第七話 スロベニアと改正条約
コブリーツ氏は、ロシア以外のG8と中国の正式加盟がスロベニアに及ぼす影響を案じているらしい。
「大国の影響というのは馬鹿にならん。調印式典が終われば、委員会におけるこの国の位置付けも縮小せざるを得まい」
スロベニア本部の前身は、一九三七年、リュブリャナに設置された仮事務本部である。委員会の本拠地がリュブリャナではなくアテネに一本化されたのは、この国が当時ユーゴ圏だったからに他ならない。
一九七〇年代初頭のスロベニアでは、諸政策を巡り連邦中枢との不和が露呈していた。そこでベオグラードの連邦政府は、人畜無害で理想主義的な委員会構想を、非同盟国の新たな専門機関と位置付け、スロベニアに創設主導を委ねることにした。
これは明らかに連邦中枢に対する不満分散を企図したものだったが、国内における歴史的・民族的な視点の深化は、却って「現代スロベニア人」のアイデンティティ確立に一助を成した。現に地理学者として国境画定に関与した故モチュア博士をはじめ、複数の創設関係者が熱心な独立支持者だった事が指摘されている。だが結局、理念的構想を現実的な軌道に乗せた事実は連邦政府から脅威と捉えられ、仮事務本部の殆ども、紆余曲折を経てアテネ本部へ吸収されるに至った。
「父がこんなに心配しているのは、ズメルノストの影響もある。君は知らないだろうけど、つい先日の新聞に、彼が改正条約を滅茶苦茶に批判する寄稿文を書いていたのさ」
ペレウスは元スロベニア本部長ディミトリ・ズメルノストの飄々とした姿を思い浮かべた。彼の「乱心」と失脚は、アテネ本部の関係者なら全員知っている。
先述の沿革から、スロベニア本部は、いわばアテネ本部に準じる部門として、慣習的に様々な例外が適用されてきた。歴代本部長全員が同国出身者なのも、ギリシャ以外で本部に国名が冠せられるのも、この国だけである。そしてアテネ本部が『総論』とその共有を最重視するのに対し、スロベニア本部は一貫して最高議会「総会」における対話を尊重すべきと訴えて来た。これは総会が単なる事実承認の場に過ぎない現状に対する批判だが、総会の発想がリュブリャナの仮事務本部に由来する事とも無関係ではない。
ズメルノストもその伝統に連なる人物で、更にモチュア博士の弟子という経歴も相俟って、彼とスロベニア本部の言動は、常に一定の重みをもって受け取られてきた。それが凡そ二か月前、彼は総会を侮辱した廉で解職されたのだ。しかもその時の議題が改正条約採択だったため、事件は一層波紋を広げるに至った。
「あの寄稿は読むに堪えなかったが、彼があんな書き方をするのには、それなりの理由があると勘繰ってしまうな」コブリーツ氏が言った。
「ズメルノストと父は知り合いなのさ。彼は下の本屋の常連だから」
「彼の消息について、ペレウス君は何か知らないかね」
「どういう意味ですか?」
「実はここ数日、スロベニア本部の職員も彼と連絡を取れていないという。どうもこの街にはいないらしいのだ。正直心配だよ。差支えない範囲で尋ねたいのだが、改正条約と彼の解職には、本当に関係があるのか?」
ペレウスは慌てて首を振った。
「まさか。条約改正での対立が、解職の原因になるなどあり得ません。そもそも改正内容はどれも個別具体的な条項に留まっていて、大綱は一九七五年条約と全く変わらないのですから。もし彼が何か対立の渦中にいたとすれば、それは寧ろ先進国加盟に関する問題だと思います。彼がG7と中国の正式加盟に懸念を示していたのは周知の事実ですし」
「そういえば彼は、自分の失職がアテネ本部と中国の陰謀とでも言わんばかりだった。それが君の言う対立なのか?」
「うーん、それもかなり語弊があると思う。彼が中国人の上級委員とかなり険悪な関係だったのは有名な話だけど……」
中国もまた特異な加盟国だ。「提唱」者の出身国として、当時の中国首脳陣は、一九八〇年代初頭に委員会への加盟を発表した。しかし国内では内政干渉を招くと強烈な批判が巻き起こった。結果、中国は唯一の準加盟国に収まり、政府が容認した『総論』のみ国内に適用されることになった。それが今回正式加盟に踏み切ったのだから、相当な方針転換があったのだろう。
「確かにズメルノスト本部長の消息は気がかりです。もし何か分かったら、できる限りお伝えします」ペレウスはコブリーツ氏に言った。
食事を終えると、マリアンとペレウスは台所に並んで食器を片付けた。
「そういえば、僕は今年こそアテネ旅行をしたかったけど、結局できず仕舞いだった。飛行機もホテルも高過ぎるし」
「私のアパートでよければ、宿泊費分は節約できたのに」
「転勤の準備で忙しかっただろう」
「君なら歓迎だよ。でも今の時期は外した方がいい。どこも人だらけで、必然馬鹿も多いからさ」
「君にしてはきつい物言いだね。もしかして観光客とトラブルを起こした?」マリアンはくすくすと笑った。
「まさか。ただついこの前、弟が父から借りたクルーザーに落書きされて、私まで掃除を手伝わされただけ。弟は父に知られると困るから、業者は頼めないとか言うし。そして犯人が五輪客っぽい所も何だかさ。まあ別にいいけど」
「お気の毒様。祭りの空気に共感できないからこそ、猶更気に障るものだ」
「所詮小者だからね。愚痴位言わせてくれ」
「はいはい慰めてあげよう。だが君でも時には優しいお兄ちゃんを演出するんだね。いつも弟を煙たがっているのに」
マリアンは二人分のマグカップを机に出しながら言った。
「演出してないし、別に煙たがってもない。お互い関心が無いだけ」
「えー、そんな風に言わないでくれよ、お兄ちゃーん」
「やめなさい」
ペレウスは笑いながら手をひらひらさせた。マリアンは明朗かつ親切な優男だが、その麗容に似合わず、兎に角くだを巻いた戯言が多い。彼はペレウスと同い年で、今は地元大学でドイツ語学の非常勤講師をする傍ら、種々の事務翻訳で生計を立てている。しかし正規の教職を目指すつもりは無いという。彼にとっては気儘な生活が最も重要らしい。だが善良で単純な市民を自負する元独立運動家の父親からすれば、息子の軽薄で信念に乏しい人生態度は悩みの種だった。
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