第一三話 追跡者
【二〇〇四年八月二六日/リュブリャナ】
曄子仁と共に姿を晦ませたのが、新北京本部長のフィデリオだと分かり、李奇の部下于焔は少なからず驚いた。元よりこの秘密任務は不可解な点ばかりだ。加えて依頼者である曄蔚文が急死したせいで、現場の于焔たちのみならず、李奇と楊何業も暗中模索を強いられている。
于焔は今朝の顛末を李奇にメールで報告すると、仲間の三人と車を「竜の橋」付近で待機させ、残りの二人と行動拠点のホテルに引き返し、リュブリャナ出身の職員デジューと合流した。彼女はスロベニア本部には珍しい楊何業支持者で、彼が追跡組の為体を案じて寄越した応援である。しかし于焔からすれば、李奇が曄子仁本人と連絡を取った矢先に、楊何業が彼女を捜索メンバーに加えた事は、単純な連携不足以上の不穏当さを感じる。そういう疑念を抱かれて当然のトラブルを、楊何業は嘗て犯した事があるからだ。
デジューは見るからに利発で善良そうである。彼女のように人好きのする人物が、同僚に隠れてあのトラブルメーカーに協力しているとは。
「皆さんの中では、于焔さんだけが李奇代表の部下なのですね」
デジューは自己紹介がてら尋ねた。彼女は探し人が曄蔚文の孫だと知っている。だが昨晩公表された刺殺事件との関係を、敢えてこの場で問い質すつもりも無いらしい。
「ええ。実際李奇は人を使うのも頼るのも下手だから、彼の補佐役は僕だけなのです」
「じゃあ于焔さんは本当に信頼されているのでしょう」
「あはは、他に選択肢が無いだけです。僕は彼と同郷で、大学時代の弟弟子でもあるから、他の人に比べて遠慮しなくて済む。それだけです」
「そうだとしても、任せられない人には任せませんよ」
「おっとそれは……、今朝フェイトン君を取り逃がしたばかりの僕には、結構堪える言葉ですね」
于焔はお道化ながらリュブリャナ市街の地図を広げた。デジューは慌てた。
「別に皮肉では―――」
「冗談ですよ。すみません。でもせっかく昨日彼を発見したのに、不用心な尾行で刺激したのは、完全に僕の落ち度です。はあ、何とか挽回しないと」
「彼を乗せた車のナンバーは分かりますか?」
「雨で見えませんでした。でもすごく慣れた感じの運転だったから、きっと地元民だろうな」
「自分から乗車したとはいえ、誘拐事件の可能性は否めないでしょう。曄蔚文博士の事件もありますし、警察に捜索依頼をした方が良いかも」
于焔は張り付けたような笑顔でやんわりと否定した。
「それはまだ、最終手段に取っておきましょう。これは元々、曄蔚文が命じた内密の任務でした。確かに緊急事態ではありますが、彼の真意も分からないまま、第三者を巻き込んだりしたら、一層面倒な事態に陥りかねません」
「じゃあ私は何をすれば?」
「とりあえず滞在目的を探りましょう。きっと調査共有委員会と関係あると思います。彼は名誉顧問の孫であり、アテネ本部のインターン参加者でもあり、リュブリャナは委員会所縁の地ですからね。何か思い当たる場所はありますか?」
「パッと思いつくのは、スロベニア本部かモチュア博士の記念館でしょうか」
「初代委員長の記念館ですか?」
「ええ。博士の旧宅を改装し、業績の一部を保存しています。管理者がモチュア上級委員なのも影響して、時々委員会に関する資料が展示されます」
「メラニア・モチュアでしたっけ、博士の姪の……」
「ええ。……ああ、でも今は展示品の修繕で一時的に閉館しているみたい」
デジューはパソコンで記念館を調べながら説明した。
「じゃあスロベニア本部かな」
「ですが今朝確認した段階では、最近の入館記録に彼の名前はありませんでしたよ」
「なるほど。因みにアテネ本部の人間は? 最近誰か出入りしませんでしたか?」
「それは分かりません。何せここ一か月程は、沢山の人が派遣されて来たので……」
于焔は大きく頷いた。
「ああ、ズメルノスト罷免事件のせいか。聞くところでは、彼の失脚を楊何業の仕業だと勘繰る職員も少なくないとか」
デジューは気まずそうに答えた。
「ええ、まあ。ところでフェイトンさんが広域都市交通を専攻する学生なら、交通に関係する資料を探していたとは考えられませんか? この街は交通の要衝の一つですし」
「確かに。そういう資料が所蔵されている所と言えば―――」
「今すぐ思いつく限りでは、国立大学図書館、国立・市立博物館、リュブリャナ大学、郷土資料館でしょうか」
「彼が利用したか確認できますか? できれば誰にも知られないで」
「難しいと思います。特にスロベニア本部とは、職業柄互いに知人も多いですし。……でも郷土資料館と市立博物館には親しい友人がいるので、一先ずこっそり尋ねてみましょう」
于焔はメモにペレウス・フィデリオの名前を書いて差し出した。
「できればこの名前も確認してください。アテネ本部の職員ですが、身分は明かしていないかも」
郷土資料館の受付を担当する友人は、然程時間を要さずして閲覧記録の写真を送信して来た。于焔は新たな手掛かりに嬉々として画面をのぞき込んだ。
「フィデリオはスロベニアの独立関係資料ばかり閲覧しているな。一番古い記録は二〇〇二年一〇月、資料名はリュブリャ――?」
「『リュブリャニツァ』です。フェイトンさんもこの資料を閲覧したみたいですよ。しかも最初の利用日に」
「これは有名な雑誌ですか?」
「私は聞いたことがありません。書誌情報によれば、刊行期間は一九八三年から一九九一年まで、各号三、四十ページほどの小冊子のようです」
「彼が閲覧した十四号を見たいです」
「直接出向いた方が早いと思います。ここから歩いて十分も掛かりませんから。閉架資料なので、予め連絡しておきましょう」
于焔たちはホテルを出て、雨上がりの大通りを資料館に向かった。于焔の関心は曖昧模糊とした曄子仁追跡任務から、ペレウス・フィデリオへと移りつつある。于焔は直接面識を持たないものの、あのギリシャ人に対するイメージはあまり良くない。彼をリゲルの後任に推薦したのが楊何業だからだ。本部長経験者が推薦書を書くのは、慣例に照らして必ずしも不自然ではないが、于焔にしてみれば、あのトラブルメーカーに恩がある者など、それだけで警戒を抱くに十分である。
道すがら、于焔は再度デジューに念を押した。
「僕らとのやり取りについては、くれぐれも他言無用にしてください。これはあくまで曄蔚文の依頼で、恐らく中国人同士の事情だから、大事にはしたくないのです」
「承知しています。楊何業上級委員からもそう頼まれました。それに言いたくても言えませんよ。特に私の同僚には」
モチュア上級委員やズメルノストを筆頭に、スロベニア関係者には楊何業の動向に特別批判的な職員が多い。創設国として組織を牽引し、「総会」における対話の重視を主張して来たと自負する彼らにとって、辣腕で知られる楊何業の台頭は、決して心穏やかに受容できるものではないのだ。それでもデジューという秘密の協力者を確保できるのだから、きっと他の本部には、楊何業のために行動を厭わない者が何人もいるのだろう。于焔は以前、李奇がそういう職員たちを、漠然と「楊何業派」と呼ぶのを耳にした。彼らの多くは優秀かつ仕事熱心な若手で、楊何業の突飛で強引な挙動を剛毅果断と評しているらしい。
資料館の受付には、既に雑誌が用意されていた。デジューは目録に目を通して驚いた。
「これは……。「アルコル博士の思い出」という題名の記事があります」
于焔は身を屈ませて誌面を覗き込んだ。
「内容は?」
「ざっと見る限り、スペイン内戦従軍時の言行録みたいです。作者は誰なんだろう。明らかにペンネームですが」
「こんな記事があるとは」
「私も初耳です」
「『リュブリャニツァ』はどういう雑誌なのですか?」
「うーん、スロベニア独立を支持する地元住民が作成した同人雑誌、といったところでしょうか。寄稿先として、発行者の氏名と住所が記載されていますね……。今は本屋です。輸入書籍や専門書を扱う割合有名な店ですよ」
彼女は携帯電話で手早く住所を調べ、于焔の地図に印を付けた。
「ありがとう。立地も分かり易いから、とりあえず僕一人で様子を見てきます。すみませんが、デジューさんは、二人が閲覧した他の資料、ズヴェスダが執筆した他の記事、この雑誌が所蔵されている他の施設とその閲覧記録を調べてください。……この記事もスキャンしておきたいな。竜の橋で待機中の面々を呼び寄せるので、適宜雑用に使ってください。あとは―――」
「記事の英訳も必要ですよね」
「話が早くて助かります。大変でしょうが、お任せして構いませんか?」
「ええ。長い記事ではないので、直訳でよければ、今夜中には何とか」
「分かりました。記事の画像と翻訳原稿は、僕宛にメールで送ってください。僕から李奇と楊何業に送信するので」
于焔が去ると、デジューはすぐさま委員会のウェブサイトでフィデリオの名前を検索した。どうやら彼は記録保管室の業務で調査していたらしい。しかし彼女の周囲では「思い出」の話を全く耳にしたことが無い。つまりこのギリシャ人職員は、スロベニアの雑誌に掲載されたスロベニア語の記事を、現地本部に隠れて調べていたのだろうか。
デジューはまだ新人の域を出ない職員だが、それでも自身が属するスロベニア本部の微妙な立ち位置を理解している。例えば各本部には首都名が冠せられるのに、スロベニアだけがリュブリャナ本部でない理由を、多くの職員は創設国スロベニアの特権意識と看做している。だがそれは全くの見当違いである。本当の理由は、スロベニア本部の前身である旧リュブリャナ仮本部がアテネ仮本部へ統合される際、故モチュア博士たちが要求した名称継承案が棄却されたからだ。つまりこれはスロベニア本部が嘗て委員会創設の片翼を成した組織の後継などではなく、アテネ本部を頂点とする組織の一部門に過ぎないという証明に他ならない。
デジューのような職員は、以上の名称問題などに垣間見える微妙な勢力図を、本来取り組むべき仕事の弊害だと軽蔑して来た。だから彼女たちにとって、アテネともリュブリャナとも距離を置く楊何業の台頭は好意的に捉えるべき潮流であり、条約改正と大国の加盟は旧態依然的な組織像から脱却する一歩に映るのだ。その意味で彼女たち「楊何業派」の存在理由を、楊何業上級委員のカリスマ性のみに求める李奇代表の見識には不備がある。
だがそれは李奇だけの落ち度ではない。モデラたち委員会中枢の人間は、改正条約計画の真の目的を知るが故に、改正内容があくまで具体的事項の変更に過ぎない事を強調し、それを委員会全体の共通見解としてきた。そして彼らを含む多くの幹部職員たちが、楊何業を組織秩序の破壊を招く危険人物だと警戒し、様々な牽制を行ってきたのだ。しかし彼らは改正条約が細微な変更に過ぎないと強調し、楊何業という新勢力を押さえ込む程、少なくない職員たちから旧弊として一緒くたにされ、彼らの目が見ない所で、彼らの手には負えない程の改革志向を招く事に気付いていない。
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