第二話 調査共有委員会とその発足
フィデリオ兄弟が所属する「国際歴史記述調査共有委員会(調査共有委員会)」は、歴史的事象に対する解釈・見解及び認識を調査し共有するために創設された国際機関である。この委員会は「深刻な対立の原因となり得る歴史問題に関し、可能な限り公平な立場で調査と対話の機会を提供することで、歴史見解の共有を促す」という理念を掲げ、一九七五年の「国際歴史記述調査共有委員会条約(一九七五年条約)」の発効によって正式に成立した。
組織理念の基礎となったのは、一九六七年に発表された、「世界史における歴史認識の共有とその重要性に関する提唱(提唱)」という論文である。執筆者は当時北京の大学に在籍していた曄蔚文と李魁という二人の研究者で、彼らは自分たちの理論に影響を及ぼした先行事例として二つの出来事を挙げている。
一つは、ミュンヘンの歴史学者アルコル博士が一九三七年に発表したとされる「スペインにおける内戦と歴史理解に関する提言(提言)」だ。これは歴史に関する国際機関構想の先駆とも言え、後述する一九三九年の「歴史地理研究委員会」創設にも大きな影響を与えた。しかし「提言」は肝心の原本が早くから散逸し、一九三九年当時には既にロシア語版の概要だけが伝わっていた幻の論考で、その不可解な来歴故、実在について否定的な見方がなされている。調査共有委員会も、公式的には「提言」の存在に言及せず、自らを専ら曄蔚文の「提唱」に依拠して成立した機関であると位置付けている。
もう一つはソビエト連邦の教育者ピョートル・オステルマンが創設した「地理歴史研究委員会」である。これは「提言」概要に基づいて創設された唯一の組織でもある。実のところ曄蔚文たちの「提唱」は、この組織への批判として執筆された一面もあるので、やや詳しく説明したい。
初期の歴史地理研究委員会とは、多様な背景を持つ人々が居住する連邦において、地理歴史分野の研究方針や教育内容を定める部門だった。だが一九五〇年前後にオステルマンが長官を辞すと、その性格は次第に変化した。連邦内で政治的・経済的問題が次々表出する現況を、理論づけて正当化する役割を求められ始めたのだ。そのため依然優れた経済史研究が上梓される一方、僅少な史料とこじつけの理論を使用し、現在のソ連が正常な発展段階を遂げているという結論ありきの研究も少なくなかった。
曄蔚文らは「提唱」において、以上に挙げた一九五〇年代以降の歴史地理研究委員会の傾向を批判し、寧ろ歴史に関する認識齟齬を整理し共有する重要性を主張した。更に彼らは歴史問題の解決上最も避けるべき事態を、国際情勢や国力差によって済し崩し的に決着する状態だとし、公平で専門的な対話の場を設ける必要を説いた。互いの歴史の「見方」を尊重し、対話によって対立の芽を摘み続ければ、パワーバランスに依拠しない国際協調の実現に近づけると考えたのだ。
「提唱」は曄蔚文の伝手で、カナダの大学が発行する小規模な学術雑誌に掲載された。彼らの主張は、当時世界の動向を大分していた東西陣営には無視されたが、二度の大戦を経て隣国との関係が一層複雑化した国々の関心を集める事となった。
その中で委員会創設の事実上の担い手となったのが、ギリシャの反軍事政権派とユーゴスラヴィア連邦のスロベニア国だった。一九七三年には両国の首都であるアテネとリュブリャナに仮事務本部が設置され、七五年にはそれがアテネ本部へ一本化され、初代委員長にはスロベニア人民族学者モチュア博士が任命された。
アテネ本部は一九七三年に曄蔚文を顧問に招き、組織大綱の策定に取り組んだ。そこで委員会は現行の政治課題に直接関与せず、その背景にある歴史見識の齟齬に関してのみ、事実関係の確認や整理を行い、その共有を促すという方針が明確に示された。
こうして発効した「一九七五年条約」では、委員会と加盟国の関係を次のように記している。
調査共有委員会は、対立する歴史見解について、可能な限り公平な立場で調査を
行い、その成果を『総論』によって誠実かつ簡単明快に提供する。全ての正規加
盟国は、『総論』の内容を正規加盟国全体が共有すべき共通見解とし、その内容
と明らかに背反する主張を放棄する。
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