第五話 モデラ委員長の会見

【二〇〇四年八月二一日/オーストリア・ウィーン】

 曄子仁はウィーンの宿泊先に到着するなり、すぐに眠り込んでしまった。翌朝彼はロビーに降りて来て、備え付けの英字朝刊を手に取った。新聞の見出しには、調査共有委員会がアテネで「改正国際歴史記述調査共有委員会条約(改正条約)に関する会見」を行ったとある。

 改正条約とは、一九七五年条約を補完した取り決めで、来月九月七日にアテネのコロナキ・ホテルで調印式典が行われる。だが改正条約が大きく取沙汰されているのは、改正内容自体ではなく、寧ろアメリカなど主要先進国の新規加盟が決定したからだ。流し放しのテレビからは、会見の映像が流れてきた。

 大きく映し出されたスタニスラウス・モデラ委員長は、厳粛な口調で組織の展望を表明した。

「当委員会は、一九七五年の国際歴史記述調査共有委員会条約の発効以来、提唱者であり当委員会の名誉顧問も務める曄蔚文博士が掲げた理念の下、平和と協調を目指す国際機関としての姿勢を貫いてきました。加盟国間における歴史認識の齟齬を緩和し、当事国以外の国にも理解を促すことが、対話と譲歩による世界平和の実現において、如何ほど重要な意味を持つかは明白でしょう。しかし国際情勢の急激な変化に伴い、一九七五年条約では対処が困難な事例が急増したのも事実です。そこで当委員会は、改正国際歴史記述調査共有委員会条約の策定に取り組んできました。……改正条約の発効においては、現加盟国は勿論、新たにアメリカ・イギリス・イタリア・カナダ・ドイツ・日本の批准が得られたのも大きな成果です。これは政治・外交・経済・軍事などにおいて世界情勢を牽引する国家が、パワーバランスに依拠しない平和という選択肢を視野に入れた事を意味します。我々は改正条約によって新しい局面を迎えますが、今後も全ての加盟国に公平な研究と平等な対話の提供を保証し、歴史理解の共有を促すことで、過去の事象に起因した対立の芽を摘み続けていく所存です」

 会見映像の終了を見届けると、曄子仁はリュブリャナ行列車に乗るため部屋に戻った。ロビーには他に数人居たが、昨日のニュースだからか、画面に注目する者は一人もいなかった。


 曄蔚文は唯一の肉親である孫を溺愛していた。研究仲間や学生が知ると驚くだろうが、彼は孫を窘めた事すら無い。それで曄子仁のイギリス進学が決まると、彼は今回も骨を折り、甲斐甲斐しく手助けをした。

 二〇〇三年八月末、新生活の準備を一通り終えた曄子仁は、祖父とラッセル・スクエアのベンチに座って景色を眺めていた。祖父は午後からアジア・アフリカ研究院の知人に招かれて、小さな講演を行う予定である。その日彼は初めて、儼乎とした表情で孫と対峙した。

「私はお前がなぜ国際開発研究科に進学するのか不思議に思っていたが、専門分野が国際都市間の輸送インフラになっていたなんて今日初めて知ったぞ。修士課程では人文地理学を専攻していたじゃないか」

曄子仁は指摘を覚悟していたが、いざ祖父に糺されると酷く動揺した。

「実はずっと研究の方向性に行き詰っていたのです。それで僕の先生が中国と欧州を陸路で結ぶ研究をしなさいと。だけど今までの勉強とも無関係ではありません。というのも……」

 祖父が小さく溜息をついたので、孫は途端に口を噤んだ。暫しの沈黙を経て、曄蔚文は反論を許さない調子で話し出した。

「私にはその研究主題を提示した教授の意図が分かる。ユーラシア大陸を陸路で繋ぐ研究は、ここ二十年の未来を展望した時、金になるし役に立つからな。だが今の様子から察するに、お前はその展望を理解していないらしい。自分の研究が社会に与える意味を考えないなど、私には全くもって理解不能だよ」

「すみません」

 曄子仁は何度も練った研究意義を説明しようとして、早々と断念した。自分がどう弁明しても、祖父を納得させられそうにない。それを察したように、曄蔚文は一度深いため息を吐いた。

「お前とはいつも会話が成立しないが、まあいい。孫であって弟子ではないから」

祖父は普段の優しい口調に戻ったが、孫は居たたまれずに俯いた。

「だがこれだけは言わせてくれ。研究の意味とは……、それ自体に求められる場合もあるし、世間的位置付けで語られる場合もある。前者はより単純だ。渾沌に関心を見出し、新たな知見を齎すのは、それだけでも意義がある。後者の場合は、多くのノーベル科学賞が、発表から何十年も経った後に授与されるのと似ている。発表後の世界で、その研究が果たした役割を評価基準にしているのだ。では社会との関係を鑑みた時、より深刻な問題を抱え得るのはどちらだと思う?」

「後者ですか……?」

「勿論だとも。分かり易いのは研究が望ましくない影響を与えた時だ。実のところ、学術成果が生みの親の予期せぬ方向で利用された時、社会は必ずしもその研究者を責めないし、まるで被害者の様に看做す者すらもいる。だが私に言わせれば、それは研究者が負うべき責任だよ。その研究について誰よりも考えた人間が、からだ。あらゆる可能性を考えた上で、研究者は己が今発表すべきと結論付けた。その過程は決して軽視されるべきではない」

祖父は委縮する孫の背中に手を添え励ました。

「そう肩を縮めるな。今の話は寧ろ私への自戒なのだから。一段落着けば、お前にも改めて話そう―――」

 曄子仁は車内放送で目を覚まし、薄っすらと額に滲んだ冷や汗をハンカチで拭った。列車はまもなくリュブリャナ駅に到着する。降車する人々を見回すと、やはり四、五人のアジア系の男たちがこちらを見ている。彼は背を向けると、足早に駅を後にした。

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