第一五話 「アルコル博士の思い出」に関する一考察①

 「アルコル博士の思い出」の序文には、執筆に至る経緯が簡単に記されている。まずズヴェスダは、記事の執筆目的について、「調査共有委員会を創設したスロベニアの人士に、歴史を扱う国際機関構想の先駆である「提言」の執筆者に関して、若干の知識を提供する」事だと説明する。また彼は執筆に当たり、バルセロナでアルコル博士と交流のあったロシア人義勇兵「アレクセイ・キリーロフ」から話を聞いたという。

「「思い出」には、一九三六年一一月下旬から一九三七年二月初頭まで、凡そ三か月弱の出来事が記されています。短い記事ですが、内戦関係の時系列はかなり正確です。きっとズヴェスダさんは、義勇兵へのインタビューと並行して、当時の記録を注意深く確認したのだと思います」

ペレウスは最後の頁に引かれた赤線部を指し示した。

「ここには『一九三七年二月二日、「提言」の翻訳を終え、封緘し、国際郵便を担当する部局へ運ぶ』とあります。主語は明示されていませんが、文脈に従えば義勇兵キリーロフでしょう。一応確認したいのですが、私のスロベニア語解釈は正しいでしょうか?」

「ええ。私も貴方と同様に理解するわ」

「良かった。これは今の所、ソ連関係の文献以外で唯一「提言」の実在に言及した文章です。しかしこの文言を調べる内に、私は不可解な点に気付きました」

 ペレウスは別のファイルを取り出した。

「これはピョートル・オステルマンが歴史地理研究委員会の設立に際して行った、「提言」に関する調査手記です。ああ、オステルマン博士とは……」

「説明は大丈夫よ。でもそんな品が残っているとは驚きだわ」

「彼の子孫を探して拝借しました。オステルマンは一九三四年にミュンヘンを訪ねて以来、数度にわたりアルコル博士と書簡のやり取りをしていたようです。二人の間で「提言」の掲載約束が交わされたのは、一九三六年一二月初旬の事です」

「つまり博士がスペインに渡って間もなくの事ね」

 エレナはペレウスから手記のコピーと翻訳を受け取った。彼は筆記体のキリル文字をラテン文字に翻字し、各文章の下にドイツ語訳を添えている。恐らくコブリーツ氏にも見せたのだろう。


  (一九三七年七月九日)

  「提言」がロシア語訳された状態で到着した事実は、私たちを少なからず困惑さ 

  せた。封筒の差出人欄には「アレクセイ・キリーロフ」とある。アルコル博士は

  ロシア語を解さないし、他に翻訳者に関する記載も無い。それで私たちは、この

  キリーロフが翻訳者だと考えた。だが翻訳者の身元が分からない以上、「提言」

  が正しく訳されたかも判断できない。それでキリーロフの素性を調べるために、

  「提言」の掲載は数か月遅れざるを得なかった。

   文面から察するに、キリーロフは相当作文に習熟した人物らしい。私たちは大

  学出身者を中心に、ドイツ語ができる在西ロシア人を手あたり次第調べた。し

  かし不思議な事に、彼に繋がる情報は何一つ掴めなかった。

   私の部下などは、ドストエフスキーの小説『悪霊』の登場人物に同姓同名がい

  ると思い出し、博士のペンネームか言葉遊びではないかと言う。言葉遊びだと? 

  彼に限ってあり得ない。仮にそうだったとして、翻訳者の正体追究には何の役に

  も立たないではないか。せめて本文か封筒に、博士の直筆署名でもあれば、彼が

  翻訳の正統性を認めた証拠になり得るのに。

   そもそも納得がいかないのは、博士がドイツ語の「提言」を送ってくださらな

  かった点だ。私たちはやり取りにドイツ語を用いていたから、原稿も当然ドイツ

  語で届くと思っていた。昨年十二月に届いた書簡通り、「提言」は歴史を扱う国

  際機関に関する内容だったから、よもや別人が成りすましたとは思わない。しか

  し不可解な送付方法をとるに至った博士の意思を、我々は大いに汲み損ねている

  気がする。


  (一九三七年一一月一〇日)

   翻訳者の身元調査は打ち切られ、私は機関誌への掲載準備を優先するよう指示

  された。機関誌の担当者チェビ……(訳者注:判読不明)氏との会議は紛糾し

  た。チェビ……氏は、「提言」の内容を高く評価し、これに基づく新機関創設に

  乗り気だが、筆者が誰かを全く重視していない。それどころか死人に口無しに託

  けて、いっそキリーロフの論文として掲載した方が、要らぬ誤解を回避できるな

  どと宣う。

   私はチェビ……の冒涜的な提案を辛うじて退け、筆者はアルコル博士とし、訳

  者名は明記せず、タイトルには「概要」の二文字を付す決定にまで持ち込んだ。

  だがやはり折れたのは私の方だと言わざるを得ない。訳者名の不記載はチェ

  ビ……の案で、モスクワ当局が翻訳したと思わせるのが目的であるし、「不要な

  誤解を防ぐため」に解題に類する文書は付さないと提案したのも彼だ。

   この結果は私にとって無力感以外の何者でもない。しかし実際「提言」翻訳者

  の真相は検証できそうになく、私にはチェビ……の意見を強引に覆すだけの権限

  もない。今はただ、機関誌を読んだキリーロフが、自ら名乗り出てくれることを

  密かに望むばかりである。しかし私は私達の犯した罪過が、恐らく白日の下には

  曝されないだろうと予感している―――。


「相当混乱したみたいね……」

「ええ。オステルマンたちは、結局翻訳者の正体を掴めませんでした。更に彼らが講じた苦肉の策が、結果的に「提言」の実在が否定される原因を作ることに」

「この手記を公表したら? 少なくとも「提言」への扱いは変わるはず。オステルマンの言い分に従えば、少なくとも「『提言』概要」はソ連の捏造じゃないと分かるもの」

ペレウスは小さく嘆息して答えた。

「そうしたいのは山々ですが、今の状況では慎重にならざるを得ません」

「あら、どうして?」

「主に政治的理由で……」

エレナに無言で促され、ペレウスは少し言い淀んでから続けた。

「ロシアが改正条約と大国の新規加盟を批判し、調査共有委員会に代わる新たな国際機関の創設を宣言したのはご存じですか?」

「そういえばニュースで聞いた気がする」

「流石にスロベニアでは報道されたようですね。他の国では殆ど報道されなかったのに。……ともかく、その際ロシアはこう声明を出しました。つまり曄蔚文の「提唱」は、所詮アルコル博士の「提言」の焼き直しに過ぎず、その翻訳である「『提言』概要」に基づき設立されたソ連の地理歴史研究委員会こそが、歴史を扱う国際機関の正統なのだと。だからロシアがその流れを汲む新たな組織を創設する事には、同じく正統性があるという主張です。なのに肝心の翻訳者は正体不明で、当時の対処も付け焼刃だったとなれば、「『提言』概要」の価値は失われ、ロシアの主張の正統性も失われてしまいます」

「別にロシアに遠慮しなくても良いのでは?」

「遠慮……というよりは、この手記を無視される可能性を危惧しています。こういう資料の信憑性を否定するは簡単ですが、一度そう断じられたものを反証するのは非常に難しいのです。そして恥ずかしながら、この懸念はロシアに対してだけではありません。調査共有委員会も同じです」

「どういう事?」

 ペレウスは慎重に言葉を選びながら説明した。

「「提言」の実在について、確かに旧ソ連圏を除く学界では否定的な見方が優勢ですが、それでもまだ定説には至っていません。だから委員会も公式の場での言及を避けてきました。なのにどういうわけか、最近になって積極的に実在を否定する方針を固めつつあるようなのです。現にロシアに対しても、「『提言』概要」がアルコル博士の名前を借りたソ連の捏造だと断じる事で、その主張を挫くつもりでいます。しかしオステルマンは「提言」の実在自体は明らかに肯定している。つまり彼の手記は、ロシアとアテネ本部両方にとって、無視すべき理由があるのです」

 エレナは眉を顰めた。

「そうは言っても……、いくら政治的対立があろうと、実際に手記が存在する以上、在るものを無いと言うなんて出来ないでしょう?」

 ペレウスは愈々苦虫を嚙み潰したような顔をした。

「不本意ながらそうとは限りません。これは私の経験則ですが……、

「そういうものかしら。何だか遣る瀬無いわね」

「ええ。だから誰もが無視できない証拠を集めたいのです。「提言」の実在を客観的に証明するために。……私は調査を進める内に、幸いにもキリーロフらしき人物の情報を得ました。結論から言えば、アレクセイ・キリーロフという名前のロシア人義勇兵は実在します。ただ彼が翻訳したとは思えないのです」


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