第一四話 エレナ・デームスのロッジ
マリアンが運転する車は、昼前に山間の小さなロッジに到着した。雨は止んだものの、どんよりとした暗雲が空一面を覆っている。市街地より四、五度は低温だろうか、三人は身震いして降車した。
マリアンはハンカチを取り出し、額に僅かに滲む脂汗を丁寧に拭っている。彼の顔色はより一層悪く見える。ペレウスが声を掛けようとすると、ガチャリと大きな音がして、ロッジから線の細い人影が現れた。
「彼女はエレナ・デームスさん。ズヴェスダさんの元秘書だ」
エレナはマリアンとスロベニア語で二、三会話すると、ペレウスとフェイトンの方に向き直り、平明な英語で挨拶した。
「話は聞きましたよ。どうぞ上がってください。よかったわ、今日は偶然お客がいないから」
普段はいると言わんばかりの口調に、マリアンは内心同情した。エレナが両親から受け継いだこの建物から然程距離の無い場所には、昼間でも大型ホテルの照明が煌々と輝いている。数年前この宿泊施設が完成すると、夏冬問わずロッジの客は激減した。それもそのはず、目に映るのは一面の草地と山々ではなく、真新しい箱物と雑然とした駐車場だけなのだ。唯一の救いは常連客だが、それはエレナに廃業を躊躇させる桎梏でもある。
エレナは外国人二人にカフェラテを振舞ってくれた。ペレウスは古く小綺麗な談話室のソファに座ると、無遠慮な視線を投げないよう用心して彼女の為人を観察した。年齢は四十代後半だろうか、エレナは淡い憂いを湛えた美女で、暗い白熱灯が眼窩に作る濃い陰影は、どこか神経質で内省的な印象を与える。その奥から覗く碧眼がちらりと視線を返したのに気づき、ペレウスは咄嗟に目をそらした。
「突然押しかけてしまい本当に申し訳ありません。デームスさん」
「エレナで結構よ、ペレウスさん。どうぞ気にしないでください。こう見えて宿泊施設ですからね」
「アルファルドが来るまで、ここで待たせてもらうよ」マリアンが言った。
「それは電話で聞いたわ。でももう少し詳しい話を聴かせてくれて良いわよね?」
「もちろん。こちらのフェイトン君が、リュブリャナで怪しい男たちに追いかけられた。それで彼の手を借りようと思ったのさ」
マリアンの下手な説明に、エレナはからかいを込めて言い返した。
「全く分からないのだけど?」
「だよね」
「まあいいわ。アルファルドさんに直接に聞くから」
「あまり話の分かる人じゃないよ」
「貴方よりはましでしょ」
「それもそうか。そんな事より、フェイトン君はかなり疲れているみたいだ。彼を待つ間、上の客室で少し休ませて貰える?」
実際フェイトンは精神的に相当疲弊していたので、素直にマリアンの提案に従い、エレナの後に続いて二階の客室に向かった。
「色々ご迷惑をおかけしてしまいすみません」
「謝る必要は全くないわ。だけど不審者って、警察に通報しなくていいの?」
「少し事情があって……」
しかしフェイトンもまた、片言の英語を操る初対面の外国人に対し、祖父の事件や偽訃報、中国人追跡者について、納得のいく説明ができるとは思えなかった。
「何か困ったことがあれば、気兼ねせず言ってちょうだいね」
「ありがとうございます。……あの、早速で申し訳ありませんが、少しインターネットを使わせていただけますか?」
エレナは申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんなさい、さっきからずっと電話回線の調子が悪いの。きっと今朝の落雷のせいよ。リュブリャナも雨が酷かったでしょう? これからマリアンに調べさせるから、直ったらすぐ知らせますね」
一方談話室では、ペレウスがマリアンを問い質していた。
「彼女もアルファルドの知り合いなのか?」
「ズヴェスダさん繋がりだよ。詳しくはアルファルド本人が直接話すだろう。僕は電話線のを確認してくる。インターネットが使えないんだって」
「手伝うよ」
「ありがとう。でも僕一人で大丈夫だ。君はこの機会にエレナさんと話せよ。色々聞きたいでしょ」
「でもコブリーツさんが―――」
「僕から彼女に話したから大丈夫だ。それに彼女も君の話に関心があるみたい」
マリアンは言うだけ言って去って行った。入れ替わりにエレナが降りて来た。
「ごめんなさいね。いつまで経っても我儘なお子様なんだから。でも正直、マリアンに貴方みたいな友達がいたとは驚いたわ。昔から同年代の子には全然関心が無いって感じだったのに」
「そうなのですか? 意外ですね……」
エレナは頗る意外そうな表情をした。
「あら、そんな反応をされるとは意外だわ。まあとにかく、遠慮してくれる必要はありませんよ。私もズヴェスダさんの話ができる相手を探していたから。コブリーツさんは死者の話題を避けるもの。それが気遣いなのは分かっているけれど」
ペレウスは頷いた。
「そう仰るなら。……私はズヴェスダさんの記事を調べる内に、いくつか疑問を抱きました。ぜひご助言を頂きたいと思いまして」
「助言できるかはともかく、興味はあるわ。ああ、差支えなければ、ドイツ語で話してくださる? ペレウスさんはドイツ語も堪能と聞いたので」
「分かりました。もしかして、エレナさんはドイツ系の方なのですか? 名字もそうみたいですし」
エレナは小さく吹き出した。
「貴方もなかなか知りたがり屋さんね。あの子の言った通り」
「不躾な質問をしてすみません」
「構わないわ。父がドイツ系ハンガリー人だったの。今の私は自分をスロベニア人と考えているけれど、若い頃は自分の出自に色々悩んで、ドイツ語やハンガリー語を勉強した事もある。そのお蔭でコブリーツさんたちと知り合えたのだから、悪い経験ではなかったけどね。さあ、私の話はここまでにして、早く貴方の話を聞かせてください」
ペレウスは頷くと、仕事鞄からいくつかのファイルを取り出した。
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