誰が容認すると? 「提言」は実在が否定されて久しい。定説に基づき、「提言」概要がソ連の創作だと指摘すれば、それで済む話だろう」

「ではズメルノストはどうですか。彼こそ殺害実行も教唆もできる器とは思えませんが」楊何業が尋ねた。

「彼の行方はまだ掴めません。ただ地元新聞への寄稿文から判断する限り、改正条約と同類の関係については依然無知だと思います」アントニスが答えた。

「やはり現段階では、リゲル殺害と関連付けて、アルファルドとその仲間を疑うべきだろう。ユリアの助言を仰ぎつつ、一先ずは彼への対応を優先しよう」モデラがまとめた。

「ズメルノスト捜索も同時進行するべきです。もしアルファルドが彼を匿えば、リゲル本部長の二の舞になりかねない。私の部下を動員したいのですが」楊何業が言った。

「いいえ楊何業さん、それは私が受け持ちます。スロベニアには、貴方の名前を出すだけで警戒する職員が沢山いますからね」

フェルカドに制止され、楊何業は素気無く言い返した。

「そうですか、結構。此方もフェイトン・イエの追跡に集中できます」

 李奇は慌てて楊何業を窘めた。

「楊何業上級委員、それはここで出すべき話題ではありません」

「フェイトン君がどうかしたのかね」モデラが質した。

「先日私と李奇代表は、博士ご本人から、旅行中のご令孫をそれと知られず追跡せよと依頼を受けたのです」楊何業は淡々と答えた。

「追跡とは?」

李奇は楊何業を遮って説明した。

「理由は仰いませんでしたが、とにかく内密に進めて欲しいと。今の所彼が何らかのトラブルに巻き込まれた様子はありません。しかし非常事態ですので、私が直接連絡を取り、現地に派遣した部下に保護させようと思っていた所です。少し行き違いがありましたが、経緯を知れば応じてくれるでしょう」

「彼は確かアテネ本部のインターンに参加するはず」

「ええ。予定では27日にアテネに到着予定です」

モデラは頷いた。

「そうか。しかし彼は唯一の遺族だから、一度帰国するべきかもしれない。アテネ到着後の対応は私が引き継ごう。因みに彼は今どこに?」

「リュブリャナです」

李奇は気まずそうに答えた。モデラは僅かに眉を顰めたものの、それ以上追求しなかった。

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