セビーリャの囚人

江島

セビーリャの囚人①

第一話 フィデリオ兄弟とアテネ本部

【二〇〇四年八月二三日/ギリシャ・アテネ】

 ペレウス・フィデリオはアテネ在住の一九七二年生まれ。この度自身が勤務する「国際歴史記述調査共有委員会」の辞令で、九月一日付けで北京本部長に就任することになった。引越作業が一段落ついた彼は、リカヴィトスの丘にあるアテネ本部へ車で向かい、二日ぶりに自身の所属する記録保管室へ私物を取りに行った。

 するとどこから聞きつけたのか、弟のアントニス・フィデリオが扉口に現れた。彼は兄より二歳年少だが、昨年最年少で委員会の幹部格に当たる上級委員に就任し、モデラ委員長の一人娘と婚約した出世株だ。人当たりがよく明朗快活な弟は、兄のために送別の品を用意していた。敢えて職場を訪れたのは、事前に予定を尋ねたならば、何かと理由をつけて断られると知っているからだ。

 ペレウスのデスクを挟んで二人が並ぶと、同僚たちは地元出身の兄弟の会話に自然と耳を傾けた。尤も彼らが注目しているのは、同僚ではなく上級委員の方だが。

「兄さん、一昨日の会見はお疲れ様」

アントニスが言及したのは、モデラ委員長が八月二〇日に行った「国際歴史記述調査共有委員会条約の改正に関する会見」である。その際ペレウスは司会進行役を務めた。

「もう荷物の運搬は済んだよね。と言っても、アパートは借りっ放しにしておくのだったか」

「ああ。アテネには頻繁に来ることになると思うから。来月七日の調印式典にも参列するし」

「行ったり来たりで大変だね」

「別に移動は苦じゃないよ。そうだ、確かお前は去年北京に行ったんだよな」

昨年の結婚式の後、アントニスはモデラ委員長と共に、義父が恩人と慕う名誉顧問曄蔚文博士の自宅を訪ねたという。

「覚えていてくれたんだ。でも実は結局行かなかった。曄蔚文博士は留学するお孫さんを見送るために、急きょロンドンに滞在していたから、そこにお邪魔したのさ。それで―――」

 ペレウスは特別関心を持って訊いたわけではなかったため、話を続けようとする弟を遮り、それとなく自分の部署へ戻るよう諭した。アントンは慌てて小さな包みを差し出して、自分が兄に会いに来た目的を示した。

「これを渡したかったんだ。昇進のお祝いに」

「ああ、わざわざありがとう。気を遣ってくれて。アントンも無理するなよ」

「兄さんも気を付けて。明日アテネを発つなら、明後日には北京に着くのだろう?」

ペレウスは俄かに表情を曇らせた。ここ一か月、弟は何度も彼に北京までの移動スケジュールを確かめた。まるでちゃんと道草を食わずに北京へ向かうか念押ししているようだ。

「はあ、以前から何度もそう言っているじゃないか」

弟は明るい声で食い下がった。

「ごめんごめん、心配しているだけだよ。北京本部は色々あったからさ」

 北京本部は加盟国に一か所ずつ置かれる本部の一つで、委員会の出先機関としてアテネ本部と加盟国を繋ぎ、下位組織である支部を統括する役割を持つ。前任者であるクラウディア・リゲル本部長が一年足らずで突如退職し、任期四年のポストが空白となったのは六月初頭の事だ。委員長と上級委員から成る人事会は至急後任の選出を行う必要に迫られ、そこで白羽の矢が立ったのがペレウスだった。

「私なんてリゲル本部長の後任には不相応だよ。四年どころか半年も持たないかもしれないな。そもそも中国の専門家でもあるまいし」

「途中で退任しても良いじゃないか。無理して取り返しがつかなくなるよりよっぽど良い」

 アントンは純粋に兄を励ますつもりだったが、実力不相応と言われた気がしたペレウスは、余所余所しい微笑みを浮かべて再度弟を促した。

「私はそろそろ帰る。荷物を取りに来ただけだから。お前も自分の職場に戻りなよ」

 結局アントニスは駐車場まで見送りに来た。本当は明日空港まで送りたいが、それこそ兄から露骨に嫌がられるだろう。ペレウスはそそくさと車に乗り込むと、振り返らずに市街へ続く坂道を下って行った。アントニスが陽炎の中で彼をずっと見送っているのを知りながら。


 二人の幼少時を知る者は、彼らが大変仲の良い兄弟だったと断言するに違いない。しかしここ一年、凡そ十四年ぶりに同じ街で暮らしていたにも拘らず、ペレウスは弟を避ける事が多かった。尤もやや根暗で一匹狼的な面を持つ兄が、優秀で明朗な弟を敬遠したとして、特に不自然では無いのだが。アントニスは事ある毎に兄と交流を持とうとしたものの、結果としてそれが裏目に出ることも少なくなかった。

 ペレウスは再びネア・スムルニの集合住宅に戻ってきた。八月下旬のうだるような外気のせいで、カーテンを閉め切った無人の部屋でもすぐに汗ばむ。彼は荷物を床に置いてソファに腰かけると、弟から受け取った包みを開いた。胴色と茶色で塗られたバイカラーの箱で、中にはペリカンのボールペンが収まっている。アントニスは賢く理性的な好青年だが、だからこそ沢山あるメーカーの中からわざわざペリカンを選ぶ所は何となく嫌みに思える。彼は手早く包装を処分し、ペンだけを自分のカバンに差し込んだ。

 テッサロニキとアテネを拠点に海運業を営むフィデリオ夫妻は、二人の息子がそれぞれアテネの大学とオクスフォードのコーパス・クリスティ・カレッジに進学し、いずれもアテネに総本部を置く国際機関に職を得た事を誇りにしていた。子供の頃は天文学者になりたいと話したアントニスは、高校を卒業して渡英すると、兄を追い駆けるように歴史学を修めて調査共有委員会に就職し、その都度兄を凌駕する結果を出したのだった。

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