第一二話 マリアンの提案
【二〇〇四年八月二六日/リュブリャナ】
ペレウスはフェイトンを伴って三階の客室に戻り、ノートパソコンを立ち上げた。曄蔚文の死因は刺殺による失血死とある。既に委員会の公式サイトにも訃報が掲載されている。
「大変な事になった……、本当に残念だよ。そうだ、君が言っていた尾行集団だけど、ここに来るまではどうだった?」
「周囲に人がいる気配はありませんでした。すみませんが、僕にもインターネットを使わせてください。お見せしたいものがあるのです」
フェイトンは大学のウェブメールサービスにアクセスし、漢字が並ぶ一通のメールを見せた。
「これは?」
「李奇くん……中国代表の李奇からのメールです。本当に彼のアドレスか分かりますか?」
確かに李奇代表のメールアドレスだ。
「君は李奇代表と知り合いなの?」
「子供の頃よくお世話になりましたが、僕が祖父に引き取られてから十五年以上は、連絡先も知りませんでした。このメールによれば、彼は祖父の依頼を受けて、自分の部下に僕を尾行させていたそうです。でも今は状況が変わったから、僕を安全にアテネへ送るために、その部下と合流して欲しいと」
「じゃあ君を尾行した集団は、曄蔚文博士に依頼された李奇代表の部下? だが博士はどうしてそんな依頼をしたのだろう?」
「分かりません。本当に依頼したのかも含めて……。実は李奇くんは元々外務省の職員なのです。でも彼はあの大使館の偽訃報に一言も触れていません。僕は―――、何か関係がある気がします。考えすぎでしょうか?」
ペレウスは声を震わせるフェイトンを宥めた。
「気持ちは分かるが、今の状況では何とも言えないよ。力になれず申し訳ない。李奇代表には返信したのかな」
「いいえ。どう返信すべきか迷っています」
「それもそうだ。一先ずタオルを持って来るよ。雨に降られたままじゃ風邪をひいてしまう」
ペレウスが洗面所に消えると、フェイトンはカーテンを少し開け、遠雷と霧雨が混じり合う薄明の街路を眺めた。だが手ぶらでホテルから出てきた人影を認めると、彼は仰天してペレウスを呼んだ。
「ペレウスさん! 外に僕を追い駆けていた人が!」
ペレウスは結露を拭ってその人物を見下ろした。それは東アジア系の若い男で、北方出身を思わせる白い肌が鈍色の街並みから異様に浮き上がっている。
すると突如備え付け電話の着信音が響いたので、二人はぎくりと身体を強張らせた。ペレウスが恐る恐る受話器を取ると、フロントは取り次ぎ依頼者に意外な人物の名前を告げた。
「マリアン……、こんな早くにどうかしたのか?」
「朝早くにごめん。単刀直入に聞くが、君は例の中国人留学生と一緒にいるだろう」
「……そうだけど、何故そんな事を?」
「今ホテルの前まで来ているんだ」
ペレウスは窓からこっそり外を見下ろした。確かにアジア人から数メートル離れた場所に、マリアンの白いハッチバックが止まっている。
「すまないが、今は色々立て込んでいて―――」
「とにかく降りて来てくれ。その留学生は曄蔚文の孫だ。彼の事件について、二人に重要な話がある」
マリアンは言うだけ言ってブツリと電話を切った。いつもの彼らしからぬ一方的な態度に、ペレウスは俄かに不信感を募らせた。しかしホテルに残り続けても、現状打開の見通しなど無い。彼はフェイトンに説明し、仕事鞄だけを持ってマリアンの車に駆け込んだ。すると声高な呼び声と共に、複数の人影が走り寄って来た。
「あれは北京語みたいです。やっぱり李奇くんの―――」
車が急発進したせいで、フェイトンは最後まで言い終わらなかった。追手もどこからか走り寄って来た灰色の大型車に乗ったらしい。勢いづく雨と両道路脇に停められた車で見通しは最悪なのに、マリアンは躊躇なく加速し続ける。ペレウスは思わず仰け反った。
「スピード出し過ぎだろ! 何考えてるんだ!」
「彼らを引き離すだけだよ。うーん、雨粒が邪魔でバックミラーでは車のナンバーが良く見えない。すまないが、後ろを確認してみて貰えるかな」
フェイトンはリアガラスに目を凝らしたが、忽ち引き離される後続車のナンバーを、打ち付ける雨粒越しに判別するなど無理だ。
マリアンの車は一旦街を南下して、リュブリャナ城下を通るトンネルを北上し、「竜の橋」の近くに戻って来た。ほぼ市内を一周した事になる。その頃には雨量も交通量も増えて、灰色のバンは完全に姿を消した。
フェイトンは小さく溜息を吐いた。
「ご迷惑おかけしてしまい、本当に申し訳ありません。あんなにあからさまに追い駆けられたのは初めてです。彼らは本当に李奇代表の部下なのでしょうか……」
ペレウスは偽訃報と李奇代表のメールについて、当たり障りのない範囲で説明した。マリアンは納得したように頷いた。
「君がそれらの経緯をあの集団や委員会に関連付けるのも尤もだ。さらに言えば、曄蔚文博士の事件はクラウディア・リゲル殺害事件と無関係じゃない」
「リゲルは病死だよ」
不機嫌そうに抗議したペレウスを、しかしマリアンはきっぱりと一蹴した。
「いや違う。彼女は殺された。君が知らないだけ」
「適当な事を言うなよ!」
「犯人を知っているのですか!?」
ペレウスとフェイトンは同時に言い返した。
「適当なんかじゃない。犯人はモデラ委員長たちアテネ本部中枢と協力関係を結び、改正条約に反対する人を次々排除しているんだ」
ペレウスは苛立ちを隠さずに尋ねた。
「意味不明だよ。そんな荒唐無稽な話をするために、私たちを無理矢理呼びつけたのか? 委員会と無関係の君が」
「もちろん僕は部外者だ。僕はただ知人に指示されて、君たちをホテルから連れ出しただけ。でも知人は違う。リゲルや曄蔚文と共に、改正条約の破棄を企図していた」
フェイトンは一層混乱した。改正条約を破棄? 昨年ロンドンでモデラ委員長と会った時、祖父は改正条約成立と母国の正式加盟こそが、名誉顧問としての集大成になると言ったのに。
「とにかく落ち着いて話せる場所に移動しよう」
「はい分かったとは言えないよ。そもそもその知人って誰なんだ?」
「今はアルファルドと名乗っている」
「アルファルド? 明らかに偽名じゃないか」
その言い返しが可笑しかったのか、マリアンは片手で口を覆い微笑した。それは彼の父親が常々眉を顰める悪癖で、ペレウスの目にはやや女々しく俗的に映る程度の仕草だったが、今回ばかりは小馬鹿にされた気がして苛々した。
「君は私を揶揄しているのか?」
「まさか、違うよ。確かにアルファルドは通称だ。皆がオルフェ・ブラーエをズヴェスダさんと呼ぶのと同じさ。でもこの際名前なんてどうでもいい。君は委員会職員として改正条約や関連事件に隠された企みを知るべきだし、君自身も知りたいと思っているはず。彼はその情報を提供できる」
「改正条約に企みなんてありえない。改正内容はいずれも具体的事項に止まっていて、何らかの企図が入り込む余地など無いんだから」
ペレウスはそっけなく撥ねつけたが、マリアンは猶も食い下がった。
「そう認識されている事自体が、既に彼らの思惑なのさ。アルファルドは君の反論を見越してこう言付けた。『仮に改正条約が一九七五年条約の細微な訂正に止まるならば、所謂大国の正規加盟などあり得ない。もし君が「提唱」の主張と委員会の存在意義を本当の意味で理解しているならば、これは当然不信を抱くべき矛盾であり、そこから目を背けるのは、過去と記述への冒涜に他ならない』と。僕にはよく理解できないが、彼は君になら通じると思っているみたい」
ペレウスは適当な言い返しも相槌もできなかった。アルファルドの言付けは、少なくとも調査共有委員会が孕む理念的問題について、彼がかなり正鵠を射た視点を得ている事実を示していたからだ。一方フェイトンは言葉の内容は理解できなかったものの、マリアンの落ち着いた口調とは裏腹に、バックミラー越しに見える彼の眼つきが正しく真剣そのもので、額には恐らく緊張のせいで冷汗が滲んでいるのに気付いた。
「それにさっきの話を聴く限り、君たちにも中国代表や委員会を手放しで信頼できない理由があるんだろう」
「それとこれとは別問題だろう。彼は一体何者なんだ? 本当に曄蔚文やリゲルの仲間なのか?」
「的確な説明は難しいが、彼らの協力者なのは確かだ」
「……」
「僕はマリアンさんの提案に従いたいです」
「だがフェイトン君―――」
フェイトンは言葉を慎重に選んだ。
「僕は祖父の事件について情報を集めないと。中国大使館に連絡を取るべきですが、偽訃報や李奇くんのメールを思うと、正直かなり躊躇してしまいます。それで咄嗟にペレウスさんの所へ伺ったのです。昨日とても親切に対応していただいたので。アルファルドさん話の正当性を判断する時に、もう一度お力を借りられると思うのは甘え過ぎだと分かっていますが」
心痛の年少外国人に気を遣わせた決まりの悪さに加え、彼が敢えてアテネ本部への不信を口にしなかった事で、自分にも疑惑を抱かれる恐れがあると指摘されたように感じたペレウスは慌てて言った。
「わ、分かった。私なんかが役に立てるかは分からないが、一先ずアルファルドの話を聴こう。」
「よかった、ありがとう」マリアンが安堵の息を吐いた。
「……だけど正直都合が良すぎる。アルファルドの知人であるマリアンが私と友人で、偶然フェイトン君がリュブリャナを訪れた時に曄蔚文博士が殺害され、彼を追いかけていた集団から君の助けで逃げおおせ、君の案内でアルファルドに会いに行くなんて」
「そうかもしれないが、見方を変えればごく自然な帰結だったりするものさ」
マリアンの適当な返事に苦言しようとして、ペレウスは思わず口を噤んだ。マリアンは思いつめたような、心から疲労し切った横顔をしていた。今そんな表情をするべきは、寧ろ唯一の家族を喪ったフェイトンや、所属組織の陰謀を突き付けられた自分の方だ。なのに彼だけが死にかけみたいな顔をしている。それもまた見方を変えれば当然の帰結というのだろうか?
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