第一一話 知音の孫、盟友の子

 結局秘密の会合では、以下の事項が取り決められた。曄蔚文殺害について、最も疑うべき同類アルファルドとその仲間については、同じ同類である協力者ユリアに助言を仰ぐ。一方でロシアの声明に対しては特に反応せず、ズメルノストの捜索はフェルカド本部長が受け持つと。

 モデラと李奇、アントニスは、二時間後の午後四時前に、ユリアが滞在するトライデント・ホテルのロビーで落ち合うことにした。アントニスが先に部屋を出ると、モデラは李奇を呼び止めた。

「大事な話を聴きそびれていた。先方のご返事はどうだったのかな」

「ええ。私をこちらに入職させて頂く方向でお願いしますと」

 各国代表は加盟国から一名ずつアテネ本部に派遣される役職で、加盟国と委員会との調整に当たる。李奇は来年8月に任期満了を迎え、通常であれば中国外務省に戻るのだが、モデラは委員会への出向を提案した。

 モデラがそんな提案をしたのは、現状唯一の中国人幹部職である楊何業に代わる人材を求めているからだ。楊何業は所謂トラブルメーカーで、李奇や彼の前任者たちも、彼の挙動には何度も頭を悩ませてきた。

 モデラは組織の長に相応しい観察眼の持ち主で、人物の力量や適材適所の見極めに誰よりも長けている。他ならぬ彼からの提案は、李奇を素直に喜ばせた。

「それは良かった。君が残ってくれれば本当に心強いよ」

「格別のご高配を賜り、深く感謝しております。私のような者に」

「いや、君だからこそだ。絶対に後悔はさせないよ。李魁博士も喜んでくれると良いが。今回お父上とは会ったのかな」

「いえ。父は南京在住ですので、電話で話しただけです。相変わらず認知症気味ですが、来月七日の調印式典出席を楽しみにしています」

「そうか、私もお会いするのが待ち遠しいよ。曄蔚文博士の事件で、きっと落ち込んでおいでだろう。何か私に出来る事があれば、遠慮せず言ってくれ」

「ありがとうございます」

 李奇は自分の執務室に戻ると、リュブリャナで待機している部下于焔に、自分から曄子仁に連絡を取る旨を伝えた。そして先程インターン担当者から受けとった曄子仁のメールアドレスを入力しつつ、ずっと我慢していた煙草に火をつけた。それは父のブレンドを真似た紙巻煙草で、金木犀の微かな甘香が部屋を満たす。

 あと十時間もすれば、この建物は曄蔚文への追悼で溢れるだろう。しかし嘗ての盟友李魁博士の心情を慮る者など何人もいまい。尤も今の李魁は、煙草の巻き方も息子の名前もすぐに忘れるので、その愁傷を推し測った所で致し方無いのだが。それでも父が辛うじて曄蔚文と「提言」の記憶を留めている事は、息子李奇の眼に頗る皮肉に映る。「提言」の共同執筆者でありながら、曄蔚文が名誉顧問として無二の地位を得たのと対照的に、李魁は十分な研究実績があるにも拘らず、長年非正規の研究職に甘んじなければならなかった。

 その理由を一言で表現すれば、中国国内における「提言」の評価が、内政干渉を助長しかねないという批判を根拠に、近年まで芳しくなかったからだ。曄蔚文は欧州で培った名声を逆輸入する事で、いつの間にか国内でも政治史学の大家と認知された。だがその間「提言」に対する漠然とした拒否感が、李魁一人に向けられた事も知っていたはずである。しかし彼は年少の共同執筆者をアテネに呼び寄せたりはしなかった。そういう冷酷な厚かましさは、曄蔚文本人のみならず、一九八八年に交通事故死した彼の息子夫婦にも見出せる性質だった。

 彼らに比べると、曄子仁に対しては、内気でおどおどした子供という印象しかない。大学生の李奇が、曄夫妻から度々子守を押し付けられた時も、彼は李奇の不満を重々承知していると言わんばかりに、逐一恐縮して居心地悪そうにしていた。尤も当時の李奇にしてみれば、そんな態度すら何となく釈然としないものだったが。

 李奇は茫々と蘇る思い出を、煙草の灰と共に払い落した。そして可能な限り真摯かつ簡明な表現で、自分が中国代表としてアテネ本部に駐在している事、曄蔚文事件に関する状況を説明し、返信を求める文章を打ち込んだ。だがどうしても白々しい感じが拭えない。あれこれ考える内、気づけば時計の針は三時を回っている。彼は一旦手を止めて、トライデント・ホテルのあるシンタグマ広場方面へ足を運んだ。

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