第六話 コブリーツ父子
【二〇〇四年八月二四日/スロベニア・リュブリャナ】
スロベニアは北東をアルプス山脈に抱かれ、西南端にアドリア海を臨む自然豊かな国である。一九九一年、ユーゴスラヴィア連邦から最初に独立したこの国は、現在クロアチア・ハンガリー・オーストリア・イタリアと国境を接する。首都リュブリャナは国土のほぼ中央に位置し、山間部に囲まれた平地に三十万弱の人口を擁する同国最大の都市だ。
ペレウスは空港から直接コブリーツ邸に向かった。ヤヌス・コブリーツは、所謂地元の名士で、彼の下にはこの街に関する多様な事柄が齎される。ズヴェスダの記事を発見して以後、休暇の度に彼を訪ねていたペレウスは、今回もその高配で晩餐に与ることとなった。
市街中心部に位置するプレシェレン広場、コブリーツ邸はそこから東へ伸びる道沿いに佇む三階建ての古い建物だ。上二階が父子の住空間で、一階は彼の創業した本屋である。店舗脇の細い階段を上ると、赤茶色の重厚な扉に辿り着く。ベルを鳴らせば、コブリーツ氏と息子のマリアンが現れた。
コブリーツ氏は今年七十歳を迎える好々爺だが、十五年程前までは、地元の独立支持者たちが成す論壇を牽引する一人だった。彼は持ち前の語学力を活かし、主に西側諸国で発行された政治・経済・人文分野の著作を仕入れた。それら書籍輸入の伝手の一部は、彼の教え子でもある現店主に継承されている。
親子二人の寝食には些か広過ぎる家は、内装に無頓着な住人の影響で頗る殺風景だ。食卓に着くと、父子は改めてペレウスの北京赴任を祝福しつつも残念がった。そして話題は自然と、ペレウスがギリシャ本部時代に携わっていた「マケドニア」国名問題の経過に及んだ。
この国際問題は、ユーゴから独立したマケドニア共和国に対し、ギリシャが国名に「マケドニア」の語を使用しないよう抗議した事に端を発する。ギリシャが国名に反発した理由は、ギリシャ領内にも中央マケドニア地方が存在するからだが、この領域の由来は、アレクサンドロス大王時代のマケドニアにまで遡る。つまりごく簡単に表現すれば、この問題は歴史地名に対する正統性を巡る対立と言える。
調査共有委員会は、両国対立の原因がマケドニア呼称の歴史背景にあるとして、両国と共に一九九三年から調査と協議を行ってきた。調査の実働部隊となるギリシャ本部とスコピエ本部では、「マケドニアと呼称される地域・集団の歴史的経緯に関する調査」グループが結成され、マケドニア地域の歴史的変遷について、明確事項と不明確事項を調べ上げた。
以上の結果は、調査を統括する上級委員の監督下で、『総論』と呼ばれる報告書にまとめられ、国際機関によって正統性が保証された対話材料となる。そこでは明確事項が論拠となる一方、不明確事項に基づいた主張は有効と看做されない。もし『総論』の内容に錯誤や抗議がある場合、当事者国や提携研究者はそれを報告する権利と義務を負い、『総論』は速やかに改訂されるよう規定されている。
ペレウスは記録保管室に配属されるまで、ギリシャ本部の調査グループの一員として、両国の研究者が参加する会議の調整を担当していた。歴史などの問題では、国毎に相反する見解が主流になっている場合も珍しくない。だから見解の主な発信者である研究者に学術交流の場を提供し、見解の差異を共有する事も必要なのだ。そしてこの取り組みも、『総論』に付される膨大な「付録」の一つとして、『総論』の客観性・信頼性・透明性を保証する根拠となる。
「この問題は連邦解体の遺産と言えなくもないから、儂も色々考えさせられるよ」コブリーツ氏が言った。
「僕も今回改訂された『総論』を読んだ。他の加盟国も『総論』内容に沿った報道や教育をしないといけないからね。だけど恥ずかしながら、問題が今一つ理解できていないんだ。もし僕の講義で『総論』に反する発言をしてしまったら……」マリアンが尋ねた。
「いや、その条項は、別に個人の会話を統制するわけじゃないよ。流石にそれが国ぐるみの行動なら問題になるけどさ」
「君は以前こう言ったな。『総論』の許容は加盟国に課せられた譲歩だが、それはあくまで対話が反故にされるのを防ぐためだと。」コブリーツ氏が言った。
「ええ。もし『総論』に疑念や錯誤があるならば、既定の方法で抗議する方が合理的です。それが理に適った主張ならば、不確定事項に振り直すなどして改訂版が公表されます。尤も何かしら抗議が想定される問題なら、『総論』作成段階で相当検討されるので、改訂も次々出るわけではありません」
「じゃあ何でマケドニア問題の『総論』は二度も訂正したんだ?」マリアンが尋ねた。
「抗議を受けたというよりは、どちらも新事項の追加だった。もともとこの問題は、基本的な事実関係に関して、大きな錯誤や齟齬があるわけじゃない。寧ろ伝統や精神性、象徴に関係する対立だよ。だから協議の材料は、文学や芸術など多岐に及ぶわけだが、そういう資料の扱いが十分ではなかった。つまるところ調査グループの瑕疵って事」
コブリーツ氏が頷いた。
「力量はともかく、マケドニア問題が難しい課題なのは分かるよ。そういう伝統や精神は、ある種の執念と言える。だからこそ重要な歴史問題に対し、対話など初めから放棄して、声高に主張し続けて既成事実化したり、政治的圧力を掛けたり、経済競争に持ち込んだりする者もいる」
「コブリーツさんの仰る通りです。委員会が提示する共有と対話は、そんな手法に対する危機感から生まれた選択肢だと言えるでしょう。尤も大方で言われる通り、結局は理想論なのかもしれませんが」
「相反する歴史見解が、国力の優劣などを要因に、なし崩し的に決着してしまう状況を避ける。儂は別に理想主義とは思わない。現に委員会は良く機能しているじゃないか。それになし崩しは大抵大国の特権だが、G7の新規加盟を機に、状況も変わって行くだろう。素直に喜ばしいよ。しかし……」
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